第40話

 『擬態』という言葉、ドロドロと溶けているという顔。叔父達と僕とでは、花鍬樹に対する視界が違っていた。表情と頷き加減からして、溝隠も叔父達と同じらしい。息を呑む。自分でも意外な程、僕は冷静だった。


「擬態と呼ぶには些か複雑というか……そも、その見解は少々異なっているのでは?」


 七竈さんにそう疑問を投げかけたのは、彼女と初対面であるはずの溝隠だった。


「誰だお前」

「失礼、初めましてでしたね。僕は溝隠波瑠と言います。貴方と同じ、怪異に両足突っ込んで、息絶え絶えに顔だけ出してる感じの、人間です」


 まあ、顔は蝶で隠れてますけど。と、溝隠は笑った。その軽妙な論調に精神が逆撫でられたのか、七竈さんは大きく舌打ちをして、彼を睨んだ。


「否定を出すなら、それを満たすだけの反論を差し出せ。僕は僕の見た花鍬樹を語るだけだ。お前の見た花鍬樹は何だった」


 溝隠に向かって足を投げ出す。これが彼女の『聞く体勢』だった。叔父の姿と似てはいるが、同じではない。何処か叔父を真似ているような彼女は、そうして溝隠の言葉を待っていた。


「まず、僕や先生方と、他の人達とでは、見え方が違うんです」

「それはわかっている。怪異にはよくあることだ」

「ポイントはその見え方ですよ。僕や貴方には、彼女が『溶けた顔』に見えている。けれど、識君達……まだ人である内は、そうではない。多分、きっと、黒髪に黒い瞳を持った少女に見えている」


 溝隠はその視界の違いに気づいた理由を、淡々と語った。曰く、彼は入学式に花鍬さんに声をかけたことで、他の学生と彼女について語らう時間が多くなってしまったらしい。同情、不快感、嫉妬、理解など、様々な反応を見た彼は、その中に一つの共通点を見出した。


「男には『最も愛される顔』を、女には『拒絶されるような美しさ』を」


 静かに、蝶を揺らしながら、溝隠は言った。そうして、先輩達に目を向けた。


「織部先輩、一つお聞きしてもよろしいですか」

「それは、花鍬さんの顔がどう見えてたかとか、そういうこと?」

「話が早くて助かります。造形に対する具体的なものじゃなくても良いんです。印象とか、何に似ている、とか」


 織部先輩は目を宙に逸らしつつ、声を絞っていた。喉に引っ掛かっているものを取り払うように、彼は咳払いに続いて、口を開いた。


「その、なんというかな。綺麗な子だなと思ったよ。化粧っけの無い感じで、守ってあげたくなるというか……この子は誰か一緒にいてやらないと駄目なんじゃないかと思う感じ。でも、顔自体は、そう、美豊ちゃんに似てた気がする」


 美豊ちゃんと呼ばれた生成先輩は、眉間に皺を寄せていた。織部先輩の言葉を防ぐように、彼女は牙を向いた。


「私に似てる? 冗談じゃない。あれの何処が似てるっていうのよ。そりゃ、綺麗な子だったわよ? でも、何というか誰かに依存するために動いてるっていうか、人を堕落させる顔よ、あれ。なんて言うの? 傾国? 悪女? どちらかっていうと、そっちのイメージ」


 どうやら、生成先輩からすると、花鍬さんの印象はあまり良いものでは無いらしい。今まで表に出してはいなかったが、織部先輩の発言で火がついたようだった。過激さを増そうとする彼女を宥めるように、織部先輩が「落ち着いて」と冷や汗を流していた。


「ほらね、こういうことですよ。おまけで聞くけど、識君はどうだった?」


 先輩達の夫婦漫才をケラケラ笑いながら、溝隠は僕に視線を向けた。七竈さんも、叔父も、僕を見ている。宗像さん達に至っては、どちらかといえば僕の女性の好みだとか、そっちの方に興味があるようで、目を輝かせて、怪異がどうのという話からは逸れているように思えた。


「……故郷の幼馴染に似ていた気がする。多分」


 僕はそっと言葉を置いて、これ以上のことは無いと、溝隠を睨んだ。突いた藪をそのままに、彼は「あ、そう」と呟いた。そうして、溝隠は再び七竈と目を合わせる。


「雄を惹きつけて、競合の雌を排除する。これは擬態ではなく、『フェロモン』に近くないですか?」


 饒舌な溝隠の言葉に、七竈さんと叔父が顔を見合わせた。二人は言葉も無いまま、そのまま、ふと、店の隅の方に視線を移した。

 店内の隅では、巨体の割にずっと静かだった葦屋さんが、苦笑いでカウンターに座っていた。


「俺達の見解と、よく似ていますよ」


 低くも穏やかな声で、彼は溝隠に微笑んだ。葦屋さんが「俺達」と言ったということは、警察内の一組織である彼らもまた、同じことを考えていたということだ。


「こちらは男を惹きつけることはわかっていましたから」


 ギシ、と音を立てて、葦屋さんは席を立った。彼はそのまま七竈さんの隣に立つと、叔父と宗像さんを見た。


「昼間、花鍬宅で見つけた男がいたでしょう」

「あぁ、そうだ。あれ、どうしてるんだ?」

「衰弱していたので治療中です。ただ、僅かばかり話を聞く限り、どうやら彼は『花鍬樹』にかなり強く惹きつけられたみたいで」


 叔父の問いに、彼は淡々と答えていった。その口ぶりは、何処か「不審者」に対して哀れみを兼ねていた。


「一目惚れだって普通、いきなり屋根裏に潜むなんて、しないでしょう? で、ストーカーとかやってたんじゃないかって聞いて見たんですが、どうやらしていないようで。だから、多分これは、『普通ではない』惹きつけ方であると、そういう話になりまして。それで、俺の見た花鍬樹の顔とか、昔の記録を漁って、『フェロモン様の何か』では無いかと、仮説が出たんです」


 それで、と、前置きをして、彼は唾を飲み込んだ。


「だから、韮井先生に頼んだんです。フェロモンを介さないで『花鍬樹』が観測出来るように……写真か、映像を撮ってくださいって」


 写真、映像。その単語の並びが、ふと、昼間の風景を導く。織部先輩の「写真が無かった」という話。叔父に道順を記録しろと頼まれて、映像を撮りながら歩いた山道。ここぞとばかりに、叔父は当のスマホを取り出していた。


「映っていると良いんだがな」


 そう言って、叔父は十数分に渡る山道の映像を画面に映し出した。全員がその画面を覗き込む。溝隠が勝手にスクロールバーを動かした。おい、と声を上げるより前に、その指が止まった。映像の最後、叔父と、菖蒲さんを見つけたその瞬間が、動き始めた。

 拾う音声は雑音ばかりで意味をなさない。だが、それで良かった。映像に乱れは無い。それだけで、この映像には価値があった。

 枯れ木に近付く場面の最後、顔面を晒した花鍬さんが――――花鍬樹と呼ばれる蟲がいた。


 ドロドロに溶けた顔。溶けた肉で左目は半開きだった。逆に瞼も何も無くなった右目は、露出してギョロギョロと動く。鼻も口もただの穴だった。

 それは、人間に羽化する前の、不完全な蛹の中身のようだった。

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