最終話

 食後は昨晩と同じように縁側でくつろいだ。

  

 沙代とふたりで並んで座って、一本の煙管きせるをのんびりふかす。まるでときがゆっくりと流れているかのようだ。透きとおる月光を帯びた庭は青く冴えて、草木を揺らす夜風が頬にも触れていく。


 沙代は今晩あの世に帰るという。私は叶わぬことだろうと思いつつも訊いた。

「名残惜しいな。もう少しこの世にとどまれないのかい?」

「申しわけありませんが……」

 言いながら沙代は煙管を私に返してくる。私はそれを受け取ってまた尋ねた。

「今度はいつ頃こちら側にくるのかな?」

「はっきりとはわかりません。でも、近いうちに必ず」

 私はそれを聞いて安心した。

 沙代が帰ってしまうと寂しくなるが、近々また会えるであれば少しの辛抱だ。


「ああ、そうだ。筍のお礼をあまさんに伝えておいてくださいね」

 沙代の膝の上には天津さんにいただいた筍があった。適当に折ったぬぐいの上に、土を綺麗に洗い流した筍が置いてある。

「その筍に乗って帰るんだな」

「ええ、そうです。さてと……」

 沙代は縁側からおりて庭に立った。

「私も名残惜しいですが、そろそろ帰らないと……」

「そうか、もう帰るのか」


 まだ、帰らないでくれ。思わず引き止めたくなったが、きっとそれは沙代を困らせる。私は名残惜しい気持ちを抑えこんで言った。

「しばしのお別れだな」

「ええ、しばしです」

 沙代がそう言ったとき、馬のいななきが聞こえた。いつの間にか沙代の横に猛々しい馬が立っている。筍がへんした馬のようで、茶色い毛並みが筍の印象を残していた。


 沙代は馬の首あたりを優しく撫ぜた。しかし、私はその後ろ姿に違和感を覚えた。はっきりどうとは言えないが、ようすがいつもと違う気がする。


「……沙代?」

「なんですか?」

 呼びかけると沙代はすぐに私を振り返った。穏やかに笑みを浮かべているが、その笑みにも不自然さがある。嫌な予感に苛まれて胸がざわついた。

 私は恐る恐る訊いた。

「またこちら側にくるという話はまことだろうね?」

「ええ、近々……」


 即座に返してきたが沙代は嘘が下手だ。彼女のたらはいともたやすく見抜くことができる。

「もう……」

 思わず言葉に詰まった。言い直して続けた。

「……もうこちら側にこないのか?」

「いいえ、近々きますよ」

 沙代はそう言ったが、嘘に違いなかった。

 さっき沙代が口にした言葉が耳の奥によみがえる。

 ――ああ、そうだ。筍のお礼をあまさんに伝えておいてくださいね。

「またここにやってくるのだろう? だったら、筍のお礼は君が直接天津さんに言えばいいじゃないか」

 沙代は私を見つめたまま黙っている。その沈黙はもうここに現れないという証拠に違いなかった。

「どうしてだ?」

 思わず語気が荒くなる。

「閻魔さまの許可が出なかったのか?」

 私は堪らず縁側から庭に飛びおりて、その勢いのまま沙代を抱き締めた。

 沙代は私の背中に両腕をまわして優しくさすった。よしよし――。


「せっかくまた君に会えたんだ。いかないでくれ」

「ご安心を。閻魔さまの許可は出ていますので、またこちらに寄らせてもらいますよ」

「出鱈目だ。君の嘘はすぐに見抜ける」

「いいえ、嘘ではありません。私を必要としてくれるのであれば、私は何度でもあなたに会いにきます。でも、あなたの選択はとてもいいことなのです。ためらってはいけません」

「どういう意味だ?」

「しっかり生きてくださいということです。それがちゃんとできたら、いつか頭をぽんぽんして褒めてあげますから」


 沙代がそう言い終えた直後、腕から彼女の感触が消えた。あっと思って腕の中を見てみると沙代はもういなくなっていた。筍の馬も一緒にいなくなっている。呆然となってその場に突っ立っていると、遠くで馬のいななきが聞こえたような気がした。


 それからいくとせもの月日が流れた。


    *


 沙代が消えてしまったあとも、私はこの家に住み続けている。


 あの夜から沙代を一度も見かけていないが、彼女はなにかにつけて私に会いにきた。

 庭を吹き抜けていく風に彼女を感じ、背中に差す陽のぬくもりに彼女を感じ、家のいたるところに彼女を感じた。彼女は何度も私に会いにきて、どこにでもその気配を感じた。

 つまるところ沙代があのとき口にした言葉は出鱈目ではなかったようだ。

 ――私を必要としてくれるのであれば、私は何度でもあなたに会いにきます。

 彼女は人ではないものになって私に会いにきていた。


 しかし、今はもう沙代を感じない。

 きっと私が彼女を必要としなくなったからだ。


 あるとき私は気の乗らない縁談をした。

「ええ、ええ、とてもいい娘さんでしてねえ」

 そう言って天津さんの奥さんに縁談を持ちかけられたからだ。

 私は再び伴侶を得ようとは思っていなかった。沙代以外の誰かと夫婦めおとになるなんて考えられない。だが、天津さんのご一家には日頃からお世話になっており、すげなく縁談を断るのが申しわけなかった。形だけでもとその縁談の話を受けた。


 天津さんのおたくで縁談をした相手は、私と近似した境遇を持つ人だった。何年か前に夫に先立たれたそうで、私より五歳年下の穏やかに笑う女性だ。

 また、縁談中の天津さんの奥さんは始終ご機嫌だった。

「あらあら、まあまあ、お似合いのおふたりだこと。ふふふ」


 最初は単なる好奇心にすぎなかった。女性は天津さんの知人だ。もしや、この人もばけぎつねではないのか。

 ところが、その好奇心がいつのまにか好意に変わっていき、沙代のときのように一目惚れではなかったものの、ゆっくりと丁寧に愛が育まれていった。そして、縁談から約十ヶ月後にその女性を妻に迎えた。

 まどやかな暮らしの中で、新しい妻も私をこう評してくれた。

「あなたは本当に料理がお上手ですねえ」 


 気の乗らない縁談だったはずが、はたして私は再び大切な存在を得た。それは自分でも意外なことだった。そして、それから約一年後に娘を授かったとき、私は沙代の気配をまるで感じなくなった。


 沙代は焼き餅の匂いにつられて絵から出てきたと言っていた。だが、本当は辰さん似の心優しい閻魔さまの許可を得て、別れ際のあの言葉を伝えにきたのではないだろうか。

 ――あなたの選択はとてもいいことなのです。ためらってはいけません。


 私は新しい伴侶と娘を得て、沙代を忘れることにした。おそらく、それはとてもいいことで、ためらってはいけなかった。


 沙代を感じなくなってからしばらくが経ったある夜のことだ。私は沙代が好きだった塩にぎりをふたつ作って竹の皮で包んだ。それを手にして縁側に向かうと、月光の下であぐらをかいて目を閉じた。


 ややのあいだ視界は闇に覆われていた。

 だが、視界の中心に小さな光がぽつんと現れたかと思うと、いっきに視界が全体が眩しくなった。あたり一面に黄色い菜の花が咲き、空は高く広く抜けるように蒼い。 

 私は風が心地よく吹き抜ける小高い丘にいた。

 少し先に目をやれば、華奢な後ろ姿がある。その後ろ姿は見覚えのあるものだ。桜色の着物を着つけて、長い黒髪を風に遊ばせている。


 私は彼女に近づいていって名前を呼んだ。

 沙代。

 すると彼女はこちらを振り返った。

 私を認めると、あら、あなた、と笑う。

 久しいね。

 ええ、お久しぶりです。

 元気にしていたかい?

 ぼちぼちです。

 これ、君に差し入れだよ。

 竹の皮に包んだおにぎりを差しだすと、彼女の顔がいっそう明るくなった。

 まあ、おにぎり。ありがとうございます。早速いただいても?

 どうぞ。

 彼女は竹の皮を開くと、ふたつのおにぎりをぺろりと平らげた。彼女が食べるところを見たのは久しぶりだが、相変らずの気持ちいい食べ方で安心した。

 彼女は竹の皮を小さく折ると、着物の袖の中に仕舞った。

 あなたの塩おにぎりは本当に美味しいですね。

 塩の加減と握り方を調整すれば、具なしでも充分美味しくできるんだ。

 なるほど、と感心する彼女に、私は言うべきことを告げた。


 実はね、こんな私にも新しい家族ができたんだ。

 そのようですね。

 妻はとても優しくて、娘は本当に可愛いよ。

 あら、まあ。

 私なりに彼女たちを大切にしている。

 とてもいいことですね。

 

 彼女はにっこりとしながら、風になびく髪を耳にかけた。


 君にきたい。

 なんでしょう?

 新しく家族を得た私はしっかり生きているかい?

 ええ、生きています。たいしたものです。

 そうか、と呟くと、そうです、と返ってきた。

 

 あの夜に約束しましたね。しっかり生きることができれば褒めてあげますって。

 確かに約束したね。あれからずいぶん経ったけれど、褒めてくれるかい?

 もちろんです。頭をこちらに。

 身を少し屈めると、彼女の手がこちらに伸びてきて、私の頭をぽんぽんと叩いた。

 よくできました。さすが私の愛した人です。

 そう言って彼女は手を引っ込めた。


 私はにわかに彼女を抱き締めたくなって、申しわけないが勝手に抱き締めさせてもらった。すると、彼女は私の背中に両腕をまわして、子供をあやすように優しくさすった。

 よしよし――。


 しばらくそうしたのち、私は彼女から離れて、一歩二歩とさがった。

 目の奥からこみあげてくるものがあったが、それを抑えこみつつ彼女にしっかり伝えた。

 君と会うのはこれが最後になると思う。

 寂しくなりますね。でも、とてもいいことです。

 彼女は風に遊ばれている長い黒髪をまた耳にかけた。

 短い間でも君と暮らせて本当によかった。

 私もです。あなたのもとにとつぐことができてしあわせでした。


 私が会釈して微笑むと、彼女も会釈して微笑んだ。

 

 元気で。

 あなたもお元気で。



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〔受賞作/カクヨム以外〕菜の花の咲く丘。そこに立つ桜色。 烏目浩輔 @WATERES

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