第二話
不動産屋を出た私は、桃花が入院している病院へと向かった。容体は以前変わらない。家から持ち込んだウサギのぬいぐるみに見守られながら、桃花は可愛らしい顔で眠っている。夢を見ているのだろうか。しばらく枕元で話しかけた後、洗濯物と新しい着替えとを交換して帰路についた。
家に帰るのは勇気が必要だった。
祖母の葬儀の夜に足音を聞いて以来、それまで真夜中にしか起こらなかった怪しい現象が、昼夜を問わず起こるようになっていた。最初は日が落ちてから、そして今は白昼までもが油断できない時間帯になっている。明るい時ですら背後に気配を感じて振り向くことがあり、それも本当に何かいるのか、疑心暗鬼なのかすら判然としない。
それでもこの家を出ていくという選択肢は、今の私にはなかった。家の中で感じる気配の中には、桃花らしきものもある。私は以前鬼頭さんに言われたとおり、努めて桃花に呼びかけるようにしていた。
桃花の気配を感じるのは家の中だけだ。絶対に私ひとりで家を出て行くわけにはいかない。
桃花も一緒でなければ絶対に駄目だ。
「美苗さん! おかえりなさい」
玄関を開けると、音を聞きつけたらしい綾子さんが廊下の奥から嬉しそうにやってきた。
これまでとあまり変わらないのは綾子さんだけだった。減ってしまったがそれでも多人数分の家事を淡々と片付け、家全体をきれいにし、例の部屋にも相変わらず風を通している。当たり前のように桃花の洗濯物を受け取ると、手を洗って戻ってきた私に「桃花ちゃん、どう?」と尋ねた。
「昨日と同じ」
「そう。早く目が覚めるといいね」
あっさりと受け答えしてもらうのが楽だった。「可哀そうに」などと言われたら、いたたまれなくなって泣き出してしまうかもしれない。彼女といると、安心できるようなできないような、奇妙な気持ちになった。
「昼間、昨日の残りの唐揚げでもいいかしら」
綾子さんが尋ねる。「放っておくと傷んじゃいそうで。ほら、いつものくせでたくさん作っちゃったのに、おとうさんもおかあさんも圭さんもいないのよ。今日」
朗らかな綾子さんの声の合間に、みし、と床板を踏む音がした。
私たちが今いるリビングではない。廊下だ。
「もちろん。用意してもらえるだけで御の字だもの」
みし、みし、みし
足音を無視したくて、私はわざと大きめの声で答えた。
「よかったぁ。そうだ、甘酢あんかけにしようか。わたし、好きなのよ」
足音はゆっくりと、緩慢に、しかし確実に近付いてくる。
「私も好き。でもほんと、適当でいいのに。手間じゃない?」
昼食の話に集中しようと思っても、私の視線はリビングのドアに引き寄せられてしまう。
ドアにはめられた縦長の磨りガラスの向こうに、人影らしきものが立っている。
今日この家にいるのは、私と綾子さんだけのはずなのに。
「いいのいいの、もう甘酢あんかけ食べたい口になっちゃった。お昼は決まりね。あと作り置きからもう一品出して、ご飯を炊いて、汁物作って終わりかな。楽しちゃうわね」
「もう、全然楽じゃないでしょ!」私はまた大きめの声を出す。「楽っていうのは外食とか、せめて出前くらいとらなくちゃあ」
磨りガラスの向こうで、小柄な人影が揺らぐ。
「ふふふ。じゃあ、お昼の支度始めちゃうね」
みし、みし、みし
「何もかも綾子さんにやってもらっちゃって悪いわね」
「いいのいいの。美苗さんは平日仕事なんだし、お見舞いもしてるんだから疲れるでしょ。わたしは家事が好きだし、それに最近はやることが減ってずいぶん楽なの」
綾子さんの口調は少し寂しそうだ。確かに手間は減っただろう。綾子さんは祖母の食事に気を遣っていた。祖母にだけ柔らかい食べ物を用意したり、誤飲を防ぐために汁物にとろみをつけたり、手間をかけてくれていた。でも、もうその必要はない。
みし、みし、みし
足音がまた、ゆっくりと遠ざかっていく。
この足音が綾子さんにも聞こえているのかどうか、私には今確認する勇気がない。「聞こえる」と言われるのも、「聞こえない」と言われるのも怖ろしい。
みし、みし
あのゆっくりした足取りは、気のせいだろうか、祖母によく似ている。
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