第80話 妻を蹴ってしまった男

「痛い、痛い!」


隣で寝ていた妻の悲鳴で目が覚めた。


「うわっ、ごめん、ごめん」


どうやら悪夢にうなされたオレが無意識のうちに妻を足で蹴っていたようだ。



悪夢というのはこうだ。

オレはどこか、畳の部屋にいた。

そこに3人の人間がいる。

それぞれ赤い文字、緑の文字、青い文字の入った書類を手にしている。

3人の中の赤い文字の書類を持っているのが悪魔に違いない。

オレは悪魔を攻撃した。

足で蹴ると悪魔は苦痛に顔を歪めた。


ふと気づくと横に寝ていた妻を蹴っていたというわけだ。


時計を見ると、布団に入ってから1時間ほどしか経っていない。

なんだって、寝入りばなにこんな悪夢を見てしまうのか?



実は心当たりがあった。

病院で経験した恐怖が記憶に残っていたのではないかと思う。


その日は脳腫瘍の手術があった。


難しい症例だったが若手の術者は見事に摘出を終えた。

そこまで見届けたオレは部屋に戻って書類仕事に没頭した。


3時間ほど経って帰宅しようとしたとき。

エレベーターでレジデントの1人と一緒になった。


「今、手術が終わりました」

「ええっ?」


一瞬、別の手術の話をしているのかと思った。

さっきの手術なら、とうの昔に終わっているはずだからだ。


「頭が閉まらなくて、外減圧がいげんあつをしたんですよ」

「ホントかよ、それ!」


あれだけ完璧な手術だったのに、なんで頭が閉まらないわけ?


閉頭するときに脳がれてしまったに違いない。

それで脳を包む硬膜こうまくを縫合して閉鎖することができなかったのだ。

だから硬膜は開けっ放し、頭蓋骨を戻さずに頭皮だけ縫って終えたのだろう。


そうなったら大変な経過をたどることになる。

翌日には脳死状態か、良くて植物状態だ。


何かミスがあってそんな事になったのなら、ある意味、納得はできる。

しかし、どこにもミスがなくて脳死だの植物状態だの起こるのなら、オレたちは何を信じてやっていけばいいんだ?


その絶望感が悪魔の姿となってオレの夢の中に現れたのか!

他人の手術とはいえ、明日は我が身だ。


寝苦しい夜を過ごしたオレは翌朝1番に電子カルテで頭部CTを確認した。

幸いなことに、腫れた脳は機嫌よく頭蓋内ずがいないにおさまっている。


どうやら手術中にありったけの脳圧降下薬、ステロイド、鎮静剤をぶち込んだみたいだ。

その苦闘の経過が麻酔記録や手術記録に刻まれている。


朝の回診で、短時間の議論が行われる。

決定的なミスはないものの、いくつかの小さな改善点が示された。


状態が安定したら、早めに頭蓋骨を戻し、治療を継続する事になる。

何があってもやるべき事はしていかなくてはならない。



オレたちが恐怖を忘れる最良の手段は……日常業務に没頭することだろう。

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