追憶

 ──売春をした少女がいると。そんな噂を俺が聞いたのは、中学三年の夏の頃だ。

 

 最初こそ、たかだか数人のグループで騒がれる程度の世間話だったはず。

 嘘は本当かすら定かではない。その瞬間の暇を潰せるからと、いるかすら分からない空想の女を創り囃し立てただけ。七十五日など待たずとも、三日も経たずに消え失せる話でしかなかった。


 そんな噂が周囲の事実へと決定的に変わったのは、隣のクラスで囁かれた一つの疑心が原因なのだと、どこかで小耳に挟んだことがある。


『──あいつ、男とホテルに入ったんだって!!』


 考えなしの人気者に指差されたのは、クラスにいた地味な少女。

 人気者でもなくぼっちでもない普通の少女は、ある日を境に春を売った少女へと仕立て上げられた。


 それからというもの、隣のクラスでは黙認されたいじめが行われていた。

 噂に踊らされた生徒は彼女を蔑み、元々生徒に興味の無かった教師達は保身に走るだけ。

 事実無根に人生を狂わされた一人のか弱き少女。

 前世の大罪を償わされるかのように虐げられる彼女を助ける者はおらず、その光景を見ることのなかった俺もまた他人事のように思ってしまっていた。


 ──その認識が後悔になったのは、とある放課後の一幕を目撃してしまったときだ。


『おらっ! 抵抗すんなよ売女がよお!?』

『どうせきたねえおっさん共に媚び売ってんだろ!? 今更一丁前に恥ずかしがってんじゃねえぞ!?』


 見てしまったのは地獄。今まで見たあらゆる悪行が生温いと思えてしまう、形容しがたい人の業。

 嫌がり叫ぶ一人の少女を囲み、何かをする複数の人。少し遠かったので断言は出来なかったが、彼女を嗤っているのは学年でも有名な人気者達のはず。

 

 周りからの評価も厚く、勉強と部活動の両方でも活躍している彼ら。

 手の届かない輝きを持った人達。そんな人達が、同じ人であるはずの少女を愉しそうに辱めているのだ。

 

 どうしてここまで人を傷つけられるのだろう。どうしてそれほどまでに、他者へ悪辣をふるまえるのだろうか。

 今の俺ですら目を背けたくなる光景を、十五の子供に受け止められるわけがない。

 必死で口を手で押さえ、こみ上げてくる何かを漏らさぬように逃げることしか出来なかった。


 逃げてトイレに駆け込んで、そして吐いた。

 何も出来ない自分。これほど残酷な仕打ちにすら、気付くことなく咎めもしない教師達おとなたち。同じ教室にいながら、目を背けて他では笑う生徒達。

 失意の中で聞こえてきたのは、そんな平凡で平らな価値観の土台を一気に崩す雪崩音。

 何もなく一人で過ごすだけの学校生活。それを不幸だと思って生きていた自分が、いかに甘ちゃんで現実知らずかを身に刻み込ませる巨大な杭。

 

 ──そしてなにより、なにも出来ずに見捨てて逃げた、愚かな自分への失望。

 

 ぐちゃぐちゃに混ざって残り続ける感情。

 恐怖、後悔、憤怒、諦観、安心。

 ふらふらと家に帰って布団にくるまりながら、抱いた思いの全てが俺を押し潰す。


 ごめんなさい。ごめんなさい。見捨ててしまってごめんなさい。

 

 目すら合わなかった被害者の少女になのか、それともただ口に出して安堵したかっただけなのか。

 ──どちらでもない。身勝手で臆病な弱者おれは、ただ自分に言い訳したかっただけだ。

 

 楽しめるものだけが愉悦に浸る世界。

 真面目に生きていない人がのうのうと生を謳歌し、まともに生きている人が、些細な切っ掛けで上れない奈落に引きずり込まれる世界。


 ──くだらない。こんな世界で笑えている自分が、気持ち悪くて仕方ない。

 

 初めて校則を破ったのは、それがあった次の日からだ。

 どうせ何も言わない教師が相手なら、なにをしても構わないだろうと。そして仮にバレてたとしても、こんな連中に何言われてもどうでもいいと、そう思って。

 

 そして十一月のある日。

 あれほど鮮烈だった記憶に蓋をし終わり、すっかり校則破りが習慣になりつつあった頃、俺は一人の少女と出くわしたのだ。


『──っ、んぐっ』


 誰の声も聞きたくなかった俺が見つけた、滅多に人の来ない隠れ場。

 ぼっちに優しい空間であった屋上前の踊り場に、彼女は俯きながら嗚咽を漏らしていた。

 

 それを初めて見たとき、俺は白状にも邪魔だと思ってしまった。

 見たくもない人の顔。吐き気すらこみ上げる不快な空気。

 息の詰まる広い牢屋から少しでも長く離れたかった俺にとって、彼女は厄介者でしかなかったのだ。


 ポケットに手を突っ込み、懐に忍ばせていた温いココアの缶を握りながら思案した。

 ここで飲もうとしていたココア。糖分を欲している今の体が、この後の授業に耐えられるとは思えない。

 けれど、このまま黙って立ち去るのもなんだか気まずい。この女のことなどどうでも良いが、この女を残して去ったことで生じる罪悪感が嫌でたまらなかった。

 

 二つに一つ。どちらを選ぼうがしこりの残る、実に気に入らない選択肢。

 狭い空間に響くのは彼女の呻きだけ。こちらに気付いているかすら曖昧で、見なかったことにして立ち去ることも出来るくらいに選ぶことが可能な状況。


 ──そう、あのときと同じ。弱く情けない少年が逃げ出した、既に遠い過去のように。


『……これやるよ。甘いもんでも飲んで元気出せよ』


 ココアの入った缶を彼女の前に置き、出来るだけ心を出さずに話しかける。

 誓って言うが、彼女の正体が春売り──隣のクラスのいじめられっこだとは知らなかった。

 どうせどっかのクラスで喧嘩でもしたのであろう、名前すら知らない普通の同級生に話しかけたつもりだったのだ。


 振り返れば実に気持ち悪い行為。どこまで自分に酔えばこう振る舞えるのかと、思わず自分で嗤いたくなる言動。

 けれど仕方ないことだ。一対一で女子と話すなんて学生らしい出来事は、姉と母を除けば高校初日の春見桜かすみさくらが初めてだったのだから。


『こんな場所で辛い思いしてんなら、とっとと逃げちまった方が楽で良いぞ。……んじゃな』


 校則を何とも思ってないと思わせる軽い声色を心がけながら、手を振ってそそくさとこの場を離れていく。

 これでいい。人生で一二を争うくらいには恥ずかしいが、どうせ互いに名前も知らない程度の関係でしかないのだ。

 

 推測通り、結局彼女とはそれっきり。

 俺の違反が報告されたこともなければ、あれ以来一度たりとも再会することはなかった。

 

 だからこの話はここで終わり。

 ──少なくとも俺にとっては、すぐに忘れる程度の過去でしかなかったのだ。

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