第41話 借りは返すよ
アイリーンは手紙を握りつぶすほどに、わなわなと震えていた。
彼女が取り乱すなど、珍しい光景だ。
ミアは心配そうに覗き込んだ。
「アイリーンさん、何かありましたか?」
可愛らしい姿にアイリーンは少し落ち着いたものの、眉間に寄るしわは戻らない。
「い、いいえ。ありがとう。大丈夫よ」
そうは言って笑ってはみるけれど、心の中は一向に落ち着かない。
大事件だった。
手紙はアイリーンの家、フレンツェル家からのものだった。
昼休憩の最中、大した心の準備もせずに開いたそれに、面食らう。
『彼が学校へ行くようだ』
アイリーンの大きな溜息とともに、平和な日常は崩れ去ったのだった。
◇◇◇
「ああ、会いたかったよ。愛しのアイリーン」
アイリーンを抱きしめんばかりに手を広げて、彼はやってきた。
カーティスは目の前で繰り広げられる出会いの様子に何度か瞬いた。
黒髪に金色の瞳。
彼の姿にひどい既視感を覚え、戸惑ったのだ。
満面に笑みを浮かべた彼に向かうアイリーンの顔には、まさしく
「ふふ、どうされまして。急にいらっしゃるとお聞きしたものですから、驚いてしまいましたわ」
「なあに。夏の休暇には家に戻らなかっただろう? だから会いたくなってしまって」
「まあ!」
ほほほ、と口元を隠すアイリーンの目は笑っていない。
それに気づいたカーティスは、やってきた見知らぬはずの青年を盗み見る。
青年はアイリーンの目に気づいた様子はなく、楽しそうな口ぶりを崩さない。
「──いい加減、こちらにも挨拶されてはいかがです、兄上」
カーティス同様置いてけぼりにされていたクラウスだった。
二人の世界を作り出さんとする青年に口を挟む姿に、カーティスはミアと二人、顔を見合わせた。
クラウスに『兄上』と呼ばれた青年が振り向けば、アイリーンに向けられていた笑顔がすっと消えている。
「おや、これはクラウス。そんなところにいたのかい。気づかなかった」
「──兄上」
「はあ、全く生意気にも程がある。なんだってこんなやつが、」
「──
ぴり、と空気が張り、数秒後、青年はにこりと笑った。
「ああ! これは失礼した。ウドルフ・エーヴァルトだ。立場上、そこのクラウスの兄になる」
人当たりの良い顔で挨拶をされ、ようやく既視感にも納得した。
兄弟だけあって、外見がクラウスとそっくりなのだ。
どちらも黒髪、金色の目。しかし受ける印象は違う。
どちらかと言えば垂れ目のクラウスに対し、ウドルフは釣り目。だからなのか、それとも年齢も関係しているのかもしれないが、ウドルフはクラウスより堅物の印象を受ける。
それは真面目と捉えられるかもしれないし、人によっては冷たいと捉えられるかもしれない。
しかしそれは、そもそもの比較対象が、ゆるく生きるクラウスであるからかもしれなかった。
「アイリーンと親しくしてくれているのかい。ただ、節度は守らねばならないぞ。小さなお嬢さんは別としても、君」
ウドルフの視線がカーティスを射抜く。
「アイリーンのそばへはあまり近づかないように」
「はあ」
あからさまな牽制にカーティスは曖昧に頷いた。
言われなくても、女性に安易に近づくことなどしない。そうでなくてもアイリーンは友人の婚約者なのである。
わざわざ兄に指摘されずとも、ちゃんとわきまえている。
カーティスの怪訝な顔にさらに畳みかけようというのか、ウドルフが口を開いたとき、アイリーンの上品な笑い声が響く。
「ほほほ、ウドルフ様、申し訳ございませんが、これから授業が始まりますの。ウドルフ様とのお話はまた、後日改めてお願いしたいですわ。今度は立ち話ではなく、ゆっくりお茶でも飲みながら」
「ああ、そうだな。しばらく王都に滞在する予定だ。また改めよう。今日は君を一目見たかっただけなんだ。好きな店はあるかい? 予約しておこう」
「まあ! ありがとうございます。楽しみにしておりますね」
アイリーンがそっと手を振れば、ウドルフは片手を挙げて去っていく。
風と共に、からからと落ち葉が一枚、地面を這っていった。
夏だと思っていたが、秋が近づいているのかもしれない。
カーティスは転がった落ち葉にそんなことを思い、目の前から去っていく嵐を黙って見送ったのだった。
彼を
「……クラウス、このことは知っていて?」
「ああ。ついさっき、エディに聞いたばかりだが」
エディというのはクラウスの執事である。
執事らしからぬ動きをしたり、あらゆる情報を掴んできたりと執事としては規格外ではあるのだが。
クラウスの返事に、訊ねたアイリーンは頷いた。
「わたくしのところにも今朝、フレンツェル家よりお手紙が届きまして。これですわ」
小さな鞄から手紙を取り出した。
慎みのかけらもなく、もらった手紙を広げて見せた。
「後でお見せしようと思っていたのですけれど、遅かったようですね」
アイリーンは口元に扇子をやって、クラウスは腰に手を当てて。
二人同時に長くて大きな溜息を吐いた。
見ていたカーティスは悟る。これは厄介事であろう、と。
たった今、少し会っただけの青年にも、あまり関わりたくないと感じたのだ。
心配そうなミアだけでも連れて、撤退しよう。そうしよう。
と、カーティスが動いた瞬間、クラウスとアイリーンに両腕を掴まれる。
「う……、ど、どうしたの。二人とも。授業が始まるよ」
「これから始まるのは社交マナーについての授業でしょう。カーティス様であれば、受けなくても問題ございませんわ?」
「そうだぞ。もうすでに社交界に顔を出してるじゃないか。お前なら大丈夫」
「……いいや。授業を抜けるのは、どうかと思うんだ。ねえ、ミア」
振られたミアも慌てて頷いてくれた。
「そ、そうですね。授業をさぼるのはあまりよくないかと。世の中にはまだまだ知らないことがたくさんありますから、何か新しいことも学べるかもしれないですし」
しかし、それでもカーティスの腕を掴んだ二人は離そうとしなかった。ミアには甘いアイリーンですら。
「ミアがそう仰るなら、叶えてあげたいのは山々なのですが、本音を申しますと、それどころではありませんの。ねえ、クラウス?」
「ああ。あいつがもうきてしまってる。何も知らないままだと確実に面倒くさいことになるんだ」
神妙な顔をして、情に訴える。優しいミアはほだされるだろう。
形勢不利に傾いた途端、アイリーンの手が鳴った。
「カーティス様。そういえば、私に貸しが一つ、ございましたよね?」
そう言われて思い出す。
ミアのドレスを作ったときのことだ。
あのときは、ドレスの手配や口裏合わせなどで確かに世話になっている。
カーティスは渋々ながらも「借りは返すよ」と頷くほかなかった。
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