第61話 自由からの逃走
今日は、晦日。明日までに、拙書「逃げるしかないだろう」の推敲は完了しそうにありません。誰に対しての言い訳か分かりませんが、もうしばらくお待ちください。今日は一年の締めくくりとして、僕が感じていることをつらつらと呟いてみたいと思います。
今年の一番のニュースは、安部元首相の暗殺でしょう。日本中が、唖然としました。世間の評価は兎も角、僕は安部さんを評価していました。これからの日本をデザインできる、稀有な人物だったと思っています。確かに、多くの問題を残しましたが、その問題が安部さんの功績を帳消しにするとは思えません。途上での死は、無念だったと思います。
そうした安部さんの死がもたらした問題が、統一教会に飛び火しました。献金問題、2世問題が取り上げられています。統一教会は、話にならないくらいの詐欺集団だと思っている僕ですが、国やメディアにしても、この問題に対する取り組みは筋違いだと考えています。あまりにも場当たり的で、本質を見ていない。
1941年、ヒットラーの台頭に警鐘を鳴らす意味で、一冊の本が出版されました。エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」です。
18世紀のフランス革命や独立宣言といった革命によって、それまでになかった新しい概念が一般的になります。「自由」と「平等」です。封建的な社会からの脱却を目指して、これらの概念から「自由主義(資本主義)」と「共産主義」という新しい社会メカニズムが生まれました。瞬く間に世界中に広がっていきます。
当時のドイツでヒットラーが台頭した背景には、自由主義からくる貧困がありました。資本家の搾取により、大多数の民衆が苦悩に喘ぐのです。自由は約束されましたが、多くの民衆は食うことに困ります。そうしたフラストレーションに応える形で、ヒットラーが支持されたのです。なぜでしょうか。
革命以前の、封建的な社会は階級的な社会です。人間に差別があり、職業を選択する自由はありません。貴族の子は貴族になり、大工の子は大工になる。それが当たり前の社会でした。現代から見れば不自由そうです。しかし、不幸ではありませんでした。大工には大工のギルドが形成され、商人には商人のギルドが形成される。子供たちは、将来の職業の英才教育を受けて育っていく。生まれた時から、生きる道を決められている。それが自然な社会でした。
ところが近代では、自分の将来は自分で決めるようになりました。自由なんです。一部の自由を謳歌した人々は大きく羽ばたいていきますが、それはごく一部です。自由を扱いきれない大多数の人々は、自身が進む道を決めきれず、孤独になっていくのです。そうした道を決めきれない人々に、道を指し示したのがヒットラーでした。善悪の判断をすることなく、多くの人々がヒットラーを支持し始めます。爆発的な社会現象になりました。
自由というのは、孤独です。生きる責任を自分に課します。素晴らし生き方ですが、常に努力を繰り返し、考え続けなければなりません。かなり辛い生き方です。対して、不自由でも何かしらの組織に帰属する生き方は楽です。安心が出来ます。生きる責任を他者に委ねたらいい。大多数の人々が、それで満足しました。自由から逃走したのです。
現代社会で、宗教という組織に需要があるのは、この自由から逃走しようとする民衆の喘ぎだと思います。自身の存在も、自身の思考も、宗教に委ねる。その方が幸せになれるのです。神様を見せられた方が、安心ができるのです。
これは宗教に限ったことではありません。大企業の終身雇用も、公務員に一定の需要があるのも、根っ子は同じです。間違ってもらっては困るのですが、僕は、宗教や大企業や公務員を非難しているわけではありません。思想的なパターンの話をしています。仏教的には、これを内外相対といいます。
内外相対とは、自分の幸不幸の原因を、自分に課すのか、他者に委ねるのかで分けられます。神を含め他者に、自身の幸せの原因を求める生き方は、自分自身を顧みない。上手くいっている内は良いのですが、問題があった場合が大変です。他者にその原因を転嫁します。
政府に対してその運営を批判する場合、大きく二つのパターンがあります。解決に向けての論理的な批判なら構わないのですが、問題は責任転嫁的な批判です。人格を否定して排除の論理が生まれやすい。個人的には、安部さんに対する批判は人格否定が多かったように思います。批判することが目的で、解決を目指していない。中世の魔女狩りも、ロシアとウクライナの戦争も、相手に責任を転嫁することが目的になっている。
責任転嫁するわけですから、悪者が必要です。悪者を作り、組織をまとめる。悪者はいけにえの様なものです。戦争にしたって、敵を作らなければ始められません。作ることで国内の結束を固めます。あさま山荘事件を勉強したことがあります。カルト的なあの世界で、強固な結束を作るために、内ゲバが繰り返されました。仲間の一人を敵にすることで、集団の結束を固める。多くの若い命がリンチによって殺されました。
悲しいことですが、相手に責任を求めるというこの思想は、この世界のスタンダードです。では、仏教が考える、自分に責任を課す生き方とはどういうことでしょうか。
仏教では、自分自身が成長することで、周りの環境を変えていく。と考えます。その論理的な考え方の根拠として、依正不二があります。ただ、この内容はこれ以上は語りません。長くなります。
統一教会で荒れる日本ですが、信仰そのものは自由です。ただ、その思想性について、もうそろそろ研究がされても良いように思います。仏教は八万法蔵と言われるくらいに、考え方が多岐に広がりました。長い歴史の中で、様々な人が好き勝手言ってきた歴史もあります。そうした中、中興の祖である天台が、仏教を体系的に整理してまとめました。
仏教と一口に言っても、その思想性は色々です。小学校、中学校、高校、大学と学問が深くなっていくように、思想も浅深があります。責任転嫁する思想は、仏教的にはもっとも浅いとされています。理屈的には、その通りだと思います。小学生でも分かる話です。ただ、自由から逃走した方が、人間は楽なんですよ。
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