泡沫の夢のように、けれどもそれは

「……?」


 お盆が過ぎ、静奈と夏の海を楽しんでから更に数日が経過した。

 最近になってバイトも少し忙しくなったことも関係しているのかもしれないが、今まで以上に朝の目覚めが龍一にとって辛いものだと思い始めた。


「なんか最近めっちゃボーっとしてんだよな」


 夏休みが終わりに近づくにつれて少し体が重くなっていくような気さえしてくるのは疲れが溜まっているのか、はたまた何か別の理由があるのかは分からない。

 体を起こして鏡に顔を映すと、いつもと変わらない強面が出迎えてくれた。

 目の下に隈があったりするわけでもなく、目付きが悪いだけでいつも変わりなく悪ガキの姿がそこにはあった。


「……わっかんねえ」


 病気というわけでもなければ以前の風邪のようなものでもないので、そこまで深刻に考えてはいないが静奈たちに迷惑を掛けたくはなかった。

 今日はバイトもないし誰かと会う予定もないため一日のんびりすることにした。

 コンビニで買っておいたサンドイッチを頬張りながら、龍一は少しだけ懐かしいモノを目に留めた。


「そういやこんなのも少しだけ書いてたか」


 机の上で乱雑に置かれていたノートの一つ、一冊分使えるはずなのに最初の二ページ程度しか使われていないノートだった。

 それは龍一がこの世界の本来の道筋について書いていたものだ。

 どういう時期にどんなイベントが起こるのか、それをやる気の無さが垣間見える雑な字で時系列が書かれている。


「……もうこれもいらねえな」


 積まれたノートの上に置いた。

 何度も思ったことだが既にこの世界は龍一が知るモノとはかけ離れており、本来ならこの夏休みの間に静奈は龍一に染め上げられ、休み明けと同時に宗平を絶望に叩き落すのだがその心配ももはや必要ない。


「……もしかして」


 この体のダルさと妙に気持ちが落ち着かない理由について、まさかそれかと龍一は答えに辿り着いた。

 それは何かがあって本来の道筋に戻るかもしれないことを恐怖していたのだ。

 こうして龍一が別の世界に生まれ変わったことだけでもあり得ないことなので、それ以外の何か更にあり得ないことが起きても何らおかしくはない。


「くくっ、俺ってこんなに怖がりだったか?」


 このみんなと築き上げた関係を一瞬でぶち壊すような何か、それがもしかしたら起きるかもしれないことを龍一は恐れていたというわけだ。

 いつもの龍一なら笑い飛ばすはずのことなのに、そのもしもを想像してしまい不安を抱えてしまっている……それがこの体の不調ではないかと考えた。


「病は気からとも言うしなぁ……ま、病気じゃねえんだけど」


 それから着替えを終えて畳の上に横になった。

 朝方だというのにミンミンと蝉の鳴き声がうるさく、これすらも夏の暑さを演出しているかのようだ。

 しばらくの間冷房を付けずに堪えていたが、我慢できなくなってついにリモコンを手に取りスイッチを入れる。


「……あ~」


 一人でボーっとすることの何とも暇なことか。

 そのままジッとしていると、ドンドンとアパートのドアが叩かれた。

 朝にゴミ袋を捨てに行ったので鍵は開いており、ガチャッと音を立ててその来訪者は何食わぬ顔で中に入って来た。


「やっほ~龍一、おはよう」

「……やっぱりお前かよ」


 こうして連絡もなしにやってくるのは彼女、千沙以外にあり得ない。

 静奈も沙月も基本的に連絡を取り必ず予定を立ててやってくるため、こういうことをするのは彼女以外居ないのだ。


「暇してると思って来てあげたわよ」


 もしも龍一が留守にしていた時のことを一切考えていない様子だが、今は少しだけ千沙の来訪に龍一は気分を軽くさせた。


「そうだな。確かに暇だったわ」


 そうでしょうと彼女は笑ってすぐ近くに腰を下ろした。

 そのままゆっくりとした時間を千沙と過ごしながら、そう言えばこんな感じが主だったなと龍一は呟いた。


「こうしてお前としょっちゅう一緒なのが昔だったな」

「そうねぇ。ずっと面倒を見てきたようなアンタが大切な彼女を作っちゃって」

「……今でも何だかんだ不思議に思うことがあるぜ」

「あたしだってそうよ」


 龍一も千沙も思うことは同じということだ。


「……アンタ、今日なんか調子悪い?」

「あん? いや別に……まあちょっと気分が乗らないってだけだ」


 そして龍一のコンディションについても千沙は気付いてくれた。

 千沙は何かを少しだけ考えた後、寝転がる龍一のすぐ傍に彼女も体を横にして抱きしめてきた。


「おい」

「まあまあ楽にしなさいな」


 まるで子供をあやすようにしながら千沙は龍一の頭を撫でる。

 咲枝にも時々されることだが、やはり年上の女性にこうされると段々と気分が落ち着いて眠たくなってくる。


「……ふわぁ」

「眠たいの? だとしたら大人しく寝なさい」

「なんだよそれ……まあでも、しばらく頼むわ」

「えぇ」


 ここまで言ってくれるならありがたいと思い、龍一はゆっくりと目を閉じた。

 段々と暗闇に沈んでいく感覚を感じながら、千沙の柔らかな胸の中で龍一は眠りに就くのだった。

 龍一から静かに寝息が聞こえてきたのを感じ取り、千沙はクスッと微笑んで時に可愛く時に困らせてくる悪ガキを愛おしむように頭を撫で続けていた。





 時に人の不安というものは当たるモノだ。

 こうして龍一が眠ることで不思議な夢を見ることは多かったが、今回に関してはあまりにも質が悪く……そして、彼の本質となる夢だった。


「……ここは」


 そこはどこか見覚えのある部屋だった。

 今まで居た馴染みあるアパートの部屋ではなく、ちゃんとした一軒家の一室であり生活感に溢れた部屋だった。


「……………」


 困惑した頭で周りを龍一は……否、は見渡した。

 そんな中で一際目を惹いたのが一冊の本、に見られたら間違いなく恥ずかしくて死んでしまうレベルの本だった。


「……っ」


 その本を見た瞬間、彼は咄嗟に頭を押さえてその場に蹲った。

 鋭い痛みが頭を走り抜け、ただの頭痛とは決して思えないほどの痛みに歯を食い縛るほどの辛さが押し寄せた。

 しかし幸いにもすぐにその痛みは無くなり、今のは一体何だと彼は頭を捻った。


「……何だ? 何か大事なことを忘れてるような」


 さっきまでのことだけでなく、何か彼にとって大切なモノを忘れているような胸騒ぎがあった。

 しかし、彼はそれを思い出せずにいた。

 思い出せない……いや、元々何もなくこれが普通ではないかと思いながらも再び彼はその本に目を向けた。


“夏休み明け、大切な君は染められていた”


 苦手な人も多い中、同時に好む人も一定数存在する寝取られジャンルの漫画だ。

 彼は別に寝取られが好みではなかったが、絵柄が好みだったのでどういう内容か気になり買ってしまったいわば業の深い作品だった。


「……ふむ」


 パラパラと内容を見るようにページを捲っていくと、素晴らしい画力によって描かれた一連の物語が目に入る。

 ヒロインである竜胆静奈が竿役の獅子堂龍一の好み染め上げられ、清楚な見た目から正反対のギャルへと変貌を遂げる物語だ。


「なんで買っちまったんだろうなぁ……この絵が悪いんだよこの絵が!!」


 内容としては主に静奈と龍一、そして奪われ役の主人公である宗平が描かれているが本当に絵が綺麗だ。

 時々出てくる他のキャラクターも魅力的に描かれており、内容を顧みないのであれば素晴らしい画力だった。


「……寝取られって心が痛くなるもんだけど、なんでこんなに胸が痛いんだ?」


 静奈が龍一に染め上げられるシーンを見ていると、どうしてか初めてこの本を読んだ時以上に心が痛かった。

 まるで自分の大切な者が奪われていくような……それこそ、手元にあった大切な存在がどこかに行ってしまうような切なさを彼は感じていた。


「……静奈」


 何故、こんなにもこの名を口にするのが切ないのか……それが彼には分からない。


『大丈夫、私はずっと傍に居るわ』

「っ!?」


 誰かが傍で呟いた気がしたのが、その部屋には彼以外誰も居ない。

 気のせいかと首を傾げた彼は漫画を本棚に戻し、釈然としない気持ちを抱えながらもに向かうのだった。

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