第290話 モロッコから来た女

2022年12月15日、サッカーのワールドカップ準決勝。

残念ながらモロッコは0対2でフランスに負けてしまった。

フランスに放たれた14本のシュートの前にモロッコのゴールキーパー、ボノが屈してしまったのだ。


さて、日本人にとってモロッコってのは謎の国。


実はアフリカ北部にあり、地中海をはさんでスペインと向かい合っている。

その特異な地理的要因から、ヨーロッパの国が支配権を争ってきた。

英独仏、それにスペインが争い、最終的にはフランスが支配することになる。

だから今回の準決勝は親分子分の戦いだった。


「いつまでも親分面おやぶんづらしてんじゃねえぞ!」


モロッコがそう言ったのかどうか、オレたち日本人には分かりようもない。

が、親分子分の関係は逆転しなかった。



さて、遠い昔のこと。

オレたち夫婦が渡米したとき、最初の1ヶ月はバラバラに住んでいた。

オレは留学先に直行したが、妻はミネソタ大学の語学クラスに入っていたのだ。

妻が滞在していた学生寮のルームメイトはモロッコ人だった。

アミナという17歳の女の子だ。


彼女はモロッコのお金持ちの家からアメリカに来ていた。

モロッコでも上流の人達はフランス語をしゃべることができる。

かつてフランスに支配されていた名残なごりだそうだ。


驚くべきことにアミナは17歳にしてフェロモンいっぱい。

妻とともに住んでいた1ヶ月の間、風呂には1回も入らず。

シャワーですら1回くらいしか使っていない。


でも、常時10人ほどの男がついて歩いていたそうだ。

シャワーを浴びたらフェロモンが流れ落ちてしまうのかもしれない。


ゾロゾロついていた男たちはもちろん語学学校の学生たち。

世界中からやってきた連中の中に日本人のケンも含まれていた。


ケンはもうアミナに夢中だった。

「アミナに近づいたらケンに殺されるぞ」と皆が言っていたそうだ。


そんなストーカーみたいなのにつきまとわれてアミナは迷惑じゃなかったのか?


いやいやストーカーの10人ぐらい、平気であしらっていた。

毎夜、毎夜、男たちを引き連れて町に遊びに行っていたのだ。

まるでモロッコを争う英独仏西みたいな状態だ。



妻によればアミナは全然勉強しなかっそうだ。

彼女の机の上には分厚い辞書が1冊だけ置いてあった……と思ったらそれはただの電話帳だった。


妻がいないときはオレが部屋にかけた電話にアミナが出た。

二言三言、世間話をした後、彼女はいつも「何か伝言ある?」といてきた。

"Do you want to leave her a message?" みたいな教科書的な話し方ではなく、"D'ya wanna leave 'er a message?" みたいな流暢りゅうちょうなアメリカ英語だった。

昼の勉強はさぼっていたが、夜の実戦英会話で鍛えられたのだろう。



オレは1度だけミネソタに行った事がある。

果たしてなまアミナはどんな女なのか?

オレもフェロモンにやられてしまうかもしれない。

そう思うとちょっと怖かった。


しかし、異国に1ヶ月も住んでみれば分かる。

フェロモンよりも日本食だ。


ミネソタでは学生達が食べ物を持ち寄るポトラックパーティーに出席した。

そこでオレはざる蕎麦を見つけた。

「ついに人間の食べ物がここにあったぞ!」と思ったオレは急いで食べようとした。

が、麺つゆが無い。

実際には用意されていたのだが、皆が飲んでしまっていたのだ。


「これが日本のメンツユって飲み物か。なんだかしょっぱいなあ」とか何とか言いながら外人どもが飲んだのだろう。


馬鹿野郎、麺つゆだけ飲んでどうするんだ!

それに麺つゆ無しで蕎麦を食べたりしたら喉につまらせてしまうじゃないか。


オレはざる蕎麦の前で呆然ぼうぜんとしていた。

そうしたらまた外人どもがやってきて、「これが日本のザルソバって奴か、ソースは無いんだな。プレーンの味を楽しもうぜ」とか何とか言って食べてしまったのだ。


もうね、味の分からん連中と同席したくねえっす!

オレは泣いた、心から泣きましたよ。


だから恐れていたアミナのフェロモンにもやられなかった。

ただただ麺つゆが恋しかった。

ちゃんとしたざる蕎麦を食べたかった!


そういえばケンの顔は良く憶えている。

「こいつが噂のケンか!」と思ったからだ。

確かにケンは麺つゆよりもフェロモンを優先する若者だった。



あのアミナも今や立派な中年女。


まだフェロモンが枯渇してしまったとは思えない。

ワールドカップでのモロッコ敗退の場面をどんな顔で見ていたのだろうか。



それにしても1ヶ月に1回しかシャワーを浴びない女が実在するとは。

世界は広いもんだ。


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