第二章・君の名は 君の名は。
第二章・君の名は 君の名は。 / 1
翌朝。
死んだ目で出勤するゆかりを見送った後、ふたりの曾孫の手を引いて、テツは大檜市民会館を訪れた。
檜川の河畔に建てられた白塗りのコンクリート建築。敷地は河川敷と一体化しており、堤外には自然の葦原がそのまま残っている。親水遊歩道も整備されて市民の憩いの場として定着し、特に月見の時期は川面に月が映えて絶景となる……とかなんとか。
テツは、首を何度かこきこきとひねった。その憩いの場が以前どんな場所だったか、曾孫たちにはどうせまた伝わらないだろうし、無理に伝えなくてもいいことだ。
それより、入口の階段にやたら段差があるのはどうにかならんのか。バリアフリーのスロープは遠回りで、爺ぃと子供たちは、えっちらおっちら、かけ声をかけて一段ずつ昇っていった。
正面玄関を抜け、高い天井のロビーを過ぎた先にある、大劇場のような豪華革張り観音開きの大扉───に見せかける安いラッピングを施した防振シャトルドアから、イベントホールに入る。
受付をすませてコンパニオンの女性に兄妹を預けると、テツは暇になった。
手持ち無沙汰に、ホールをぐるり一周してみる。学校の体育館の倍くらいの広さだ。座席や内装が可動式で、正面扉から見て左右に収納できるようになっており、出さなければ体育館、両側から出せば観客席つきの室内競技場、片側だけ出すと講演会や演劇にも使える多目的ホールである。
今日は可動座席は出ておらず、フロア全面を使用している。床面保護のシートを敷いた上に、天面に緑の羅紗を張ったカジノ用の楕円形のテーブルが二〇卓ほどと、パイプ組の簡素なステージに大型のモニターが設置されていた。
しかし、埋まっている卓は半分ほど。大型モニターに近い卓にだけ、子供たちがきゃあきゃあ黄色い声を響かせている。ゆかりの言っていた通り、入りは良くないようだった。
と、そのモニターに突然アニメ調の少女キャラクターが現れ、「みなさーん! こーんにーちわー!」と子供らに負けない甲高い声を張り上げた。
後から聞けば、カジノシトラスのマスコットキャラクター〝シトリン〟というらしい。目が顔の半分くらいあって腰まであるオレンジ色の髪をして妙におっぱいが大きくて、体の線を強調するきわどいシルエットに太股露わなミニスカート、どうも子供の情操教育に良くない気がするが、バクチに情操もクソもあるかとテツは思い直した。
とはいえ、スピーカーに近づくと耳が痛い。金切り声は勝子とゆかりでたくさんだ。声から逃げるようにホールの端へ向かうと、引率保護者の休憩所と化していた空き卓のひとつから、目立つ白スーツが手招きしていた。ジョーである。
テツはその隣に、えっこらしょと腰を下ろした。
「よう」
「おう」
「俺は曾孫の相手だが、おまえさんはなんでここに?」
「光恵に呼ばれたんだよ」
光恵とは、ジョーの息子富市の妻、つまり義理の娘である。タチバナシステムの広報担当を務めている。
光恵はすぐに、ファッションモデルのように腰を揺らしながら現れた。───テツが今さっきモニターで見たアニメ少女の格好であった。歳相応の大きなお尻がミニスカートにみっちりつまっていて、よけいに色っぽい。
「おはようお
「おまえ……その格好」ジョーがあきれた。
「気合い入れてコスプレしたのに、スタッフにその格好で出るなって言われた」
唇を尖らせながら、手に持ったオレンジの長髪のウィッグを、ショートボブの頭につけたり外したりのしぐさを何度かしてみせた。やる気満々だったらしい。
「正解だな、子供の前に出すモンじゃない」テツもため息をついた。
「あら、だったら大人の前に出しちゃおうか?」
屈託なく笑うところは、知り合った頃と変わりない。にこやかに軽口を返しつつ、光恵はディーラー席に腰を下ろした。
光恵は富市の妻であるが、出会いはテツとジョーの方が早い。藤倉一家の肝煎りだったキャバレーの、トップだったのである。無論その店も、今はフランチャイズの大衆居酒屋だ。
洋酒が苦手なテツは監督上たまに顔を出すていどだったが、ジョーはそこのかつての大常連であった。
酔いつぶれた彼を毎度迎えに来たのが富市だった。それがなれそめである。ジョーが冗談で、いつか息子の嫁になどと言っていたら、本当になってしまった。うまいこと玉の輿に乗ったわよね、とはゆかりの弁である。
カジノシトラスがヒットする前は家族経営のような中小企業であったから、社長の妻としてタチバナシステムの役員に収まったはよいが、夫と違い商才も技術知識も持たない。広報・宣伝担当に収まったのは自然な成り行きだった。昔取った杵柄で、見目も人当たりも良いので、存外向いているようである。今日のようなイベントがあれば、自ら表に立って仕切るのが常だ。タチバナシステムの看板娘である。……娘、とまだ呼んでよければだが。
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