...

 病院には教頭先生と、ぼくも残してもらえることになった。

 「ネコちゃんを、よろしくね」


 『できません』


 そういい切ったぼくに、谷川先生はまっすぐ、目を向けてきた。

 谷川先生はこの騒ぎですでにパニックを起こしている月子さんやマナさんのために寮へ戻らなくてはならず、小山先生はネコの母親に連絡を取ろうと奮闘しているであろう井上先生に『事情』をはなしに、学校へ戻らなくてはならなかった。


 「浩太くん」

救急の待合室を谷川先生とでてゆこうとして、小山先生が、足をとめた。背中を向けたまま。

 「ネコはこれから、唯一の家族を失う」


 大きく、心臓が跳ねる。

 小山先生の背中には、なんの迷いもない。


 「はじめに、いったこと、覚えてる?」

背中ごしに、声だけは、柔らかい。ぼくは小さく頷いた。

 ここに、来た日に。あの日、小山先生がはなしていた。ネコを受け入れるなんて無理だ、て、ぼくに。

 「ことばも、笑顔も、親切も、いらない。ただ、ネコが手を伸ばしてきたなら、」

 まだ小さな、もみじ饅頭みたいな手を。

 「その手を、」




 「受けとめることが、できますか」




 『できません』


 ぼくはそう答えたのだ。谷川先生に、はっきり。小山先生はそれを聞いて知っているに違いない。この学校で、共有されない生徒情報はない。


 できない。

 愛がないから。


 左肩と胸の間、心臓の少し上。

 そこにそっと、拳をあてる。


 ぼくには、できない。

 でも、

 それでも、

 ゆき場をなくしたその手が、

 ぼくに向かうなら、


 『この人は、ぼくを、捨てないだろうか』


 ぼくはネコを捨てることも、

 できない。


 「ぼくは…、」

「大丈夫」

小山先生がふり向いて、いつものように、柔らかく笑う。


 「大丈夫、ぼくは、知ってから」


 「は、」

息を飲む。


 「小山先生っ、」

谷川先生が車から身をのりだす。

「いま、いきますっ、」

「あ、」

 小山先生は踵を返して待合室をでていってしまった。

 先生たちがいってしまったあとも、ぼくはしばらくその場に、佇んでいた。

 小山先生の瞳の奥に青い灯が、チリチリと揺れているのを、見た。




 呼吸器をつけたままネコの眠る横で、点滴の刺さったもみじ饅頭みたいな手を握る。

 病室の大きな窓の外、遠く下に夜の海が広がっている。

「飲み物、買ってくるね。なにがいい?」


 あ、ぼく、いきます。すみません、気がつかなくて、


 あわてて立ち上がるけど、教頭先生は軽く手を上げて、

「いや、ちょっと、いってくる」

なにかに耐えるようにいって、ぼくの答えは聞かずに部屋をでていってしまった。

 ぼくの親ほどもある男の人が泣くなんてのを、ぼくは、はじめて見た。

 教頭先生はしばらく、病室に戻ってこなかった。




 ザン ザン ザン…


 岩礁に砕ける波の音と、


 フー フー フー


 呼吸器越しでいつもと違って聞こえるネコの寝息と、


 ピ ピ ピ ピ…


 なにか計測器の無機質な音、だけ。

 「ネコ、波が少し上がってきたみたい」

もみじ饅頭の指のつけ根が猫の肉球みたいで、無意識に揉みながら波の音を聞く。

 「風はないよ。あしたの波はどうかな。遊べるかな」

 ポポン たまに、天さんからLINEが入る。

 『ネコはどうだ? コータは大丈夫か? 食うもん食えよ』

雪さんとふたりの自撮りと。

「心配してるよ、天さんと雪さん」

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