第4話 魔法にかけられて

 Xデー前日。

 最早お決まりとなった美術室に俺は単身乗り込む。クラスの仕事があって明日まで部活に顔を出せないことを部長に詫び、事情を知っているクラスメイト兼部活仲間からは何とも言えない表情をされ、俺の周囲はたった三日で異様なほど変質していた。


 それもこれも全部粟島のせいだ。

 あの、溶けるような垂れ目と蠱惑的な唇を思い出す。俺を着せ替え人形のようにして遊んでいるのかなんだか知らないが、そんな地獄も明日で終わりだ。いや、明日こそが地獄なんだが。


 逃げ出してしまえばいい、とは悪夢のはじまりの日から何度か問いかけてきた。けれどそれを選ばなかったのは乗り掛かった舟だからもう今更という諦めと、外堀を埋めた粟島の強気な言葉と、真剣に衣装をいじる粟島の姿のせいかもしれない。

 そう、全部粟島のせいだ。


「あら、霧生くん。今日は結構早い到着じゃない?」

「掃除が早く終わったんだ」


 美術室まで迷う必要はなくなったから、歩く速度も必然的に速くなった。


「それは僥倖。今日も人払いは済んでるから、安心して素敵なメイドになりましょうね」

「全然安心できないんだが?」


 こんなやり取りも三日目にして挨拶のようなものだとわかってきた。粟島はなかなかに強情だ。マイペースで、こうと決めたら他者の異議を受け付けない。俺をメイドの素材に選んだのも、俺にメイド服を着せるのも、そして俺にメイクをするのも。すべて粟島の意志で、そこに俺の異議は意味をなさない。俺だって激しく抵抗はするが、最終的には粟島の意見が採用されている。

 そして致命的な性分として、俺はそこまで固執できない。妥協したり折れたりするのは俺の役割だ。

 問題は……それを悪くないと思い始めている俺がいることで。


「メイク道具は持ってきてあるわ。さ、そこに座って」


 そう要って木製の椅子をそそくさと進める仕草はどこかそわそわして落ち着きがない。普段以上に楽しそうに上ずった声に、俺は初日を思い出して釘を刺しておく。


「……言っとくが、耳は絶対触るなよ」

「あら、何かの前振りかしら」

「触ったら明日病欠してやる」

「それは困るわ」


 触らないからどうか任せて頂戴ね、と粟島はいつになく穏やかな口調で言った。囁くように言われたそれも耳朶に吐息がかかって気が気でない。というかこの女、パーソナルスペースが異様に近くないか?

 身を仰け反らせて距離を取ろうとしたら「引いたらメイクできないじゃない」と無理矢理引き戻された。目の前には化粧下地をコットンに浸す粟島。


 いや近くないか?


 俺の距離感がバグったのか? いやいやそんなはずがない。

 確かに俺という人間は人との過度な接触は好まないし、身長は平均よりも大きいから同じ目線で見つめ合うといった場面はほとんど遭遇してこなかった。一匹狼を気取る気はないが他人に気を遣うのが下手くそで、八方美人なよそゆきの笑顔を貼り付けることも苦手だ。

 気付いたらそういった態度がクールとか仏頂面とかに名前を変えて俺の周りにまとわりついていた。別にそんなつもりはなかったのに。

 それで一層クラスメイトは俺に近づきにくくなり、でも浮いているってわけでもないからそれがいい距離感なんだと思っていた。それなのに。


 粟島の髪から甘い香りがする。

 粟島の大きな瞳が一層大きく見える。

 粟島のグラマラスたる所以がすぐそこにある。


 ……拷問か?


「ごめん霧生くん、アイメイクするから目を閉じてもらえる?」

「っ、ああ」


 考え事をしていたせいで返事が一拍遅れた。

 両目を閉じた真っ暗闇のなか、俺は無心でこの間見たバスケのスーパープレーを思い出していた。全然関係ないことを考えていないと、なんだか気をおかしくしてしまいそうだった。


「いいわよ。霧生くん、こっちを見て」


 ふう、と小さく粟島が溜め息をつく音。一仕事終えた職人のような、満足げな疲労感の滲む息遣いだ。

 変に焦らしても結果は変わらないので、俺は無言で瞼をあげる。

 目の前には手鏡をこちらに向けて微笑む粟島がいた。


 そして鏡の中にいたのは。

 切れ長でシャープな目元。グレーとカーキを混ぜたような煌めきのあるアイシャドウ。落ち着いたボルドーのリップ。きりりと引き直された眉。


「……強そうだな」

「ええ。クール系を目指したから」

「確かにまるで別人だが……」


 いかんせん髪型が俺のままだからちぐはぐでしかない。


「大丈夫よ。あとはこれを被って」

「え、これヅラ」

「ウィッグね」


 ダークブラウンの長髪ウィッグとやらをぎゅっと被せられる。髪の毛を食べそうになって慌てて振り払う。粟島が何度かウィッグを梳いて、改めて手鏡を寄越した。

 成程確かに、これなら別人だ。少なくとも、俺には見えない。女に見えるかと問われると、こういうドラァグクイーンもいるかもしれない。派手さは抑えられていても、目元の切れ長な感じとかは結構勝ち気というか強気な印象を受けるような。


「うんうん、すごくいいと思う。自信もって霧生くん」

「女装に自信を持ったら俺の中で何かが終わる気がする」

「そんなことないわ。むしろ新しい霧生くんの始まりじゃないかしら」


 そんな始まりは来なくていい。

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