第380話 イケイケの男
その日の手術室は絶望感が支配していた。
手術の対象は2ヶ月ほど前に頭部外傷で搬入された患者だ。
交通事故だったか高所からの墜落だったか。
事故当日に開頭血腫除去と外減圧が行われた。
外減圧とは、開頭で外した骨を戻さず脳の腫れに備えるものだ。
これが初回の手術。
すでに片方の瞳孔は開いていたが、あきらめるのはまだ早い。
そう考えて行われた手術だが、術後の意識回復は
長期戦になることが予想されたので気管切開が行われた。
これが2回目の手術だ。
さらに、脳の
この時はオレも応援に入った。
通算で3回目の手術になる。
その日の夜、一瞬のことだが患者の反応が見られたらしい。
呼びかけに
それでも無反応より100倍マシだ。
が、この手術の直前から頭皮下に
髄液というのは脳をとりまく無色透明の液体だ。
この髄液貯留を解消すべく4回目の手術が行われた。
髄液を腹腔に
頭とつながっている腰から髄液を抜けば髄液貯留が解消されるのでは?
そう思っての事だったが、髄液は抜けなかった。
で、5回目の手術が計画された。
人工骨と頭皮の間に
ところが人工骨の上にチューブを挿入したら、濁った髄液が出て来た。
薄めた牛乳のような液体といえば想像してもらえるだろうか。
平たくいえば
手術をしている人間はもとより見学している連中にも敗北感が
5回目の手術となると、大抵の人間が何らかの形で関わっている。
誰もが第三者というわけにはいかないのだ。
膿が出てきたらシャントどころではない。
異物を留置する手術など論外だ。
だから挿入したチューブを
さらに
「せっかくなので、そのチューブからバンコマイシンを注入して洗っておいたらどうですか?」
「確かにそれは名案だ」
無力感で一杯の頭から何とか知恵を
抗菌薬は全身投与が基本だが、局所に入れることもある。
感染巣に高濃度の抗菌薬が達すればたちまち感染はおさまる……のかな。
「でもバンコマイシンでいいのか? グラム
「創部から菌が入ったとしたらグラム
一般に細菌は大きく2つに分かれる。
グラム陽性球菌とグラム陰性桿菌だ。
グラム染色をしたときに
創部から菌が入ったのなら
これらは典型的なグラム陽性球菌だ。
しかし、本当に創部から入ったのだろうか?
人工骨を入れたのはオレだが、感染しないよう用心深くやったつもりだ。
手袋は2枚重ねにし、創部は何度も
ひょっとして尿路感染巣から血流に乗って来た細菌が膿をつくったとか。
尿路感染で多いのは大腸菌だが、こっちはグラム陰性桿菌だ。
真実や
その時、細菌検査室から電話があった。
術野から流れ出した膿の
顕微鏡で覗いたところ、グラム陰性桿菌が見えると。
しかも白血球に
「グラム陰性桿菌なら大腸菌だな。もしかすると
「抗菌薬はどうしますか。セフメタゾールあたりで?」
「最初はゾシンで、感受性をみてからディエスカレーションしよう」
ゾシンは
しかし、使いすぎると細菌が耐性化してしまう。
だから、当初はゾシンを使っておき、細菌が同定され抗菌薬への感受性が分かった時点で
その菌を倒すのにギリギリ効果のあるものを使うのだ。
これをディエスカレーションという。
よく言われる
今回で言えば、大砲がゾシン、鉄砲がセフメタゾールだ。
相手が戦車かウサギか分からない間は大砲を使っておく。
ウサギだと判明した時点で鉄砲に切り替えるのだ。
さて、絶望感
この患者の手術に初めて参加するレジデントだ。
これまで関わっていなかったら当事者意識がないのは当然だった。
だからオレは明るいレジデントを新しい担当医に指名した。
というのも現在の主治医も担当医ももうすぐ異動でいなくなる。
だから、オレが次の主治医を頼まれた。
ともに苦労する担当医に求めるのは
根拠なき元気さ、そして若さこそが重宝される。
「じゃあ来月から、担当医を引き継いでくれるか?」
「いいっすよ、任せておいてください!」
明るいレジデントが答える。
いいね、いいねえ。
大切なのはイケイケってことだ。
こうなったら不良グループ同士の喧嘩と変わりない。
オレたちに必要なのは、相手が
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