第651話

 ミーアは俺の〖グラビドン〗に対して、一瞬反応が遅れていた。

 〖グラビドン〗を警戒させて大剣で攻撃すると見せかけた、二重の囮が成功したのだ。


 ミーアは俺の大剣に対応しようと、〖掬虚月きくうつろづき〗の準備をしていたのだ。

 ミーア程の剣士であれば、ほんの些細な予備動作でさえも判断材料にして動いてくれると、俺は確信していた。

 だからこそ、こんな咄嗟の思い付きでしかない大味な作戦を、全力で実行することができたのだ。

 

 〖掬虚月きくうつろづき〗はあらゆる物理攻撃を防ぎ、反撃の起点にすることができる。

 強力なスキルだが、それはミーア自身の技量ではなく、スキルの強さである。

 だからこそ、そこには付け入る隙があった。


「なるほど……これは避け切れないな」


 〖グラビドン〗の黒い光越しに、ミーアが無表情でそう零した。

 ただの事実の確認なのか、諦めの言葉だったのかはわからない。

 素のミーアは、ほとんど感情が表に出ない。


 轟音が響く。

 至近距離で炸裂した重力の塊の反動で、俺は背後へ跳んだ。

 〖グラビドン〗の衝撃で引き千切れた、ミーアの腕が俺の横に落ちた。

 本体は潰れてミンチになったはずだ。


 手応えはあった……。

 オネイロスは元々、肉弾戦より魔法攻撃タイプである。

 ピーキーで使い辛い〖ヘルゲート〗や〖ワームホール〗、〖闇払う一閃〗を除けば、〖グラビドン〗は俺の最大火力の攻撃だ。


 対して、ミーアは人化状態であった。

 HPと防御力が半減しており、特性スキルの一部も機能していないはずだ。

 回復を挟む余地なく、一撃でHPが全て吹っ飛んだはずだ。


 そのはずだった。

 だが、経験値の取得が出てこない。


『主殿……や、やりましたな! ギリギリではありましたが、私とアロ殿の限界が来る前に決着をつけることが……』


 トレントが言い切る前に、俺は土煙の中のミーアの気配に目掛けて、〖次元爪〗の追撃をお見舞いした。

 明らかにミーアではない、『何か』に当たった感覚があった。

 強い悪寒を覚えた。


「参ったね。アロ君とトレント君をおまけにしか考えていなかったのが間違いだった。三体纏めて相手するには、さすがに手数が足りなかったみたいだ」


 土煙が晴れる。

 その姿を見たとき、俺に強烈な忌避感が走った。

 そいつは、悪夢をそのまま具現化したような、そんな化け物だった。


 俺はずっとミーアに、得体の知れない恐怖を感じていた。

 それは覚悟の差だとか、力量の差の表れだとか、俺はそんなふうに捉えていた。

 だが、違った。

 今のミーアの姿を見て、その理由がよくわかった。


「だから私も、手数を増やすことにしたよ。元の姿は、理性も制御もあまり利かなくてね。人間の姿の方が確実な勝利を収められると思っていたのだけれど、どうにも規模と打点に欠けるらしい」


 そいつは大まかにはドラゴンのようだった。

 ただ、足らしきものが四組八本ついていて地面を這っており、ムカデを思わせるような外観をしていた。

 間隔を開けて、身体に三組の翼がついている。


 体表は青白いが、部分的に赤黒くなっていたり、緑の斑点ができていたりしている。

 強烈な悪臭がする。腐肉の塊らしい。

 長い不気味な尾が、天井へと伸びてゆらゆらと揺れていた。


 頭部は六つの目に二つの巨大な口を有する、不気味なドラゴンになっていた。

 その頭部から、ミーアの上半身が伸びていた。

 本体のドラゴン同様に、肉の腐った姿になっている。

 手には〖黒蠅大刀〗があった。


【〖タナトス〗:L(伝説)ランクモンスター】

【死神、或いは死そのものと畏れられるドラゴン。】

【不浄の肉体を引き摺り、這い回り、その狂気によって無差別に、あらゆる者へと死を与える。】

【〖タナトス〗が現れたとき、世界は絶対的な死によって永劫の停滞を迎えるとされている。】


 こ、こいつがタナトス……。

 人化状態を解除したミーアの、本当の姿。

 〖グラビドン〗の直撃に耐えられないと判断したミーアは、咄嗟にタナトスへと戻ることであの一撃を耐えきったらしい。


『あ、主殿……た、短期決戦を狙っていたため、あまり余力がありませぬ。あの姿、もしや、かなり頑丈なのでは……?』


 トレントが弱音を口にする。


 トレントの言葉は事実だ。

 トレント鎧に、アロの〖暗闇万華鏡〗最大人数による魔法攻撃の連打。

 これは持久戦でできる戦法じゃねぇ。

 ミーアの耐久力が半分以下に落ちている、人間の姿の間に仕留めるべきだった。


 だが、俺はそれ以上に、ミーアの今の姿がショックだった。


「フフ……ここからが、本当の戦いだ。神聖スキルは、全て私のものだ! 神の声に、この世界の全てのツケを払わせる! その報復のためだけに、私は数百年に及ぶ苦痛に耐えてきたのだ! 君に、地上に戻る権利はない! それは私のものだ!」


 ミーア……お前は、そんな姿になってまで、神の声を倒したかったのか。


 ずっと表情に違和感があったわけだ。 

 ミーアには恐らく、とっくに怨恨以外の感情が残ってはいなかったのだ。


 こんな悍ましい姿に成り果てたのが何よりの証拠だ。

 タナトスは、その狂気によって暴れ、世界に絶対的な死を齎し、永劫の停滞へと導くドラゴンなのだから。


『悪いが、ミーア……やっぱりお前は、地上に戻せねぇ。お前の方が、俺なんかより、よっぽど上手く神の声相手に立ち回れるのかもしれねぇ。……だが、お前はきっと、神の声を倒すために、あの世界を壊しちまう』


「やはり甘い考えだな。犠牲はつきものだ。神の声は、それだけ強大な相手なのだ。あらゆる手段を用いて、この世界の全てを犠牲にしてでも、私の手で必ず取り除かねばならない!」


『逆だ、ミーア。確かに俺は甘いのかもしれねぇが、これだけは言える。世界の全部を犠牲にしちまったら、神の声を倒す理由なんてもうねぇんだ。俺は、俺のこれまで見てきた世界の全部を守るために、神の声と決着をつけてぇ。お前はもう、何かを守るつもりさえねぇんだ』


 ミーアの返答が途切れた。

 顔には、相変わらず感情の色はなかった。

 少し間を置いて、虚ろな目をそのままに、口の端がほんの少し上がった。


「気づいていたさ、とっくにね。私が奴を殺したい、理由なんてそれで充分だ」

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