第5話 鍵を忘れた日
帰り道の途中でぽつぽつと降り出した雨はすぐに勢いを増していき、家まであと少しという距離にいた陽香と明は小走りで帰路を急いだ。生憎二人とも傘は持っていない。
「あぁー、濡れた。ったく、今日雨降んない予報だったよね?」
なんとか全身ずぶ濡れになる前に玄関の軒下に駆け込んだが、それでも二人とも上半身がかなり濡れていた。不満げな明の声に同意しつつ鞄を開けて家の鍵を探す。濡れたブラウスが肌に張りつき、髪の毛からはぽたぽたと雫が落ちてくる。早く中に入って着替えたい。
「……あれっ」
「どうしたの?」
「鍵、入ってない……」
陽香は呆然と呟いた。鞄の中をいくら探しても家の鍵が見つからない。いつも通学鞄の中に入れているはずなのに。
明も自分の鞄を開けて中を見ていたが、やはり入っていないようだった。
「あーそうだ、昨日出したままだ……」
明が思い出したように呟いた。
二人とも小学生のときからお揃いのキーホルダーを鍵に付けていたのだが、数年使っているうちにさすがにボロボロになっていた。それでも思い入れがあるのでなかなか新調せずにいたところ、見かねた泉が新しいものを買ってきてくれたのだ。
福島県への出張のお土産に買ってきてくれた猫のキーホルダーは、陽香も明も好きなゆるキャラのご当地限定のものだった。すぐに気に入ったので付け替えたのはいいものの、二人とも机の上に置きっぱなしにしてしまったようだ。
「どうしよう……」
「まあ、待つしかないよね」
明の言葉に、陽香は小さく頷いたものの微かに表情を曇らせた。実はトイレに行きたい。
泉は仕事中で昴は講義の最中だろうから連絡を入れても困らせてしまうだろう。このまま軒下で雨宿りをしつつどちらかが帰ってくるのを待つしかないようだ。
傘を持っていないのでこの雨の中どこかへ行って時間を潰すということもできない。こんなことなら、急いで帰ってこないで駅前のファーストフード店にでも入ってしまえばよかったのかもしれない。
――トイレに行きたい、と。このタイミングで明に告げることはできなかった。今日は学校を出る前にきちんと済ませてきたのに、雨で濡れて冷えたせいか再び催してしまった。家の前にいるのに、トイレには入れないことがもどかしい。
スマートフォンを取り出して時刻を確認するが、まだ十八時を過ぎたばかりだった。まだ我慢はできそうだが、あまり長いと厳しいかもしれない。兄たちはいつ頃帰ってくるだろうか。泉は定時上がりならばもう少しで帰ってくる頃だが、今日も少し遅くなりそうだと朝食のときに話していた気がする。
昴はどうだっただろう。バイトの予定はなかったはずだが、毎週木曜日は夜まで講義があった気がする。二人とも帰ってくるまではまだ時間がかかりそうだ。
(トイレ我慢できなくなったらあきちゃんに言って、なんとかしよう……!)
我慢できなくなったら濡れるのを承知で近くのコンビニにでも走るしかない。もしかしたら雨が止むかもしれないし、兄たちが早めに帰ってくるかもしれない。そうでなくても、いまより小降りになれば大して濡れずにコンビニまで行けるだろう。
それまでなんとかして気を紛らわせようと、陽香はそのままスマホを触り始めた。
***
明と話したり、SNSを眺めたり、アプリゲームを触ったり。なんとか時間を潰そうとするが、時間の経過はひどく遅く感じた。ちらっと、画面の隅に表示されている時刻に視線をやるが、まだ家に着いてから三十分ほどしか経っていない。だいぶ暗くなってきて、雨は小降りになるどころか、より激しくなっていた。
下腹部のじんわりとした重さは先ほどよりも増している。身体もかなり冷えてきてしまった。陽香はこっそりと膝を寄せつつ、ぽつんと呟いた。
「……雨、止まないね」
「そうだねー。泉兄も昴兄もまだ帰ってこないよなぁ」
「うん。……ね、あきちゃん」
「なに?」
「……やっぱりなんでもない」
言おうとして、やっぱり口を噤んでしまう。
まだ我慢できる。できるはずだ。家の前にいて鍵を開ければすぐにトイレに行ける距離なのに。トイレを借りるためにわざわざずぶ濡れになってまでコンビニまで行きたいと、明に言うのは躊躇ってしまった。きっと、陽香一人では行かせてくれず、彼もついていくと言うに違いない。明までこれ以上濡れさせてしまうのは申し訳ない。
我慢。我慢しないと。けれど時間の経過とともにどんどん切羽詰まってくる。お腹の奥が苦しい。早く出したい。だんだんじっとしていられなくて、小さく足踏みをしたり身体を揺すったりしてしまう。
トイレに行きたい。おしっこ、したい。
「……はるちゃん、もしかしてトイレ?」
そわそわと身体を動かしている陽香の様子を見て勘付いたのか、明が躊躇いがちに訊いてきた。その途端に、顔がかあっと熱くなる。けれど否定することはできず、小さく頷くしかなかった。思わずスカートの裾をぎゅっと握り締める。
「困ったな……もう我慢できない?」
「ま、まだ、できる、けど……」
つい、嘘をついてしまった。
本当はもうあまり長くは持ちそうにない。コンビニまで行く余裕もあるかどうかわからない。けれど、ここでじっとしていても最悪の事態を迎えてしまうだけだ。
「濡れちゃうけど、コンビニに――」
そう明が口を開きかけたとき、ふいに聞き慣れた低い声が耳に飛び込んできた。
「二人とも、どうした」
「昴兄!? なんで……や、なんでもいいから鍵開けて! 早く!」
紺色の折りたたみ傘を差した昴がいつの間にか門の向こうに立っていた。
もじもじしている陽香と焦った様子の明を見て状況を察したのか、足早に玄関に駆け寄り、すぐさま鍵を開けてくれる。
家の中に入るなり、陽香は靴を脱ぎ捨て鞄を投げ出してトイレに走った。廊下の距離は短い。すぐに着くはず、なのに。
「あっ……!」
ドアノブを握った瞬間、下着の中に温かいものが溢れた。びしゃびしゃと、勢いのいい水音が床に落ちる。そのまま身動きが取れなくなった。
身体が冷えていたはずなのに、脚を伝う液体だけが妙に熱い。力が抜けて陽香は思わずその場にぺたんと座り込んだ。温かな水溜まりがお尻の下に広がっていく。苦しかったお腹が軽くなっていく。
――どれほどそうしていただろう。短い時間のはずなのに、やたらと長く感じられた。水音は止み、口から熱いため息が零れる。
「大丈夫か」
気付かないうちに後ろに立っていた昴にそっと声をかけられ、陽香は我に返った。足元の惨状が目に入りみるみる顔が赤くなる。じわり、と視界が滲んだ。
「ご、め、なさ……」
思わず小さな声で謝る陽香には応えず、昴は玄関先で呆然としていたらしい明に指示を投げた。
「明、タオル持ってきてくれ。あと風呂の用意」
「わかった!」
ぱたぱたと足音を立てて、明が陽香たちの後ろを通り過ぎていく。その間に、昴は座り込んでいた陽香のことを立たせてくれた。ぐっしょり濡れたスカートからぽたぽたと雫が滴り落ちる。下着も靴下も濡れた感触が気持ち悪い。
「随分冷えているな。どのくらい待っていたんだ」
「……一時間くらい。昴お兄ちゃん、今日はちょっと早いんだね」
「休講になった。悪い、もう少し早く帰ってくればよかった」
ふるふると陽香は弱々しく首を振った。
鍵を忘れたのも、傘を持っていなかったのも、トイレを我慢しすぎてしまったのも。悪いのは陽香で、昴には全く非がない。鍵を忘れたのは明も同じだけれど、それだって今朝家を出るときに確認しておけば気付けたはずだ。
後悔ばかりが頭の中をぐるぐると渦巻いていた陽香だが、突然、肩に勢いよくバスタオルがかけられた。明が顔を覗き込んでくる。
「はるちゃん、ごめんね。寒かったよね? 俺がもっと早く気付けばよかった」
「ちがうの、わたし、すぐに言えなくて。ごめん、なさい」
「謝んなくていいよ。お湯もう少しで溜まるからお風呂入っておいで」
明に優しく背中をさすられ、陽香はこくんと小さく頷いた。
早くお風呂で温まりたい。でも、彼だって雨で濡れたのだから早めに出た方がいいだろう。
そう考えたのを見透かしたのか、明は軽くたしなめるように口を開いた。
「俺のことは気にしなくていいから。ゆっくりあったまってきな」
「……はぁい」
再び頷いて、ひとまずお風呂に行く前に濡れた下肢を軽く拭こうとタオルを掴む。
そこで、いつの間にか昴が汚れた床を雑巾で拭いていることに気付いた。兄に掃除をさせてしまうのはいつも申し訳ないうえに恥ずかしい。
「お兄ちゃん……! 掃除、わたしがするからっ」
「気にするな。早く風呂に行ってこい」
「そうだよ。風邪ひくといけないから」
「はーい……」
兄二人に促され、陽香はとぼとぼと浴室まで歩いていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます