#86 遭遇

 風に乗り、鳥の群れが空を漂う。

 やがてそれらは背後から迫ってきた巨大な存在に気付き、大きく羽ばたくと身をひるがえした。


 先ほどまで鳥の群れがいた場所を、大気をかき分けて進むもの。それは飛空船レビテートシップと呼ばれる、空飛ぶ船だ。

 フレメヴィーラ王国銀鳳騎士団所属の飛翼母船ウィングキャリアー“イズモ”を旗艦とした、ボキューズ大森海だいしんかい調査船団である。


 船団の先頭を進むイズモの船橋にて、エルネスティエルは窓越しにぼんやりと鳥の動きを追っていた。


「面舵だ。どうやらこの先は“行き止まり”みてぇだからな」


 彼の背後から親方ダーヴィドの怒鳴り声が響き、船員たちの復唱が続く。

 舵を回す軋みと共に、硝子窓の外にある景色がゆっくりと横に流れ始めた。鳥の群れは視界の外へと去り、エルはむ、と小さく唸ってから行き先へと顔を向ける。


 飛空船団の前には、はるか雲を突き抜ける山稜が聳えていた。

 飛空船はその仕組みから、高度を変える行動に多大な消耗をともなう。目の前の山々を越えるほどに上昇しようとすれば、たちまちに船倉に積まれた源素晶石エーテライトを喰らいつくすことになるだろう。


 そのため、船団は進路をゆっくりとそらしていた。山裾をなぞるようにして、向きを変える。

 エルは視線を下に向け、山肌を流れる川の流れを見つけると何とはなしに先を辿っていた。


「険しい山々ですね。まるでオービニエのようです」

「もしかしたら、さらにでけぇかもな。北のほうは霞んでよくみえねぇ」


 切り立った山々が刻む天然の大壁は、遥か大気に霞むほどに続いている。

 親方の言葉通り、その規模たるやオービニエに勝るとも劣らないものだった。


「山々から流れ降る川があり、山裾には穏やかな地形も見られます。もしもこのあたりまで進出できれば、第二のフレメヴィーラ王国が生まれるかもしれませんね」

「ふうむ、そろそろ取って返そうって時に、いい土産ができたじゃねぇか」


 将来に向けて有望な立地を見つけ、彼らがそれを航空図にしっかりと記していた、ちょうどその頃。

 それは、前触れなく現れた。



 最初にそれを見つけたのは、周辺偵察の任についていた飛翔騎士トゥエディアーネの小隊だった。

 森の一角がざわめき、そこに異物が浮かび上がる。それはみるみるうちに上昇すると、飛翔騎士と船団へと向けて接近しはじめた。


 訓練をつんだ飛翔騎士は、目ざとくその影を視界に捉える。


「あれは、魔獣か? これまでの奴とは、様子が違うぞ」

「イズモへと警告、急げ! 最低でも決闘級以上だ、油断はするな」


 すかさず、飛翔騎士が魔導光通信機マギスグラフを灯す。警戒信号を受け取った後方の船団に、にわかに緊張が走った。

 その間にも、飛翔騎士は敵の姿をしっかりと見定める。


「あの形、蟲型か。でかいな、決闘級といったが、超えているかも知れん」


 その魔獣は全体を甲殻に包まれており、後方に薄羽を広げた甲虫のような姿をしていた。頭部から長く伸びる角が、特に印象的だ。

 全長では飛翔騎士を越えており、そこから最低でも決闘級以上の能力を持っていると推定された。

 翅を震わし、低い振動音を放ちながら上昇を続けている。


「あの角、気を付けろ。当たれば飛翔騎士でもぐさりといかれそうだ」

「わかっている。だが、一匹のみか。ならば法撃で一気に倒してしまおう」


 飛翔騎士たちはしばらく周囲を警戒していたが、目の前の一匹以外に怪しい存在は見えない。

 そのため彼らは、魔導兵装シルエットアームズによる先制攻撃でこれを排除しようとした。


 密集隊形から離れ、魔獣を囲い込むような位置についた小隊が、一斉に法撃を浴びせかかる。

 迫りくる朱の炎弾を見て、蟲型魔獣の翅がさらに羽音を高くした。


 直後、驚異的な光景がそこに現れた。

 蟲型魔獣は図体に見合わぬ機敏さを発揮し、周囲から押し寄せる法弾を全て避けきったのだ。


「こいつ……! 予想以上に素早い。このままでは当たらないぞ、包囲を狭める!」



 空中に花咲く法撃の爆炎は、後方のイズモからも見えていた。

 伝声管からはひっきりなしに報告が飛び込んできており、船橋は騒然とした様子をみせている。


「報告では、魔獣は一体のみ! 偵察小隊によって排除するとのことです!」

「念のため、後詰はいつでも出れるよう待機させておいてください。どこから魔獣が現れるかわかりません。外に出ている騎士は、周辺の警戒を怠らないように」


 エルは船橋で指揮を取りつつ、イカルガのもとへと向かうべきかを考えていた。

 敵の数が少なく、偵察小隊だけで対処できるのであれば、このまま船橋で指揮を取っていたほうがよい。

 イカルガを出すと、どうしても周りへの指揮に支障が出るからだ。


 その時、遠望鏡をたずさえて戦闘の様子を監視していた船員が、上ずった叫び声をあげた。


「……! あ、あれは。そんな、馬鹿な!?」

「どうしました? 見せてください」


 エルは、差し出された遠望鏡を受け取り覗き込む。

 そこには、彼にとって最悪ともいえる光景が、広がっていた。



 蟲型魔獣を囲んで法撃を続けていた偵察小隊であったが、敵のすばしっこい動きに対処しあぐねていた。

 この蟲型魔獣は空中を前後左右と自在に動き、機敏かつ複雑な挙動をしてのける。空を進みながらそれを捉えるのは、飛翔騎士をして容易ではなかった。

 そのうちに、小隊の一人が焦れたような叫びをあげる。


「このまま法撃を続けても限がない! 俺が格闘でしとめる、援護を頼む!」

「うかつに近寄るな! 奴には角がある、格闘が弱いとも限らないのだぞ!」


 小隊長が諌めたものの、隊員はすでに機体を加速させ始めていた。


「当たらない法撃よりはましだ。やばそうなら、すぐに離脱する!」

「く、やむをえん。法撃を続ける。追い込め!」


 接近すべく飛び出してゆく飛翔騎士に、援護の法撃が続く。

 遠距離からの法撃はほぼ回避されているとはいえ、それによって敵の動きを制限することはできる。

 接近する飛翔騎士は蟲型魔獣が回避する先を読み、騎槍突撃ランスチャージの構えをとった。


 その時、急激に近寄ってくる飛翔騎士の姿をみて、蟲型魔獣はそれまでとは異なる動きをみせはじめた。

 身体の下に折りたたまれていた脚が広がり、指し示すように飛翔騎士のほうへと向けられる。

 その、曲げたままの脚の関節部から、ぷつりと体液がにじみ出た。


 その場に球状にたまると、滴の周りに急速に風が巻き起こる。

 魔法現象だ、この蟲とて魔獣、その能力は空を飛ぶばかりではない。


 風の系統に属する魔法現象が、体液の滴を包みこみ、高速で射出する。

 それは空中を横切り、何かが飛んできたことに気づいて回避しようとした飛翔騎士の目前で“炸裂”した。


 球状をとっていた体液の滴は、飛び散るやいなや爆発的な勢いで気化しはじめる。

 それはすぐさま白色の雲と化し、猛烈な勢いで広がるや飛翔騎士を包み込んでいった。


「なんだこれは、まさか煙幕のつも……りぎ……げがっ!? ごぼっ」


 異常は、速やかに現れた。

 飛翔騎士を包み込んだ白い雲は、機体を動かす吸排気機構に吸い込まれ、さらに機体の内部まで浸透してゆく。

 上空で活動するために特殊な仕組みを有するものの、騎操士ナイトランナーのための空気はこの吸排気機構から分配されている。


 そのため騎操士は、気づかぬうちに操縦席に入り込んだこの白色の雲を吸い込んでしまい。

 直後に激しく血を吐き、白目を剥いて痙攣しはじめる。“毒”だ。この雲のように広がった体液は、強烈な毒性を有していた。

 本来は、人間程度に使うものではない。騎操士は二、三度びくりと跳ねると、そのまま息絶えてしまう。


 騎操士が死亡したことにより飛翔騎士は制御を失い、動きを止めた。後は浮揚力場レビテートフィールドに支えられるまま、空中を漂い始める。

 だが異変は、これだけに止まらなかった。


 生き残った偵察小隊の騎士たちは、見た。

 白い雲に包まれた機体の、その装甲が泡立ち、歪み始めるのを。それは見る間に機体全体を侵食し、ついに装甲がぼろぼろとくずれ、剥離しはじめた。

 崩れたのは外装アウタースキンだけではない。その下にあった結晶筋肉クリスタルティシューまでもが、ぶちりぶちりと溶けちぎれてゆく。

 すぐに崩壊は全身に達し、飛翔騎士は腐り落ちるように空中でばらばらに分解し、落下していった。



 イズモの船橋から、エルはその一部始終を見届けていた。

 力を籠めすぎて震える手を引きはがすように動かし、遠望鏡をおろす。

 今、目にした飛翔騎士の末期。異常極まりないその倒され方から、彼は蟲型魔獣の能力について推測を得ていた。


「あの魔獣の……能力は! 強い揮発性と、溶解性を有する体液の噴射……!!」


 おぞましい事実だ。

 遮蔽物のない空中という場所において、空間そのものを致命のものと化す“酸の雲アシッド・クラウド”を防ぐ手段など、ないに等しい。

 あの蟲型魔獣に近寄られ、体液弾を浴びたら一巻の終わりということである。



 隊員の無残な死を目撃した偵察小隊にも、衝撃が走っていた。

 彼らは騎操士が毒性により死亡したことまでは知らない。しかし機体が空中で分解して、内部が無事であるなどと楽観することはなかった。


 そのあまりにも惨憺たる最期を目の当たりにしながら、彼らはある決意を抱く。


「絶対に。絶対に、船には近づけさせるな! こんな……こんな魔獣が! あの一匹だけでも、船を墜とされかねないぞ! こいつは、ここで倒さなければ!!」

「た、隊長! あ、あれを……!!」


 決死の覚悟を抱いた小隊長であったが、僚機からの震える声を聞き、指す先に目を向ける。

 そして彼は、そこに絶望を見た。


 蟲型魔獣の背後に浮かぶ影。

 一匹、二匹、三匹――五匹――十匹――まださらに。そこでは、蟲型魔獣の群れが森から浮上を始めていたのだ。


「こ、こいつは……俺たちと同じ、斥候というわけか。最悪だ、一匹ですら持て余しているというのに。この危険性、決闘級なものか。中、大隊級はあるぞ!」


 たった一匹の蟲型魔獣ですら、驚異的な攻撃性をもっているのだ。群れと戦った場合、どのような結果がもたらされるのか。

 それを想像するのは、容易いことだった。



 凶悪な魔獣の群れを前に、船団にも動揺が広がっていた。

 その混乱を突き破るように、エルは一気に動き出す。


「全船、全速で反転してください。その後、最速でこの場を離脱します!」

「もうやってらぁ! だがよ、ありゃあ素早いぞ、逃げ切れんのか!?」


 エルは親方の疑問にこたえるのももどかしく、伝声管の蓋を叩き開く。


「このままでは無理です。飛翔騎士! 全員出撃です。船を失えば僕たちは全滅するしかない、ここで死力を尽くします!」


 叫ぶや、彼は魔法すら併用して船橋から飛び出していった。

 向かう先は最強を冠する彼の鎧武者のもと。船倉にたどり着く勢いのまま、彼は文字通りに一直線に操縦席に飛び込んだ。


 イズモの後方からは、船内で待機していた飛翔騎士が次々に飛び出してゆく。

 イカルガは上部甲板が開ききるのを待たず、扉をかすめるようにして飛び出した。エルは、イカルガの拡声器を最大出力に合わせる。


「飛翔騎士は、最低限の護衛を残して全機、船に取り付いてください!」

「騎士団長! いったい何を!?」

「こないだの魔獣がやっていたことを真似ます。飛翔騎士を船に取りつけて、推進器として使うのです。起風装置ブローエンジン程度の速度では、確実にあれに追いつかれる!」

「しかしそれでは、無防備すぎます! 誰があの蟲どもを食い止めるのですか!?」

「僕と、イカルガが」


 咆哮が、轟く。

 皇之心臓ベヘモス・ハートが最大出力で駆動を開始し、力強い鼓動を受けたマギジェットスラスタが、長く陽炎の尾を曳いた。

 両腕、背面にも銃装剣ソーデッドカノンを構え、鬼面六臂の鎧武者が出撃する。


 さらに速度を上げんとするイカルガへと、シルフィアーネが追いついて並んだ。


「エル君! 私も手伝うわ」

「アディ。あなたの役目は最終防衛線です。もしも僕が討ちもらしたら、仕留めてください」

「ちょっと! エル君、そんな……」


 返事を待たずに、イカルガが一気に加速を強めた。

 推進器の器数も出力も、イカルガが上回っている。アディはみるみる小さくなってゆくその背中に、盛大に不満を投げかけていた。


「もう! こういう時のエル君は勝手なんだから!! ええい! 飛翔騎士隊、船を押して、急ぎなさい! 魔獣が近寄ってくれば各自判断で牽制法撃!」



 エルがアディを連れてゆかなかったのは、何も勝手なばかりではない。

 彼は目撃した飛翔騎士の最期と、魔獣の能力の推測から、とある事実に気付いていた。


幻晶騎士シルエットナイトすら溶かしきる、強溶解性の酸の雲。遠距離火力と小回りに欠ける飛翔騎士では、あまりにも相性が悪い」


 皇之心臓がさらに高鳴る。マギジェットスラスタは甲高い爆音を吐き続け、イカルガは法弾さながらの速度で空を切り裂いた。


「この魔獣は……僕とイカルガが、葬り去る!」


 イカルガが、両手と背後の腕に持つ四挺の銃装剣を構える。

 そのまま離脱する飛翔騎士とすれ違い進むと、一匹だけ先行して飛んでいた斥候役の蟲型魔獣を照準に捉えた。


 斥候は、自らが生み出した酸の雲の中に陣取っていた。この溶解性の体液による攻撃は本体には効果がないらしく、まったく動揺した様子がない。

 その酸の雲のただなかめがけて、イカルガが轟炎の槍を叩きこむ。

 不意打ち気味に飛来した燃え盛る法弾は、狙い過たず魔獣へと突き刺さり、酸の雲を吹き飛ばす爆発と化した。


 炎混じりに弾け飛んだ蟲型魔獣だったが、それにより体液が一気に周囲に飛び散った。それはすぐさま気化し、空中に巨大な酸の雲を生み出す。


「この、生きていても死んだあとも厄介ですね!!」


 イカルガは推進器を旋回させ、目の前に生まれた巨大な酸の雲を迂回する。

 その間に、雲の向こうへと続けて法撃を放った。


 そこには、後続の蟲型魔獣の群れがいる。

 今まさに目の前で同胞が爆散したところだ。魔獣たちは轟炎の槍の危険性を認識しており、それぞれに回避行動をとった。

 それによって行く手を遮られた形になり、不愉快げに甲高い翅鳴りをあげる。


「ここから先へは、行かせませんよ」


 推進器から吐き出した炎をまとい、イカルガが空に立つ。怒りに歪んだ双眸が、魔獣たちを睨み据えた。

 眼球水晶がとらえた景色が、操縦席の幻像投影機ホロモニターに映し出される。エルはそこで蟲型魔獣の姿をつぶさに観察し、あるひとつの事実を見つけ出した。


 魔獣の機動性を支える、盛んに振動する翅。その陰にあまり動かず、静かに虹色の光を放つ翅があったのだ。


「あの輝きは。おそらくあの蟲も、空を飛ぶのにエーテルを利用している。素早さの秘密はそこですか。ならば、イカルガの機動性は有利に働きます」


 源素浮揚器エーテリックレビテータを使用しないイカルガは、飛行のための力の全てをマギジェットスラスタに依存する。

 それは恐ろしく魔力を喰う反面、空中において自在の機動性を生み出す利点がある。浮揚力場を利用し、平面上の移動を主とするであろう蟲型魔獣に対し、いくらかの有利となるだろう。


 その時、蟲型魔獣から体液弾が飛んだ。それはしばらく空を進んだ後炸裂すると、空中に酸の雲を生み出す。

 白色の雲が、イカルガと蟲型魔獣の間を隔てた。


「近寄らせないつもりですか? 無駄です。銃装剣ならば、その雲の向こうへと法撃できます!」


 エルは銃装剣を構えると、酸の雲の中にかすむ魔獣の影へと向けて、法撃を加える。

 飛来する致命の威力をもった炎弾を、蟲型魔獣は持ち前の機敏さでもってかわした。さすがに同じ手はそうそう喰らわない。


「あるいは飛翔騎士よりも、動きがいい。しかも下手に近寄れないとなると、面倒この上ないですね」


 それから数度、法撃を加えるもやはり回避される。

 とはいえ酸の雲が残っている限りイカルガから近寄ることはできず、もどかしく時間だけが過ぎていった。

 エルは、そこで一つの疑問を抱く。


「おかしい。何故近寄ってこないのです? 魔獣からの攻撃が、無駄になるわけではないのに」


 確かに、酸の雲はイカルガを近寄らせないためには有効だが、蟲型魔獣がただそこに閉じこもる必要などない。

 まさか、馬鹿みたいに酸の雲に突っ込んでくるのを待つつもりか、と彼が首をひねった瞬間のことである。

 その脳裏に、恐るべき可能性が閃いた。


「まさか、有りえない……そんな!」


 彼は目を見開くと、急いでイカルガを振り向かせる。

 眼球水晶がとらえた光景は、彼の悪い予感が的中していることを示していた。


 三匹ほどの蟲型魔獣が、イカルガを無視して船団へと迫っていたのだ。

 恐るべき酸の雲を使わせまいと、飛翔騎士や法撃戦仕様機ウィザードスタイルから猛烈な法撃が放たれている。


 戦慄が、エルの脳裏を走った。

 目の前に蟠る、酸の雲。その意味合いが、一瞬にして変化する。


「……これは攻撃でも防御でもない、目くらまし。こちらは囮! そんな、魔獣が“戦術的な行動”をとるなんて!?」


 人々が魔獣との戦いを続けてきたなかで、およそ魔獣と呼ばれるものが戦術的な行動をとったことなど、一度としてない。

 時折、群れとして統率されている種類の獣もいるが、それでも“煙幕をしかけて囮を残し、戦力を分けて障害を迂回する”などという複雑な行動を取れるほどに、知恵が回ったことなどなかった。


 そのような可能性は、エルですら想定していなかった。むしろ、戦いの経験が豊富な騎士ほど想像の埒外となるであろう。


「やってくれますね!」


 飛翔騎士や法撃戦仕様機では、あの酸の雲に対して有効な対抗手段がない。

 敵の術中にはまっていることを理解しながらも、彼にはイカルガを後退させる以外の選択肢は、なかった。



 接近しようとする蟲型魔獣に対し、飛空船団は法弾幕によってそれを阻んでいた。

 体液弾の存在により飛翔騎士は格闘戦を挑むことができず、また近づかれただけで飛空船ごと墜とされかねない。対抗手段に乏しく、彼らは苦しい戦いを強いられていた。


「くそう、ダメだ。速度があがらない、逃げ切れないぞ!」

「泣き言をいうな、とにかく法撃を続けろ! 寄せ付けたら、全滅だ!」


 数に任せた法撃は、今のところ有効に機能している。

 追いかけてきた蟲型魔獣は三匹だ。さすがに法弾が当たれば、魔獣にとっても手痛い傷となる。そのため体液弾の有効範囲まで近寄られずにすんでいた。


 しかしその時。それまでは一直線に接近しようとしていた魔獣が、突如として動きを変える。

 いったん法撃の範囲から離れると、そのまま船団の進行方向にむかって速度を上げた。その行動が意味するところは、一つしかない。


「やばい……こいつら、先回りするつもりだ!」


 させじと、数機の飛翔騎士が船から離れて攻撃を仕掛けるが、酸の雲を警戒するあまり強く間合いに踏み込めない。

 まばらな法撃をあっさりと振りきった蟲型魔獣は、ゆうゆうと体液弾を発射した。それは次々に炸裂し、船団の進路上に猛毒と溶解性を持つ酸の雲を現出させる。


「進路をふさがれた! 舵をきれ、このままだと死ぬぞ!」

「あの蟲を止めろ! また回り込まれる!」


 行く手を阻まれた船団が、慌てて進路を変える。

 だが、後手に回った時点で彼らに活路はない。蟲型魔獣は彼らの努力をあざ笑うように、その進路上に次々と酸の雲を生み出していった。


 飛翔騎士の力を合わせて加速しようとしているものの、巨体ゆえに飛空船の足は遅い。

 船団が蟲型魔獣の先手を取ることは、土台無理なことであった。


 なんとか進路を確保しようと法撃を放ち続けるが、その努力は実を結ばない。

 空中に広がる酸の雲が船団の行き場をどんどんと狭め、その包囲網が完成しようとしていた。


「だ、駄目です! どこに進んでも酸の雲だ!」


 ついに、船の進路が酸の雲によって塞がれる。

 絶望的な空気が支配する中、シルフィアーネに乗るアディは、酸の雲の動きに注目していた。

 空中に蟠る、白色の雲。それはとどまっているわけではなく、ごくゆっくりと動いている。


「諦めないで! よく見なさい、あの酸の雲、徐々に下に広がってる。あれは重いのよ、上になら逃げられる! 飛空船、急いで源素浮揚器へエーテル供給! 高度を上げるのよ!」


 藁にもすがる思いで、各船ともに源素浮揚器にエーテルを注ぎ込んだ。出力を上げた浮揚力場が、船の高度を持ち上げようとする。

 それよりも前に、酸の雲を突き破って蟲型魔獣が接近してきた。

 獲物の行き先を塞いだ今、悠長に上昇するのを待ってくれるはずなどない。


「法撃を! 上昇、お願い、急いで!」


 飛空船から放たれる法弾が、その接近を食い止めんとする。だが混乱と、機敏な魔獣の動きが狙いを定めさせない。

 魔獣の前進が止められないと見るや、何機かの飛翔騎士が我が身を省みずに飛び出していった。


 蟲型魔獣が、脚の節を飛翔騎士へと向ける。ぷつりと体液がにじみ出て、球状の滴を作った。

 それが射出され酸の雲と化せば、飛翔騎士の命はない。さらにはやがて飛空船へと達し、船団を蝕みつくすだろう。


 だが、それが放たれる直前に、後方から飛来した燃え盛る炎の槍が、魔獣に突き刺さった。

 それは法弾とも思えぬ激しい爆発を生じ、魔獣を粉砕する。跡に巨大な酸の雲を残しながら、魔獣の死骸が落下していった。


「ひとつ! さぁ次です!」


 イカルガだ。

 蟲型魔獣たちは船団へと注意を向けていたために、不意を突くことに成功したのである。

 そのままさらに銃装剣を撃ち、もう一匹を同様に撃ち落とした。


「あとは、残りを……まずい、近い!」


 イカルガは最後に残る一匹へと向けて銃装剣を構え、しかし法撃をためらった。


 他の二匹を撃ち落としている間に、最後の一匹はずいぶんと接近してしまっていた。

 飛空船との距離が近く、もしこのまま撃ち落としてしまったら、飛散した体液によって生まれた酸の雲が船と飛翔騎士を包むことになるだろう。

 そうなればいったいどれほどの被害が出るか。


 エルは、とっさに推進器の出力を最大まであげた。吹き飛ばされるような勢いで、イカルガが飛翔する。

 そのまま横合いから、蟲型魔獣へと向けてぶちかましを仕掛けた。


 魔獣の甲殻に、めしゃりと罅が走る。しかし、体液は飛び出なかった。

 これほどの大きさともなると、甲殻の耐久性もかなり高くなる。武器で貫いたり、法撃で破砕しなければなかなか攻撃が通らないのだ。

 エルは、それを逆手に取った。


 推進器から炎が一層長く伸び、蟲型魔獣を押し込んでゆく。

 マギジェットスラスタ四基の全力を込め圧倒的な推進力で魔獣を弾き飛ばすと、そのまま船から距離が離れたところで轟炎の槍を叩きこんだ。

 前進していた魔獣のうち、最後の一匹が雲を残して落下してゆく。


 その頃には飛空船団は高度を上げ終わり、再度加速を始めていた。

 エルが安堵を抱いていると、そこへシルフィアーネが近寄ってくる。


「エル君、もう戻って。逃げるわよ!」

「ダメですよ、アディ。ほら、まだ魔獣の本隊は、追ってくるつもりのようです」


 動きを阻んでいたイカルガが動いたことにより、残る蟲型魔獣たちもまた、動き出していた。

 虹色の輝きを背に、高度を上げて船団へと迫っている。


「先ほどは、よくもひっかけてくれましたね」


 イカルガは身をひるがえし、再び魔獣の群れをめがけて飛んだ。

 連続して銃装剣を撃ち、その進路を阻む。


 意外なことに、蟲型魔獣たちは離れつつある飛空船団を追わなかった。

 法撃をかわすと、速度を上げることをせず、今度はイカルガへと脚を向ける。


「ふふふ、それはいい。こちらに来なさい、それでこそ暴れたかいがあったというものですよ」


 いつしか蟲型魔獣たちは、熾烈な攻撃力を有し高速で自在に空を翔けるイカルガこそ、最も危険な存在だと理解していたのだ。

 そのために何よりも先に、イカルガを倒そうとしている。


「しかし、これで簡単に戻れなくなりましたか。まぁ、いいです……」


 群がるようにやってくる蟲型魔獣の、酸の雲による包囲を轟炎の槍で押し返し、防ぐ。

 いかにイカルガであろうとも、酸の雲には抗えない。蟲型魔獣の群れによって追い詰められつつあった。


 しかし、エルの瞳には絶望も恐怖もない。


「逃がさないのは、僕のほうだ」


 代わりにそこにあったのは、底知れぬ怒りの炎であった。

 轟炎の槍をも凌ぐ、煮えたぎる滅殺の意思であった。


「溶解性体液を放つ、蟲の魔獣よ。お前たちは、鋼をまとう幻晶騎士の天敵のような存在です」


 幻晶騎士を愛しすぎた狂人、エルネスティにとって蟲型魔獣の能力はいっさい許容できないものだ。


「ならば、僕にとって不倶戴天の仇敵でもある。そのようなもの、この世に一匹たりとて生かしておくものか」


 炉の出力を最大まで跳ね上げて、鬼面六臂の鎧武者が咆哮を上げる。

 その能力の全てをつぎ込み、殲滅戦が、始まった。

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