第7話 終わらない恋

 車を降りて、暗く静まり返る高校の敷地に足を踏み入れると、高校時代の笑い転げた日々と、甘酸っぱい出来事の記憶が一瞬で戻り、なんとも言えない高揚感を感じた。

 校舎や部室棟を、想い出越しに見上げながら、校庭の脇あたりまで来た時、不意に人の気配がした。

 大杉くんが小声で、「誰かいる!」とささやき、倉庫の影で、わたしの腕を掴んで引き留めた。少しの間じっと息を潜めていたが、少しすると人の気配は消えた。大きな体で臆病な彼が、小学生の時の彼を思わせて、わたしは、暗闇で少し微笑んだ。

 倉庫の影から、一歩、校庭に出ると、校庭のフェンスの外の街灯が、仄かに辺りを照らしている。文化祭の後夜祭の校庭と同じ灯りだと思った。熱気と寂しさと名残惜しさと少しの満足感をはらんだオレンジの灯り。色んなことを思い出しながら校庭を眺めていると、横に並んで立っていた彼が、ふっと、わたしの前に立ち灯りを遮った。

 向かい合った背の高い彼をわたしは見上げた。灯りを背負った彼の表情は逆光でよく見えない。わたしが何かをしゃべろうとした瞬間、彼の長い腕がわたしをそっと包んだ。

 そして、わたしの頭の上で、ずっと好きだったなぁ…と彼が言った。

 わたしだって、ずっと好きだった…彼の背中に回しかけたわたしの手は、宙で少し迷い固まり、結局、彼の背中には触れず、手のひらをぎゅっと握りしめ体の脇に下ろされた。それから、手のひらで彼の胸をそっと押した。少しだけ緩んだ彼の腕の中で、俯いたまま、「わたし結婚すると思う」と言った。ほんの少しの間があってから、彼は「そっか」とだけ言った。そして、わたしを包んでいた彼の腕の力が抜けた。交わした言葉はそれだけだった。たくさんの言葉を交わさなくても、お互いの想いが伝わる気がする。そこには、気まずさもないし、怒りもないし、悲しさも、苦悩もない、誤魔化すこともないし詮索することもない、あの気持ちはなんだろう。たぶん2人とも、なぜか、始まりを期待していないし、終わらない気がしている。いつか、また会える気がする。それが何年後か、何十年後かわからないけど。

 恋する気持ちを与えてくれて、愛することを考えさせてくれて、わたしの未熟な恋愛のターニングポイントに、なぜか必ず現れる彼。ずっと連絡を取りあってるわけではないのに、色々な巡り合わせで、わたしの前に現れる。

 彼はまた、わたしの横に並んで一緒に校庭や校舎を眺めた。

 もっと早く、わたしの愛する心が育っていたら、大杉くんと一緒にいる未来もあったのだろうか。そんなことも、少し思いながら、また、他愛のない話を交わしながら、車に向かって歩き始めた。

 帰りの車で、彼は、これから勉強のため遠くへ行くと言った。そして、明日、旅立つという。送ってもらった車から降りる時、大杉くんが小さく折った紙を渡し、じゃ、おやすみと手を上げて、車を走らせ去っていった。受験の時、人混みの中で会った大杉くんと同じ笑顔で、手の上げ方も同じだった。そして、あ、ありがととだけ言うので精一杯のわたしも、あの時と同じだ。懐かしいデジャヴに弱く微笑みながら、渡された紙を開いて見た。

 明日、最寄りの駅を立つ時間と「待ってる」という文字が書かれていた。ドキドキして、久しぶりに初恋のときの夜みたいに、幸せな気持ちになった。ただ、その幸福感が、遠距離恋愛の彼への後ろめたさを呼び起こし、想うほどに苦しく複雑な気持ちになった。

 翌日、紙に書かれていた時間には、わたしは家で、小学生の時好きだった少女漫画を読みふけりながらゴロゴロしていた。朝からずっと気になって、でも動けなくて、早くその時間が過ぎればと現実逃避した。とても行きたかったのに、何も告げずに行かなかった。なぜ行かなかったのかは、よくわからない。おそらく、結婚を考える人への罪悪感と、旅立つ彼を見送る自分がどんな想いになるのかが不安だったからかもしれない。

 それ以来、大杉くんとは会っていない。連絡先もお互いに知らないので連絡もない。

 

 その後のわたしは、その遠距離恋愛の彼とは、すでに生まれていたズレが徐々に大きくなり、ぶつかることが増え、結婚には至らず別れてしまった。大杉くんとのことが直接的に影響したということはないと思うが、結婚ということに初めて直面したタイミングで、大杉くんとの淡い恋に再び触れたことで、自分の心の深部を見つめるきっかけになったかもしれない。


 それから何年も、いくつかの恋愛や挫折を繰り返している間、大杉くんはわたしの前には現れなかった。

 

 ある夏、姉と甥っ子と一緒に、地元の夏祭りに行った。姉が屋台で何かを買うのを、道の脇で甥っ子のベビーカーを覗き込みながら待っていた。そのとき、人混みの中に、大杉くんの姿を見た気がした。遠かったが、一瞬、目が合った気がする。その瞬間、甥っ子が何かを言ったので、わたしは甥っ子の方に顔を向け、再び顔を上げた時には、もう大杉くんの姿はなかった。彼の横には小柄な女性がいた気がする。


 それから20年。

 その後わたしは恋愛の大波小波を乗り越え今の夫にたどり着き、結婚し、子供も生まれ、家族への愛を育てながら毎日を過ごしている。これだけ人を愛せるようになったのは、長い長い時間をかけて、初恋が与えてくれた心の成長のおかげかと思う。大杉くんも、どこかで素敵な家庭を築いているだろうか。

 大杉くんとは、あれから一度も巡り合うことはない。しかし、いつか、恋する気持ちと愛する力を与えてくれたことへの感謝の気持ちを伝えられる日が、必ず来ると、心のどこかで思っている。

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終わらない初恋 @_fly_

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