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一ノ瀬さんには色々な噂がある。女はとっかえひっかえ。女日照りになったことはない。百戦錬磨の男。
とてもいい人で、上司としても最高なのに、良い噂なんかないじゃない。
モデルの仕事をしていたから、そう言われてしまうのかもしれないと、ちょっと思ってしまう。
モデルをしていたことは本当みたいだけど、モデル時代のポートレートが見てみたい。どんなモデルだったのだろうか。
落ち着いていて、包容力がある大人の男。そんな言葉がぴったりだ。
哲也は子供の様で、いつも私に怒られていた。反省もしないで、舌を出しておどけて許してもらうのが、いつものパターン。私は哲也の笑顔に弱かった。
最近、一ノ瀬さんと哲也が重なって見えることがある。まったく正反対の二人なのに、それは何なのだろう。
「桜庭はコーヒーでいいのか?」
「え? あ、はい」
「モーニングセットとコーヒーを単品で、テイクアウトします」
ぼーっとしていたら、一ノ瀬さんが注文していて、会計まで終わっていた。
「いつもごちそうさまです」
テイクアウトしたものを袋に下げ、また事務所に戻る。終業時間は一応決まっていて、9時から18時。まだまだ人は出勤してこない。
昨日の慌ただしさは残っていて、一ノ瀬さんはその対応に追われているから、今朝も早く出勤したのだろう。
「向こうで食べません?」
「ん? ああ、いいよ」
事務所にはテラスがある。と言っても、外ではなくて中にあるのだが、パーテーションで仕切られていて、食事をしたり休憩できるスペースになっている。外の景色を見るのもいい。
「今度の舞台だが」
「はい」
シャインプロは、舞台だけじゃなくて、いろいろな制作指揮も手掛けている。毎年、舞台を企画しているのだが、今回は主演男優の、芸能生活20周年記念舞台と言うことで、大々的に宣伝をして全国の劇場を回る予定だ。
「制作発表記者会見を手伝って欲しいんだが」
「ええ、構いませんよ。そのつもりでいましたから」
「今回の件で、スタッフが足らなくてね。デスクなのに悪いな」
思わぬ災難で人手不足となった。事務方スタッフや現場マネージャー、上層部と方々に謝罪に回っている。売り出し中だった彼は、スケジュールも一年先まで埋まっていたのだ。
それに加え、番組改編時期でばたばたもしている。番組改編時期は、新人を売り込むのにもいい時期だからだ。
「謝らないでくださいよ。代休はしっかりといただきますから」
「そうしてくれ」
「一ノ瀬さんこそお休みになってませんよね。体に気を付けてくださいよ? この暑さですし」
「ああ、気を付けるよ。さあ、食い終わったし、仕事を再開するか」
「はい」
両手をぐんと延ばして背伸びをすると、一段と背が高く見える。哲也も身長があった方だけど、一ノ瀬さんほどじゃなかった。
「どうかしたか?」
「え? あ、いえ、背が高いなあって見てただけです」
いけない、ついじっと見てしまった。
「意外と生活が不便なんだぞ、羨ましがられるけどな。さ、仕事だ」
一日に何回「背か高い」といわれるのだろう。その度にうんざりしているはずだ。でも、つい言ってしまう。
「はい」
シャインプロダクションは所属タレントも多く、子役から練習生までいる。社屋は、レッスンルーム、仮眠室、もちろんシャワールームもサウナもある。レッスンルームなどは、ダンス、ボーカル、楽器の練習が出来るようになっているし、それに撮影スタジオもある。記者会見が行えるような会議室もあり、ドラマや映画、舞台で使う小道具なども保管してある。近年、この小道具が増えて、倉庫を借りるという話が持ち上がっていた。普通の会社にはない設備と、部屋が沢山あるのが、シャインプロダクションの特徴なのだ。
「おはよう」
「瑞穂、おはよう」
着ていたカーディガンを脱いで、デスクのハンディ扇風機を顔に当てる。
「すっごく暑い……」
さらに顔にハンカチをあてて汗を拭く。顔が暑さで赤くなっていた。
「しばらく続くわね」
「でも美緒は涼しい顔をしてるじゃない」
「早く目が覚めちゃって、いつもより早く出勤したのよ」
「……夢……?」
「違うわよ、夢で起きちゃうなんて、子供じゃあるまいし。さ、仕事」
とっさにはぐらかしてしまった。
瑞穂には、月命日に休みを取ってお墓参りをしていることも、直接哲也のことを話したこともない。弟と付き合う前は、彼氏を紹介してあげると、世話好きの彼女は頻繁に合コンに誘って来たけど、弟の彼女になると、哲也のことを聞いたのだろう、誘いをぱったりとしなくなった。
そして、夢で眠れないことも知っている。心配をかけていることも分かっているけど、気持ちの整理がつかないのだ。
今年は哲也の七回忌だが、私の時間はあの時から進んでいない。
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