第296話 地面に頭をこすりつける男

脳外科で2つの手術を並列でしている時に、3つ目の手術をしなくてはならなくなった。

搬入された男性が巨大な脳内出血だったからだ。


動脈瘤手術に付き合っていたオレが、脳内出血を担当することになった。

幸い隣の手術室が空いている。

レジデントも1人、手が空いたみたいだ。

救急外来で気管挿管などの処置が行われている横で彼が手術同意書などの書類を準備している。


手術用顕微鏡マイクロはどうすんの。今、まさに動脈瘤クリッピングに使っているじゃん」

「倉庫にオリンパスがあるんで、それを隣の手術室に運んでおきます。先生は使った事ありますか?」

「あるけど、それ遠い昔だよ。大丈夫かな」

「それだったら大丈夫でしょう、いけますよ」


勝手に大丈夫な事にされてしまった。

動脈瘤手術の助手は担当のレジデントに任せて術衣を脱ぐ。


隣の手術室の前には昔懐かしいオリンパスが鎮座していた。

オレより背の高い、何千万円かする代物だ。


トム・クルーズが敵基地でF14を見つけた時はこんな感じだったのだろうか。

かつて操縦していたオールドファッションの戦闘機。

しかし、彼は敢然とF14を操って敵と戦い、味方の空母に帰還した。

映画「トップガン マーヴェリック」の話だ。


が、オレの場合はそうはいかない。

見かけがトム・クルーズでないだけでなく、筋書きも「トップガン マーヴェリック」ではなかった。


手術室の前に置いてある古色蒼然としたオリンパスの上には、なぜかマイクロ・カバーも乗せてある。

カバーの方も倉庫から引っ張り出してきたのだろう。


確かに大昔に使っていたオリンパスには違いない。

当時の最先端ではあったが、ツァイスに変えてから随分と年月が経った。

果たして動くのか?


電源をさし、スイッチを入れてみる。


ライトが付いたが、本体は動かないままだ。


「あれっ、なんで本体は動かないの?」


そう思っているうちにもう1つスイッチがあることに気づいた。

そちらも入れてみると、見事に本体も動くようになった。

実に何年ぶりの目覚めだろうか。


術者のスコープを伸ばし、助手のスコープも伸ばす。

瞳孔間距離を合わせようとして……動かない事に気づいた。


「あれれ、これも電動か? まさか」


実は、単にダイヤルが固くなっていただけだった。

何度も試しているうちに動くようになる。


左右のハンドルを握って少し左右に動かしてみた。


「おっとっと」


ハンドルに強い力が加わって一方に傾きそうになる。

バランスを取っていなかったのだ。


あれこれ触っているうちにカンが戻ってくる。

確かに昔はこれでやっていた。

が、もう今のレジデント達は誰も見たことも触ったこともない。


マイクロ・カバーなんかどうやってかけるのか?

誰もできないだろう。

オレ自身もできるかどうか怪しい。



そうこうしているうちに患者が搬入されてくる。

すでに挿管されているので麻酔器につないだら全身麻酔の開始だ。


担当レジデントと2人でセッティングを行う。

想定される開頭範囲、それを取り囲むような皮膚切開。


手術用顕微鏡マイクロがちゃんと作動するかどうか分からないから、開頭は大きめにしておこう。その方があらゆるオプションを使えるからな」

「はい」


ごめん、オリンパス!

ちょっと見栄をはってしまった。

手術用顕微鏡マイクロが作動することは確認している。

でも、オレたちがちゃんと使えるかが分からないんだ。


そんな会話をしている間にセッティングはどんどん進む。


必要最小限の剃毛ていもうをする。

無影灯むえいとうの位置を合わせる。

清潔な術野とその外側を区分する離被架りひかを立てる。

消毒をして局所麻酔を打ち込む。


「イグザレルトはリバースしたか?」

「しました」

「利き手は右で良かったよな」

「それも確認しています」


幸い、患者の出血は右側だ。

左半身の麻痺は免れないが言語機能は維持できるだろう。

意識が戻ればの話だけど。


「もし血腫の一部が脳表に見えていたら、そこから中に入るからな」

「はい」

「シルビウス裂を割って入る方法が脳に優しいんだけど、血腫が見えていたらもうダメージがあるってことなんで、その部分を利用しよう」


たとえ話をすると、建物に侵入するのにドアの鍵を開けるか、壊れた壁の穴を利用して入るかの違いだ。

壁に穴が開いていたら、わざわざ開錠する手間をかける必要はない。


「血腫が顔を出しているのが前頭葉側か側頭葉側かは開けてみないと分からないので、大きめに開頭しておこう」

「後で、『何でこんなに大きな開頭なんだ』と言われたら、そう言い返せ」

「先生が言ってくれるんじゃないんですか?」

「すまん、カンファレンスの日は別件で不在なのよ」

「ええーっ!」


そう言いながらもどんどん手術は進む。

バーホールを穿うがった後に、それらをつなぐように頭蓋骨を切る。

開頭してみると、脳を包む硬膜が緊満していた。


弧状に硬膜を切開して拍動する脳を露出した。


「とりあえず減圧しました。これから血腫除去にうつります」


そう麻酔科に声をかけた。

さあ、F14……じゃなくてオリンパスで敵基地を脱出だ。


その時、ふとひらめいた。


「ひょっとして、隣の部屋のクリッピングって、もう終わっているんじゃないの? 誰か見てきてよ」


もし、クリッピングが終わっていたらツァイスが使える。



「もうクリップはかけて、閉頭に入っていました。でも、閉頭操作をマイクロで録画しているみたいですけど」


偵察に行ってきたナースがそう報告した。


レジデントが後で勉強するために閉頭の手順を手術用顕微鏡マイクロで録画することはよくやっている。

が、もう勉強は後回し、今は目の前の手術が優先だ。


「そっちに頼んでツァイスをもらって来てくれ」

「渡してくれますかね?」

「地面に頭をこすりつけて頼んだら渡してくれるだろう」

「それ、私がやるんですか?」

「本来ならオレがやるべきだけど、術衣を着ているから出来ないのよ。頼むよ」

「頭をこすりつけるなんて嫌だなあ」

「オレも土下座しているよ、心の中で」



ついにツァイスが登場した。

オレにとっての第5世代戦闘機だ。


ツァイスがあるなら、わざわざオリンパスを使う必要はない。


それにしても束の間のトム・クルーズ気分だったぜ。


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