第56話 記憶 ~yume~
ここはどこだろう?
⚫は誰だろう?
気がつくと⚫は、生ぬるい液体の中にたゆたっていた。
『オハヨウ、ボクノコエガキコエルカナ?』
眼鏡をかけた見知らぬ男がこちらを覗き込みながら、何事かしゃべっていた。
『ボクノナマエハラッキースケベ。キミノナマエハショゴス……イヤ、ショコラニシヨウカナ。キミハ、コノボクガウミダシタモンスターダ。イマハマダチイサイケレド、ムゲンニシンカスルカノウセイヲヒメテイル。サア、ドンドンセイチョウシテ、ボクノタンキュウシンヲミタシテオクレ!』
興奮した様子で、男が叫んでいる。
これは⚫に自我の芽生える前、人で言えば『物心がつく』前の記憶。
◆
空腹。空腹。満たされない食欲。
⚫は捕まえたゴブリンを身体の中で消化しながら、飢餓感をもて余していた。
また、あの眼鏡男が話しかけてくる。
『ヤア、ダイブオオキクナッタネ、ショコラ。タクサンタベテイルカナ? シカシ、ウーン。テイキュウナモンスターバカリタベテルカラ、チカラハツイテモチシキガミニツカナイナア。ボウケンシャデモタベサセラレタライインダロウケド、ソウソウコンナトコマデコナイシネェ。ダレニモジャマサレズニジッケンスルタメトハイエ、ヘンピナバショニダンジョンツクッチャッタカラナア……オヤ?』
男は何かに気が付いて顔を上げる。
『コレハイイ! ボウケンシャノパーティーダ。シカモ、ホブゴブリンニオソワレテアイウチ、ノコッタヒトリモヒンシノジョウタイトキタ! サア、ショコラ。テンソウシテアゲルカラ、オイシクイタダイテオイデ!』
光に包まれ、次の瞬間には周囲の景色が変わっていた。
目の前には人間の女が、壁を背に座り込んでいた。服の腹には赤い染みが広がっていた。
『ハァ、ハァ……スライム、デスカ。ドウヤラ、タダノスライムデハナサソウデスネ……。ワタシモココマデノヨウデス……。アナタ……オナカガスイテイルノデスカ? ……イイデショウ、タトエアイテガマモノデアッテモ、ウエタモノノチニクトナレルナラ、カミノゴイシニカナウハズ。サア、オイデナサイ……』
ズズズズ……
人間の女、僧侶を呑み込み消化した『私』は、初めて飢えから解放された。
私を苛んでいたのは『自我の欠如』だったのだ。呑み込んだ女の『知識』が、それを補ってくれた。
『礼を言いますヨ、人間。私は初めて満たされました。私はショコラ。スライムのショコラ。テケリ・リ! テケリ・リ!』
私は、自分が生まれて初めて笑っていることに気がついた。
◆
ある時、眼鏡男もといダンジョンマスターであるラッキースケベが、誰かを伴ってやってきた。
その誰かは、私のことを物珍しそうにジロジロと見つめてきた。デリカシーのない奴だ。
『へえ、コイツが例のスライム娘か』
『なんなんデスか、アナタ? 初対面のレディーに対して失礼デスよ?』
『アハハ、まあまあふたりとも。ショコラ、紹介するよ。彼はラグニア・ヴァーンズ。僕の親友だよ』
『悪友だろ』
聞けばふたりは幼い頃からの付き合いだそうだ。
『聞いてよショコラ。彼は色欲の権能持ちのはずなのに、女子に対しては超奥手で、いい歳してまだ童貞なんだよ』
『あ、てめぇ! ナニ勝手に言ってんだ!』
『いいじゃないか、本当のことなんだから』
『本当のことだろうが、本人の許可なく言いふらすんじゃねーよ!』
男同士でなにをキャっキャっはしゃいでいるんだか。私はその様子を見て、何故か少しだけ不機嫌になる。
『フーン、童貞のラグニア、デスか』
『違え! 色欲のラグニア、だ!』
『まったく……。キミの仲魔にはかわいい女の子がたくさんいるじゃないか。せっかくなんだから、一晩お相手願えばいいのに。そうだなぁ、たとえばサキュバスのアンナちゃんなんかどうだい? 彼女、キミにぞっこんじゃないか』
『バッ! ア、アイツはそんなんじゃネーヨ……』
『あー、これは童貞こじらせてマスね……』
その騒がしい男は、その後度々ダンジョンを訪れるようになり、私とはよく口喧嘩する関係になるのだった。
◆
『……ゴホッ、ゴホッ!』
『どうしたんデスか、マスター。煎餅でも喉に詰まらせたんデスか?』
背中を丸めて咳き込んでいるマスターを見かけて、何気なく声をかける。
顔を上げたマスターは笑顔だったが、いつもと比べて、どこか陰のある感じがした。
『あ、ああ……うん、大丈夫。ゴホッ! ……夏風邪かもしれないね』
『夏風邪はバカしか引かないと言いマスよ。ただでさえアナタは実験バカなんデスから、これ以上バカをこじらせないでクダサイ?』
『アハハ……ゴホッ! 気をつけるよ……』
そういいながら自室に引き上げる彼の足取りは、ひどく頼りない感じがした。
◆
『……これが、ダンジョンコア?』
『ゴホッゴホッ! うん……このダンジョンの動力源にして、僕の命とリンクした石さ……』
『それで、私にコレをどうシロと?』
「お願いがあるんだ」と言って、マスター・ラッキースケベは、私をダンジョン最奥に誘った。いつもはいい加減な彼の、いつになく真剣な表情に、私は不安になっていた。だから、あえてそっけない口調で返事をする。
『僕はしばらく、このダンジョンを離れる……。だからその間、キミにダンジョンコアを守っていてほしいんだ……。これが壊れされると、僕死んじゃうからさ』
「アハハ……」と力なく笑う彼。私は笑えなかった。
『ダンジョンのマスターが、ダンジョンを留守にしてどこ行くってんデスか。魔王様に怒られても知りませんヨ』
『……なるべく早く戻ってくるつもりだよ。だから、その時までお願いだ。キミにしか頼めないことなんだよ、ショコラ……』
『……ハイハイ。コレを守ってお留守番してればいいんデショ? ……早く帰ってきてクダサイよ?』
私はコアを体内に取り込み、自らの核と融合させる。不思議と、彼の気配をより身近に感じた。
それを見て、彼は微笑んだ。
『……ああ。きっと帰ってくるよ。ショコラ』
◆
あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。途中から日付を数えるのをやめてしまった。彼はまだ帰ってこない。すぐに帰ると言ったくせに。
ダンジョンはえらく静かだった。魔物たちはいるものの、基本、フロアを越えて移動できない彼らは、互いに干渉せず各々の生活をしている。
それに、以前はたまに現れた冒険者の姿も、このところ見ていない。どうしたのだろう。ダンジョンの入り口が塞がれているわけでもあるまいに。
『いつになったら、帰ってくるんデスか……』
私は、自らの内側に取り込んだ、コアに向かってつぶやく。
いつからか、ひとり分の存在感しか感じなくなっていた、そのコアに。
孤独が限界に達した私は、フロアを越えて魔物たちをいじめることで、暇を潰すことにした。
彼が帰ってくるまでの、膨大な時間という暇を。
◆
「やあ、ショコラ。ただいま」
懐かしい声が聞こえて、思わず顔を上げる。
帰りを待ちわびた人の顔が、そこにはあった。
「お、おおおお、遅せーデスよ! どんだけ待ったと思ってんデスかっ!」
「いやあ、ゴメンゴメン」と、頭を
掻きながらこちらに歩いてくる彼。
眼鏡も。猫背も。頼りなげな歩き方も。そして、『探求』のためならどんな無茶でもやり遂げる、その好奇心に溢れた瞳も。すべてがあの日のまま。
「待たせた言い訳は用意してあるんでしょーネ?」
「アハハ。それはまあ、ゆっくりと話して聞かせるよ。あ、そうだ、ショコラ。その前に、僕のダンジョンコアを返してくれるかな? 誰にも触らせていなかったろうね?」
「あったり前デスよ。私を誰だと思っているんデスか。どっかの実験バカに『進化』の権能を与えられた、スライムレディのショコラ様デスよ?」
私は自慢げにそう言って、いそいそと身体の内側からコアを取り出した。私の核と融合した、それを。
「ありがとう、よくやったね」と、早く頭を撫でてほしかったから。
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