第103話 毎朝、お経を読む男

その患者は80歳を過ぎていた。

三叉神経痛だが手術よりも内服治療を選んだ。

痛みを抑えることのできる最低量の薬を3ヶ月毎に処方する。


「最近、手が震えるんですよ」


患者は外来診察室でそう言った。


「毎朝、これを読んでいるのですけどね。持つときに手が震えて」


そういって肌身離さず持っているお経をオレに見せた。

表紙には勤行要典ごんぎょうようてんとある。


いつもは痛みの程度を尋ねるだけだが、今日は診察室を歩いてもらった。

いわゆる突進歩行はみられない。

しかしわずかだが明らかな肘の歯車はぐるま現象を認める。


「パーキンソン病かもしれませんね」

「それで手が震えるのですか?」

「その可能性はあります。神経内科でてもらうよう手配をしましょう」


付き添って来ていた孫娘の顔を見ながら説明した。

病院受診の祖父に付き添ってくる孫は思いのほか少ない。

会社勤めの孫娘はうなずいた。


「もうすぐ参院選だし、早く治してしまいましょうよ」


オレは気を引き立たせるようにそう励ました。

選挙には眠っている生命力を呼び覚ます力がある。


「そうなんですよ! 先生、比例の方にはぜひ〇〇党と書いてください。よかったらお友達にも電話していただけませんか」

「分かりました」


オレは「そうします」とも「おっしゃりたいことは理解しました」ともとれる返事をした。


この患者の生き甲斐は選挙だ。

時間のあるときには少し政治談議につきあう。


「相手がどんな国でもね、外交チャンネルはキープしておくべきなんですよ。好き嫌いの問題じゃない!」

「児童手当がお父ちゃんのパチンコ代に使われてしまうという批判もあるし、実際にそういうこともあるでしょう。それでも100人か200人に1人、この国を引っ張っていく子が育ってくれれば、私は成功だと思っているんです」


患者はオレ相手に熱弁をふるう。

支持政党や主義主張が違っていても、何かしら耳を傾けるべき部分はある。


「選挙、頑張ってください」


診察室を出ていく患者の背中にオレは声をかけた。


「ええ、大勝利を目指します!」


そう元気な声が返ってきた。


患者が少しでも良くなってくれるのであれば、オレたちはあらゆるものを利用する。

参院選だろうが、何だろうが。

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