第389話 「基地」を作る男 2

オレは「基地」で自分自身の訓練を開始した。

基地というのは机上にえた実体顕微鏡のこと。

訓練というのは微小血管吻合ふんごうの練習のことだ。


練習方法は2つある。

1つは鳥の手羽先てばさきを使ったもの。

これはスーパーで4本250円くらいのものを買ってくる。


もう1つは人工血管を使うもの。

サイズとしては直径2ミリから直径1ミリまで色々ある。

脳外科の血管吻合の練習には1ミリのものを用いる。


これらを実体顕微鏡の台に固定して10-0と呼ばれる針糸で縫う。

使う糸は肉眼で見えるか見えないかの細いものだ。

30分ほどかかって8~12針かけるので非常に細かい作業になる。



その一方で退屈な時間でもある。

だからオレは録音した医療安全の講演会を聴きながら練習した。


そういえば、あるピアニストはハノンをきながら「敦煌とんこう」を読んでいたそうだ。

だから今でもハノンを聴くと一千年前の中国の風景がよみがえるのだとか。

ちなみにハノンというのは指を動かすためのピアノの訓練曲だ。

スポーツでいえばランニングにあたる。



さて、オレの聴いていた医療安全の講演会。

これはオランダの医師にして大学教授かつ規制当局者の話だった。

医療安全の世界ではイギリスとオランダが明示的に Safety-2セイフティ・ツー を政策に掲げている。

Safety-1 はミスのない医療。

Safety-2 は質の高い医療。


飲食店でいえば、Safety-1 は食中毒を出さないこと。

Safety-2 は美味うまいい料理でもてなすこと。

もちろん食中毒は論外だ。


規制当局者は立場上、どうしても Safety-1 にかたよってしまう。

が、オランダは Safety-2 を推進している。



どうすれば質の高い医療を提供できるのか?


演者の示したキーワードはコンプライアンスとレジリエンスだ。

コンプライアンスは法令順守。

レジリエンスは臨機応変。

いうまでもなく前者が Safety-1、後者が Safety-2 にあたる。


今回のコロナ禍においてコンプライアンスが何の役に立ったのか?

規則に従った医療は未曾有みぞううの災害に対する無力さを露呈した。

逆に現場の創意工夫こそがコロナに立ち向かう最強の武器だった。

これがレジリエンスだ。



彼はコロナ禍の他に薬剤取り違え防止や障害児医療など、色々な例をあげてレジリエンスの大切さを説いた。


人口が約1700万人の国でこのような先進的な取り組みがなされている事に驚く。

いや、江戸時代に日本と交易をして西洋医学をもたらした国だ。

現代の蘭学らんがくともいうべき存在かもしれない。



感動しながら講演を聴いていると、なぜか吻合練習もはかどった。

そして英語での講演内容もよく頭に入ってきた。


こいつは一石二鳥だ!

吻合練習のときには勉強しながらに限る。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る