第79話 小日向さんの色仕掛け
突如として始まった、小日向の俺を取られまいとするムーブは、週末になるころには徐々にと落ち着きを見せてきていた。
もともと俺に話しかけてくる物好きなんていなかったのだし、小日向も俺と一緒に過ごしていれば、いかに俺に対して他の女子が無関心なのかわかるはずだ。俺に近づいてくる奴がいるとすれば、それは景一関連か小日向関連の二択だからな。
で、小日向がある程度落ち着くまでの間は、たとえ学校の中であろうとピッタリと寄り添うように過ごしていたわけだが、俺は彼女のその行動を迷惑に思うことはなかった。
もちろん、俺の中にも恥ずかしい気持ちや周囲に申し訳ないような気持ちもあったのだけど、それらは脳裏に焼き付いた小日向の笑顔に上書きされてしまう。なぜ写真に収めなかったのかと何百回悔やんだことか。
大天使小日向の笑顔を目の当たりにした俺が、より一層彼女を好いてしまうのは当然のこと。林檎が木から落ちるぐらいには必然である。
その光景はあまりにも衝撃的で、月曜日は小日向を家まで送り届けるのを少し遅らせてしまったぐらいだ。
小日向がいやいやと帰宅を遅らせようとすることは今までも何度かあったが、俺が「まだ大丈夫だろ?」とか「静香さんには俺が言っておく」だなんて言って、少しでも小日向を引き留めようとしたのは今回が初めてのことである。
土曜日の夜。
喫茶店『憩い』でのバイトを終えて帰宅してから三十分が経過したころ、静香さんの送迎により小日向がマンションへとやってきた。もはや恒例となってしまっているお泊まりの日である。
建物の前に車を停めた静香さんが、窓から顔を出して「やっほー」と気さくな挨拶をしてきたので、俺は頭を下げる。
「いつもありがとうございます。静香さん」
「いいのいいの。智樹くんは明日バイト休みなんだよね? 遅くなるなら夜に迎えに行こうか?」
「暗くなる前には家まで送り届けますから、大丈夫ですよ」
「そっかそっか。まぁ何かあったら連絡してくれればいいよ」
そんな当たり障りのない会話を静香さんと繰り広げていると、助手席から降りた小日向が、リュックを背負った状態でテテテとこちらに駆けてくる。
「おいおい、荷物があるんだから走ったら危ない――」
――ぞ。と、いい終えるのと同時のタイミングで、小日向が俺の胸に頭突き。そしてその流れで俺の腰をホールド。今回は頭を摺り寄せることはなく、まるで俺の臭いをかぐかのように顔をピトリと俺の胸にくっつけていた。
いやもう抱き着いてますやん。遠距離恋愛で離ればなれになった恋人の再会ですやん。
「あー……なんかすみません」
自分でもどういう理由で謝ったのかは定かではないが、相手の身内が目の前にいるという気まずさに敗北し、思わずそんな謝罪の言葉がこぼれてしまう。
「ひゃーっ! 相変わらず青春してるねーっ! 明日香、智樹くんのことを襲っちゃダメだからね? 寝ている隙に――とか考えちゃいけないよ?」
ふざけたことを落ち着いたトーンで言う静香さんの言葉に対し、小日向は俺の胸に顔を付けたままコクリと頷く。意地でもくっついておきたいのかお前は。可愛い。
というか、その姉妹のやりとりはどうなんだ。小日向みたいに可愛らしい女子が男を襲うとか……一般的じゃないことはたしかだよな? え? 俺の感覚がおかしいわけじゃないよな?
冗談――なんだよな?
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
時刻は夜の十時前。それぞれ夜ご飯は済ませているので、俺たちに残されたイベントといえば、せいぜいお風呂と就寝の二つだけである。
空いた時間にはテレビやゲーム、映画などの選択肢があるのだが、再来週から期末考査が始まってしまうので、小日向のためにもそろそろ勉強を開始しておきたいところ。
「小日向、期末の勉強はいつから始める? 寝る前に少しやっておくか?」
「…………(ぶんぶんぶんぶん)」
いやいや期の子供かよ……可愛すぎだろ。
「余裕を持って準備しておいたら、あとあと楽だぞ? ちなみにテストを諦めるのは却下」
まぁこの土日はいいとしても、月曜日からは始めたほうがいいだろう。
小日向は以前の勉強会から、授業を少し真面目に受けるようになっているようだが、それでも少しだけである。
席の都合上、俺からは授業中に小日向の姿はあまり見えないのだけど、景一の席からは彼女が落書きしている姿が見えるらしい。景一がたまに俺に報告をしてくれるのだ。チクるとも言う。
で、俺に忠告を受けた小日向はというと、唇を可愛らしく尖らせて不満をあらわにしていた。
このままその桜の花びらのような唇にキスをしたら、いったい彼女はどんな反応をするんだろうか――と一瞬考えてしまったけれど、付き合ってもない俺がしたら間違いなくアウト。ビンタとかされるかもしれない。
小日向がビンタするとしても、ぺチとか軽い音になりそうだなぁと心の中で笑っていると、彼女はテーブルに手をついてからスッと立ち上がり、俺の肩を両手でつかむ。それからぐいぐいと俺の身体を回転させるように力を入れ始めた。
「? あっち向けばいいの?」
「…………(コクコク)」
俺は小日向に言われるがまま、床に手をついて身体を九十度反転させた。
いったい急にどうしたんだろう? まさかとは思うが、俺があまりに勉強させようとするから、「お前の顔なんて見たくない!」だなんて思っていないよな? 後ろを向く前に見た表情は、怒っているような感じではなかったけど。
首を傾げながら頭を悩ませていると、背後からはスルスルという衣擦れの音が聞こえてくる。
この音……まさか小日向のやつ、服を脱いでるんじゃないだろうな? 気のせい? お風呂に入るにしてもここは脱衣所ではありませんが!?
「な、なぁ小日向? お前いま何してるんだ?」
彼女は言葉を発しないので、返事がこないことはわかっている。だけど聞かずにはいられなかった。もしかしたら俺の背後には下着姿の小日向がいるのではないかと考えると、そもそも冷静な判断など不可能なのである。
まさか小日向のやつ……色仕掛けで勉強から回避をしようとしているのか――? そんなバカなことある?
……いやさすがにそれはない。いったい俺は何を考えているのやら。静香さんが去り際に「襲っちゃダメ」などといったものだから、思考がそっちに偏ってしまっているだけだろう。
そもそも小日向は好きでもない相手に対して、色仕掛けをするような性格じゃないだろうし、たかが勉強から逃れるためだけにそこまでするわけがない。
たぶんこの衣擦れっぽい音は、リュックを漁っている音か何かのだろう。うん。
――かといって、俺に後ろを振り向く度胸はないのだけど。
やがて、小日向が俺の肩を軽くトントンと叩いてくる。「もうそっち向いても大丈夫?」と平静を装って問いかけると、もう一度トントン。たぶんオッケーだということなのだろう。
で、恐る恐る振り返ってみると――、
「…………なぜ?」
学校指定のスク水を身に着けた小日向が、ふすーと息を漏らしながら仁王立ちしていた。
これは……色仕掛け、なのか……?
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