第357話 1つ賢くなった男

オレはレジデントとともに絶望的な手術をしていた。

ある日の手術室での出来事だ。


最初はラッキーだった。

脳室腹腔短絡術のうしつふくくうたんらくじゅつ、いわゆるVPシャントの入れ換えを目的にした手術。

すでに閉塞していた事が術中に判明し、それならシャントは不要と元のシステムを抜去した。

昼からの手術だがあとは閉創だけ、15時半には済むはずだった。


ところが予想外の事に頭皮が2ヶ所、壊死を起こしていた。

髪の毛の中に隠れていたので分からなかったのだ。


壊死部は切り取って健常な皮膚同士を縫合するしかない。

ところが切り取った頭皮の欠損部が予想以上に大きくなった。

いくら皮膚を寄せても寄らない。

無理に引っ張ると、糸が切れたり皮膚が千切れたり。


それでもなんとか寄せて手術を終えた。


が、客観的にみると、これでは話にならない。

創部に5ミリほどの隙間すきまができて、間から頭蓋骨が見えている。

明日になったら縫合した皮膚が黒く壊死を起こしているかもしれない。


形成外科に相談するか。

でも、相談したら余計にややこしくなるかもしれない。

明日でもいいじゃん。


しかし、今日なら何とかなるが明日には何ともならない、かもしれない。


だから形成外科の部長に電話した。

もちろん手術時間を延長することを麻酔科医に謝った。


トルルルル、トルルルル。

応答がない。


形成外科の卓袱台ちゃぶだい加代かよ先生ってのは何を言い出すか分からないところがある。

「じゃあ大腿部から有茎ゆうけいで皮弁をとってきて欠損部に充填じゅうてんしましょう」くらいのことは言いかねない。

だから彼女が不在と知って、少しだけホッとする。


「じゃあ、誰かきのいいのがいないかな。忙野ぼうの先生あたりは?」


こうなったら脳外科の中で探すしかない。

もう自分以外の誰でも良かった。


早速、忙野先生が来てくれた。

今日は特に手術もなかったので元気一杯だ。


「直線に延長しても真ん中は寄らないですよ。カーブさせて延長しましょう」


長い間この仕事をしているが、オレ自身、皮膚欠損部の修正はあまり経験がない。


欠損部の皮膚切開を上に3センチほど延長し少しカーブさせる。


そうして、外側のと内側のの長さの差を利用し、少しズラして頭皮を縫合する。

こうすれば欠損部を無理なく、いや最小限の無理でおおうことができる。

そういう理屈を今日という日に初めて理解した。


「ちょっと疲れたんで、トイレに行ってから脱水を補正したいんだけど」

「どうぞ、休んできてください。やっておきますから」


オレが手術室を出ようとしたら、ちょうどやってきたナースに捕まった。


「修正タイムアウトをお願いします」


手術が予定時間より延長する場合には、終了時刻も修正しなくてはならない。


「17時半……かな」

「分かりました」


あと1時間15分後に終了する、ということだ。

実際にどうなるかは分からない。


一休みして戻ってきたら、ほぼ手術は終了していた。

新たに加えた皮膚切開で、創部が機嫌良く閉じてくれたのだ。


さっき部屋を出てから30分ほどしか経っていない。


ボロボロに疲れた1日ではあったが、皮膚欠損の修正法を学ぶことができた。

思わず「1つ賢くなったぞ!」と言いたくなった。

あれは何かのラジオ番組の決まり文句だった気がする。


もう忘却ぼうきゃく彼方かなただけど。

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