第56話 記憶 ~yume~

 ここはどこだろう?

 ⚫は誰だろう?


 気がつくと⚫は、生ぬるい液体の中にたゆたっていた。


 『オハヨウ、ボクノコエガキコエルカナ?』


 眼鏡をかけた見知らぬ男がこちらを覗き込みながら、何事かしゃべっていた。


『ボクノナマエハラッキースケベ。キミノナマエハショゴス……イヤ、ショコラニシヨウカナ。キミハ、コノボクガウミダシタモンスターダ。イマハマダチイサイケレド、ムゲンニシンカスルカノウセイヲヒメテイル。サア、ドンドンセイチョウシテ、ボクノタンキュウシンヲミタシテオクレ!』


 興奮した様子で、男が叫んでいる。


 これは⚫に自我の芽生える前、人で言えば『物心がつく』前の記憶。



 空腹。空腹。満たされない食欲。

 ⚫は捕まえたゴブリンを身体の中で消化しながら、飢餓感をもて余していた。

 また、あの眼鏡男が話しかけてくる。


『ヤア、ダイブオオキクナッタネ、ショコラ。タクサンタベテイルカナ? シカシ、ウーン。テイキュウナモンスターバカリタベテルカラ、チカラハツイテモチシキガミニツカナイナア。ボウケンシャデモタベサセラレタライインダロウケド、ソウソウコンナトコマデコナイシネェ。ダレニモジャマサレズニジッケンスルタメトハイエ、ヘンピナバショニダンジョンツクッチャッタカラナア……オヤ?』


 男は何かに気が付いて顔を上げる。 


『コレハイイ! ボウケンシャノパーティーダ。シカモ、ホブゴブリンニオソワレテアイウチ、ノコッタヒトリモヒンシノジョウタイトキタ! サア、ショコラ。テンソウシテアゲルカラ、オイシクイタダイテオイデ!』


 光に包まれ、次の瞬間には周囲の景色が変わっていた。

 目の前には人間の女が、壁を背に座り込んでいた。服の腹には赤い染みが広がっていた。


『ハァ、ハァ……スライム、デスカ。ドウヤラ、タダノスライムデハナサソウデスネ……。ワタシモココマデノヨウデス……。アナタ……オナカガスイテイルノデスカ? ……イイデショウ、タトエアイテガマモノデアッテモ、ウエタモノノチニクトナレルナラ、カミノゴイシニカナウハズ。サア、オイデナサイ……』


 ズズズズ……


 人間の女、僧侶を呑み込み消化した『私』は、初めて飢えから解放された。

 私を苛んでいたのは『自我の欠如』だったのだ。呑み込んだ女の『知識』が、それを補ってくれた。


『礼を言いますヨ、人間。私は初めて満たされました。私はショコラ。スライムのショコラ。テケリ・リ! テケリ・リ!』


 私は、自分が生まれて初めて笑っていることに気がついた。



 ある時、眼鏡男もといダンジョンマスターであるラッキースケベが、誰かを伴ってやってきた。

 その誰かは、私のことを物珍しそうにジロジロと見つめてきた。デリカシーのない奴だ。


『へえ、コイツが例のスライム娘か』

『なんなんデスか、アナタ? 初対面のレディーに対して失礼デスよ?』

『アハハ、まあまあふたりとも。ショコラ、紹介するよ。彼はラグニア・ヴァーンズ。僕の親友だよ』

『悪友だろ』


 聞けばふたりは幼い頃からの付き合いだそうだ。


『聞いてよショコラ。彼は色欲の権能持ちのはずなのに、女子に対しては超奥手で、いい歳してまだ童貞なんだよ』

『あ、てめぇ! ナニ勝手に言ってんだ!』

『いいじゃないか、本当のことなんだから』

『本当のことだろうが、本人の許可なく言いふらすんじゃねーよ!』


 男同士でなにをキャっキャっはしゃいでいるんだか。私はその様子を見て、何故か少しだけ不機嫌になる。


『フーン、童貞のラグニア、デスか』 

『違え! 色欲のラグニア、だ!』

『まったく……。キミの仲魔にはかわいい女の子がたくさんいるじゃないか。せっかくなんだから、一晩お相手願えばいいのに。そうだなぁ、たとえばサキュバスのアンナちゃんなんかどうだい? 彼女、キミにぞっこんじゃないか』

『バッ! ア、アイツはそんなんじゃネーヨ……』

『あー、これは童貞こじらせてマスね……』


 その騒がしい男は、その後度々ダンジョンを訪れるようになり、私とはよく口喧嘩する関係になるのだった。



『……ゴホッ、ゴホッ!』

『どうしたんデスか、マスター。煎餅でも喉に詰まらせたんデスか?』


 背中を丸めて咳き込んでいるマスターを見かけて、何気なく声をかける。

 顔を上げたマスターは笑顔だったが、いつもと比べて、どこか陰のある感じがした。


『あ、ああ……うん、大丈夫。ゴホッ! ……夏風邪かもしれないね』

『夏風邪はバカしか引かないと言いマスよ。ただでさえアナタは実験バカなんデスから、これ以上バカをこじらせないでクダサイ?』

『アハハ……ゴホッ! 気をつけるよ……』


 そういいながら自室に引き上げる彼の足取りは、ひどく頼りない感じがした。



『……これが、ダンジョンコア?』

『ゴホッゴホッ! うん……このダンジョンの動力源にして、僕の命とリンクした石さ……』

『それで、私にコレをどうシロと?』


 「お願いがあるんだ」と言って、マスター・ラッキースケベは、私をダンジョン最奥に誘った。いつもはいい加減な彼の、いつになく真剣な表情に、私は不安になっていた。だから、あえてそっけない口調で返事をする。


『僕はしばらく、このダンジョンを離れる……。だからその間、キミにダンジョンコアを守っていてほしいんだ……。これが壊れされると、僕死んじゃうからさ』


 「アハハ……」と力なく笑う彼。私は笑えなかった。


『ダンジョンのマスターが、ダンジョンを留守にしてどこ行くってんデスか。魔王様に怒られても知りませんヨ』

『……なるべく早く戻ってくるつもりだよ。だから、その時までお願いだ。キミにしか頼めないことなんだよ、ショコラ……』

『……ハイハイ。コレを守ってお留守番してればいいんデショ? ……早く帰ってきてクダサイよ?』


 私はコアを体内に取り込み、自らの核と融合させる。不思議と、彼の気配をより身近に感じた。

 それを見て、彼は微笑んだ。


『……ああ。きっと帰ってくるよ。ショコラ』



 あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。途中から日付を数えるのをやめてしまった。彼はまだ帰ってこない。すぐに帰ると言ったくせに。

 ダンジョンはえらく静かだった。魔物たちはいるものの、基本、フロアを越えて移動できない彼らは、互いに干渉せず各々の生活をしている。

 それに、以前はたまに現れた冒険者の姿も、このところ見ていない。どうしたのだろう。ダンジョンの入り口が塞がれているわけでもあるまいに。


『いつになったら、帰ってくるんデスか……』


 私は、自らの内側に取り込んだ、コアに向かってつぶやく。

 いつからか、ひとり分の存在感しか感じなくなっていた、そのコアに。


 孤独が限界に達した私は、フロアを越えて魔物たちをいじめることで、暇を潰すことにした。

 彼が帰ってくるまでの、膨大な時間という暇を。



「やあ、ショコラ。ただいま」

 

 懐かしい声が聞こえて、思わず顔を上げる。

 帰りを待ちわびた人の顔が、そこにはあった。


「お、おおおお、遅せーデスよ! どんだけ待ったと思ってんデスかっ!」


 「いやあ、ゴメンゴメン」と、頭を

掻きながらこちらに歩いてくる彼。

 眼鏡も。猫背も。頼りなげな歩き方も。そして、『探求』のためならどんな無茶でもやり遂げる、その好奇心に溢れた瞳も。すべてがあの日のまま。


「待たせた言い訳は用意してあるんでしょーネ?」

「アハハ。それはまあ、ゆっくりと話して聞かせるよ。あ、そうだ、ショコラ。その前に、僕のダンジョンコアを返してくれるかな? 誰にも触らせていなかったろうね?」

「あったり前デスよ。私を誰だと思っているんデスか。どっかの実験バカに『進化』の権能を与えられた、スライムレディのショコラ様デスよ?」


 私は自慢げにそう言って、いそいそと身体の内側からコアを取り出した。私の核と融合した、それを。

 

 「ありがとう、よくやったね」と、早く頭を撫でてほしかったから。

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