第210話 いきなり怒られてしまった男

「先生までそんな事を言うんですか!」


いきなり非難されてオレは仰天ぎょうてんした。

手術翌朝の集中治療室ICUでの出来事だ。


非難したのは頭にガーゼをあててベッドに横たわる同僚の女性医師。

彼女の良性脳腫瘍に対し、前日に開頭摘出術をしたばかりだった。


完璧な手術だった、オレがやったわけじゃないんだけど。


だから翌朝、オレは開口一番「良かったですね!」と彼女に声をかけた。

そうしたら、冒頭のごとおこられてしまったのだ。


おそらく術後譫妄せんもうが起こったのだろう。

彼女の頭の中では再手術がされた、という認識だった。

皆が口裏を合わせて自分をだまそうとしているのだ、と思い込んでいる。

なので「再手術なんかしていない、それは妄想もうそうだ」ということを何日もかけて説明した。

眼科医の夫からも説得してもらい、本人の電子カルテも自分の目で見てもらった。


それでようやく本人も納得した。


「先生方に御迷惑をおかけした自分が恥ずかしいです。もう、その話は勘弁して下さい」


彼女は医師だけあって、術後譫妄せんもうの何たるかを知っているし、大勢おおぜいがかかわる手術で口裏合わせなんか出来るはずもない、ということも理解している。

だから何とか分かってもらう事ができた。


担当医がポツリと言った。


「そう考えると乳腺外科医の事件なんか、恐ろしいですね」

「本当だ!」


皆が口々に賛同した。


乳腺外科医の事件の概要はこうだ。


東京都内の病院で乳腺腫瘍の手術をした外科医が麻酔で意識が朦朧もうろうとしている術直後の女性患者にわいせつ行為を行った、というものだ。

女性患者の証言により外科医は準強制わいせつ罪で起訴された。

地方裁判所では無罪判決であったが、高等裁判所では懲役2年の有罪判決が出てしまった。

その事を苦にしたのか、当時中学生だった外科医の息子が電車に飛び込んで自殺をしてしまったのだ。


「なんか手術直後の患者さんが『胸をめられた』って言ったそうですよ」

きたねえっ!」


担当医の発言にその場にいた3人が同時に声をあげた。

内科医まで顔をしかめている。


手術直後の胸?

舐めるわけがない!


術後の皮膚には血や汗や消毒薬が飛び散っている。

そんなものを自分の舌で舐めたりしたら、どんな病気をもらうか分かったもんじゃない。

素手すでで患者の皮膚に触るのですら抵抗がある。


この感覚は一般の人には分かりにくいと思う。

たとえて言えば、スーパーで買ってきたなまの豚肉をそのままめるという行為に近い。


外科医なら……いや医師なら誰でもそう思う。

思わない奴は医師免許証いしめんを返した方がいい。


この事件、「審理が尽くされていない」ということで、裁判は最高裁判所から高等裁判所に差し戻しになった。

やり直し裁判で無罪判決が出たとしても死んだ息子は帰ってこない。


譫妄せんもうがどういうものか、一般の人も知っておくべきだと思う。

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