世界で初めて古事記の英訳を行ったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)も「典型的なヴィクトリア朝の紳士」であったらしく、日本文学を下に見ていた面がある様ですが、チェンバレンが人類学の祖と呼ばれるタイラー〈Edward B. Tylor(1832- 1917)〉の書を読んでいた事から、その影響が推察されるそうですね。
・外国人による記紀研究⑵ 世界初の古事記の英訳 The kojiki( KO-JI-KI or “Records of Ancient Matters” ) https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330665271268556
本質をよく捉えられていますよね。本稿を読ませて頂いて、思い出したのが、「王化の徳」なんて言葉が三国志や記紀にも似た価値観が出てきて、即ち、異民族や少数民族を文明化していない蛮族とみて、王権の支配を正当化する。実のところ住民自体が望んでいる場合もあってマイナス面ばかりではないのは確かですが、元来の価値観や、伝統が再編され、少なくても旧勢力の有力者に血が流れるのを回避するのは難しい。王化の徳とはまた違いますが、当時のグローバルスタンダードである仏教の導入期に重ね合わせるのも最もかと思いました。
人類学的には西洋では社会を進化論的に捉える必要があったのは、同時代の「未開人」と、ヴィクトリア王朝期のイギリスや工業化の時代を迎えたアメリカとを関連付ける必要があり、つまりイギリスやアメリカを文明化した人々は「未開人」から現在の「文明人」に至った自分達の歴史を、進化の過程として捉えようとしていたらしいですね。(『はじめての人類学』奥野克巳)
世界で初めて古事記の英訳を行ったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)も「典型的なヴィクトリア朝の紳士」であったらしく、日本文学を下に見ていた面がある様ですが、チェンバレンが人類学の祖と呼ばれるタイラー〈Edward B. Tylor(1832- 1917)〉の書を読んでいた事から、その影響が推察されるそうですね。
幸いなことに、人類学が進歩し、フランス人の人類学者クロード・レヴィ=ストロース〈Claude Lévi-Strauss(1908- 2009)〉は、遠く離れた辺境の地に住む人たちを、「文明から取り残されている人」として「野蛮人」や「未開人」呼ばわりして、劣等者扱いするような偏見の目を持って見下して語る考え方こそが非科学的という発想が、少なくても「アカデミックな分野」では主流の様ですね。只、一人一人の意識とまではそうはいかないでしょうね。昔読んだトム・クランシーの小説などを思い出すと、時代遅れの黄禍論なんて言葉を思い出さざるを得ませんしね……。
・外国人による記紀研究⑵ 世界初の古事記の英訳 The kojiki( KO-JI-KI or “Records of Ancient Matters” )
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330665271268556
作者からの返信
読んでいただきありがとうございます。今までにも感じていたのですが、麗玲様は引き出しが多い。知らない事柄に出会う度に調べていますし、その都度新鮮な気持ちにさせられています。
ダーウィンの世界観で述べたことは、今後僕が表現したいテーマでもあります。近代から現代まで、人類は過去からは考えられないようなスピードで文明文化をアップデートしていきました。
資本主義からなる巨大なマーケットを作り出し、科学技術は月にロケットを飛ばすだけでなく人間の複製を作り出す力も手に入れています。コンピューターの技術は、人間の思考を凌駕するAIを生み出しましたし、世界をインターネットでつなぎました。
ところが、そうした技術の進化が人間に幸せをもたらしたのかというと疑問です。新たな不幸を生み出している側面もあります。
私は、仏教の世界に関心があるのですが、お釈迦さんが提示した思想の根本的な問いかけは、
――人間の幸福に関する価値の転換
だと考えています。
現代の技術の発展を否定しているわけではありません。原始世界に返りたいわけでもありません。激動の変化に晒されながらも、幸せを掴みとっていく物語を創造したい。そのように思っています。