第3話 烏天狗

 一方、犬神は森の中を飛び回っていた。目の前にいるのは中型の悪鬼。そこそこ死霊の魂を喰らっていそうな大物だ。彼は犬神の放つ霊気に恐れをなしたのか、ギイギイと鳴きながら逃げ回っている。  

 犬神は悪鬼の目の前に躍り出ると瞬時に飛びかかった。獲物を追い詰めるときは得体のしれない高揚感があり、ゾクゾクする。狩猟本能はやはり犬の妖としての定めなのだろうか。鋭い爪と太い腕で悪鬼の胴体を貫くと、妖としての本能が自分の体の底から湧き上がるのを感じた。

 彼らが人型を保っていられるのはあんずの霊力。だが、悪鬼を葬ることにより得られる霊力は、妖自身の力になる。闘争本能を刺激された犬神は、他に悪鬼がいないかぐるりと当たりを見回した。血のように赤い瞳は、飢えた獣のように鋭い光を増している。

 刹那。

 ズンと空気が重たくなった。まるで金縛りにあったかのように体がぐっと締め付けられる。ものすごい殺気と霊気だ。だが、犬神はぐっと腕に力を入れ、自身にまとわりつく霊気を打ち消した。


「ほう、俺の神通力が通用しないとは。お前、やるな」


 突然低い声がした。犬神はハッとして左右を見回す。同時に、バサッバサッと羽音がして、声の主が上空から降りてきた。尖った鷲のようなくちばし、修験者の衣服から覗く黒い顔と手足、漆黒の大きな翼を見て、犬神の赤い瞳が細くなる。


「お前は……烏天狗か!?」

「いかにも、俺がそうだ。そういうお前は何だ? 人間のナリをしているが、人間の気配ではないな。貴様妖か」


 烏天狗がギロリと金色の目を向ける。猛禽のような鋭い視線が、犬神の目を捉えた。その殺気に一瞬背筋がゾワリと総毛立つが、犬神は不敵にニッと笑う。


「だからどうしたんだよ。てめぇを殺せば、大きな霊力が喰える。覚悟しろ」

「ふん、意地汚い犬畜生め。食うに困って同族を狙うとは浅ましきものよ。返り討ちにしてくれるわ」


 烏天狗が言い終わる前に犬神が飛びかかるが、サッとかわした烏天狗が手に持つ錫杖を振り下ろした。脳天を叩き割る気だ。だが間一髪で受け止めた錫杖を、犬神は渾身の力で振り払った。


「くっ……!」

 

 薙ぎ払われた錫杖と共に烏天狗が体制を崩す。そのまま首を取ろうと犬神が烏天狗に飛びかかり爪を振りかざした。だがその爪が首を捉える寸前に、突如巨大な突風が吹いてきて犬神の体は弾き飛ばされた。そこそこ筋肉質な体をしているはずだがいとも簡単に吹き飛ばされ、木にぶつかった衝撃で骨がミシリと鳴った。


「ぐはっ!」


 背中を強打し、犬神は呻いた。慌てて体制を整えようとするも、息もできないような大風が前方から吹き付けて身動きが取れない。 

 見ると、烏天狗が大きな葉団扇を振りかざしてこちらを睨めつけていた。


「クソってめぇ卑怯だぞ!」

「卑怯も何も、俺の武器だ。貴様のように爪と牙だけが取り柄の畜生とは違う」

「うるせぇ! てめぇのような鳥ガラは俺が八つ裂きにして喰ってやるからな」

「はっ戯れ言を」


 木に縛り付けられたまま吠える犬神に、烏天狗が失笑で返す。右手で錫杖を構えた烏天狗は、左手で仰いでいた葉団扇をピタリと止めた。


「俺はお前に何の恨みもないが、俺の住処で騒いだ上に突っかかってきたのはお前だ。悪く思うなよ」


 そう言うと烏天狗は錫杖を振りかざし、切っ先で勢いよく犬神の胸を貫いた。錫杖の先は人間の肉体を容易く貫通し、木の幹に突き刺さる。


「ぐっ……げはっ!」


 肉が裂かれる感触と共に犬神は吐血した。赤い鮮血が口から溢れ、地面を塗らす。妖ゆえ肉体を傷つけられるくらいでは簡単には死なない。だが、犬神は錫杖の柄を掴むと、力づくで引き抜き烏天狗と睨み合う。


「てめぇ、絶対に許さねぇからな!」

「ふん、人間と同じ姿形をしているがゆえに心の臓を狙ったのだがな。所詮貴様も妖か」

「うるせぇ! そのきたねぇ炭色の翼を食いちぎってやるからな!」


 そう吠えると、犬神は錫杖の柄を振り払い、再び烏天狗と対峙する。錫杖が引き抜かれた穴からは鮮血が滴り落ちていた。


(クソっまずいな、霊力が抜けていく)


 体から何かが流れ出ていくような感覚に、犬神はギリッと歯噛みした。肉体を傷つけられたことで、その修復と維持に霊力をとられ、体にうまく力が入らない。歯をむき出しにして威嚇の姿勢を見せる犬神とは裏腹に、烏天狗は涼しい顔をしていた。


「弱い犬ほどよく吠えるとはその通りだな。無様な貴様にピッタリの言葉だ」

「お前こそ鳥頭のくせに、難しい言葉を知ってるじゃねぇの」

「やれやれ、減らず口とはこのことを言うのだろうな、死ね」


 烏天狗が再び錫杖を振り上げたその時だった。ヒュッと風を切る音がして何かが犬神の頬を掠めた。同時に「ぐわっ」と声がして烏天狗の手から錫杖が弾け飛ぶ。見ると、凄まじい霊気を放つ護符が錫杖の柄にピタリと貼り付いていた。


「犬神! 大丈夫ですか!」

「お嬢!」


 バッと振り向くと、巫女服姿の女性がこちらへ走ってくるのが見えた。杏だ。急いで犬神に駆け寄ってきた杏は、胸に穴が開いた犬神の姿を見てハッと息を飲んだ。


「あなたの霊力が落ちたと思ったら、こういうことだったのね。珠は無事!?」

「かすりそうだったが傷はついてないみてぇだ。それよりお嬢、あいつはやばい、気をつけろ」


 犬神の言葉に、改めて杏は目の前の敵を見据える。黒い山伏衣装に黒い顔と手足。黒い翼を持つ烏天狗を見て杏はキッとその金色の瞳を睨みつけた。


「烏天狗ですね、丁度良いです。調伏しましょう」

「ハッ小娘ごときが俺を調伏するなぞ百年早いわ!」


 馬鹿にされたと思ったのか、烏天狗が錫杖に手をのばす。だが、まだ護符の力が聞いているのか、バチッと音がして彼の手は弾き飛ばされた。


「彼の武器は封じたわ。犬神、いけますか?」

「完璧だぜお嬢、後は俺に任せな!」


 犬神が目を爛々と光らせながら犬歯をむき出しにする。だが、烏天狗は涼しい顔でふんと鼻を鳴らした。


「馬鹿め。俺にはまだこれがある!」


 そう叫ぶと、烏天狗が左手に持つ葉団扇を大きく振った。同時に竜巻のような突風が生じ、二人に容赦なく襲いかかる。杏が咄嗟に呪符で簡易的な結界を貼って対抗した。多少威力が軽減された為に体が吹き飛ばされることはなかったが、あまりの強風に前を向いてはいられないほどだ。


「クソっこの風が面倒クセェ! 見た目通りに陰険な手を使いやがる!」

「この強風を何とかしないといけないわね」


 同じく風に耐えながら杏が息を切らしながら答える。結界を貼ってはいるものの、空間が大きく揺さぶられ、今にも破られそうな程にビリビリと振動している。

 

「皆、緊急召集よ。今すぐに集まってください! この声が聞こえた者はすぐに私の元へ集まるように!」


 杏が声を張り上げて命令する。どこかにいる他の三人に向けての招集号令だ。杏の声は彼女の霊力を通して彼らに伝わる。だがよほど遠くに行ってしまったのか、すぐに呼びかけに答えるものはいなかった。


(私は妖達を全然制御しきれていない……これでは神職者として失格だわ)


 まるでこちらに近づいてくる気配のない他の妖達を思い、杏は内心で歯噛みする。だがそれを考えるのはこの状況をなんとかしてからだ。

 他の仲間達の助けを得られない以上、ここは二人でなんとかするしかない。杏は大きく深呼吸すると、隣にいる犬神の赤い瞳を見上げた。


「犬神。今から私があなたにありったけの霊力を注ぎます。この強風の中でも動けることを確認したら、彼を倒して。命までは取らないでちょうだいね、彼はこの後我々の支配下に置きますから」

「わかった。だがお嬢は平気なのか? 霊力を使いすぎると、お嬢にも影響があるんじゃないのか?」

「これくらいは平気よ。私だって頑張るわ!」


 怒鳴るように言い返すと、犬神がぐっと口をつぐんだ。彼もそれしか方法がないことを理解したようだ。大丈夫だと安心させるように軽く微笑むと、杏は両手で印を結んだ。


「いくわよ! 結界を解きます!」


 叫ぶと同時に結界を解き、瞬時に犬神に向けてありったけの霊力を注ぎ込む。途端に体からみるみるうちに何かが抜けていく感覚に襲われて、杏は思わず膝をついた。他の三人の妖が自在に動き回っているせいで霊力の消費が激しい。だが、これは日頃彼らを統率しきれていない自分のせいでもある。

 まるで栓が抜けたように体から抜け出していく霊力と共に、隣にいた犬神が地面を蹴ったのが見えた。


「なっ貴様……! なぜこの風の中でも動ける! うっクソッ……ぐあぁぁぁぁぁ!」


 烏天狗の絶叫が響き渡る。おぼろげな視界の中で、犬神の爪が烏天狗の翼を引き千切ったのが見えた。そしてそれが最後の光景とばかりに杏の視界は反転し、そして闇となった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る