第2話 A day : Oboro
「ふわぁ……」
だらしない声で起床する。むくりと起き上がると、頭に乗せた水色のナイトキャップがずり落ちそうになり、片手でぽすっと押さえつけた。
オボロの朝は、日課となっている朝風呂から始まる。
三十八度に設定したこだわりの温度のシャワーを、疲れきった体に浴びせる。窓から注ぐ日差しが水飛沫に反射して輝き、もう光を殆ど通さない右目にも眩しい。
「ふう」
身も心も綺麗になったところで、少し熱めの風呂に浸かる。蛇口から零れる水のポタポタという音、爽やかな雀の鳴き声。何もかも浄化されていくようだ。
右目を隠すように長く伸びた前髪をかき上げると、勢いよく跳ねた水がびちゃっと顔にかかった。それもまた一興、と心の広いオボロは、のぼせる前に湯から出ると、裸のままキッチンに直行し、牛乳をたっぷり注いだコップを傾けて一気に飲み干した。
やっぱり朝はこうでなくちゃ。
さて、部屋着として愛用している黒のパーカーとジーンズに着替えると、オボロは遅めの朝ごはんに、カリカリに焼いたトーストと目玉焼き、ハムの乗ったサラダを頬張りながら、片手でメールの確認を始めた。今日はレモネード・ジャンキーの活動はない。特にナギからの呼び出しも無かったので、アジトに顔を出そうか迷っていると、バイト先の仲間から救援要請の連絡が入った。シフトに入っていたもう一人が、体調不良で来れなくなってしまったらしい。
オボロはすぐに行くとメールを返し、バイト用の制服に着替えて家を出た。
幸い、依頼者の家はオボロの家からすぐ近くの場所であった。申し訳なさそうに何度も頭を下げるバイト仲間に親指を立て、オボロは仕事に取り掛かった。
まずは皿や小物など、細かいものを丁寧にダンボールにしまっていく。その作業が終わったら、次は家電や、本棚などの大きめの家具を二人で運び出す。オボロは力が無いので、オボロの方に家具が傾きながらの移動になってしまうことが多い。いつもバランスを取ろうとよろよろしているオボロは、依頼者から心配そうに声を掛けられることにももう慣れた。それでもなんとか全ての荷物をトラックに積み込み終えると、オボロはペコペコと頭を下げる依頼者とバイト仲間に笑顔で手を振り、一旦帰宅してもとのパーカーに着替え直してから、歩いて近隣のスーパーへ向かった。
もうとっくにランチタイムは過ぎている。グウウ、と捕食物の不在を主張する腹をどうどうと宥めつつ、歩きながら昼飯はどうしようか、と頭の中で飯テロを起こした。もちろん、テロの参加者はオボロだけ。誰にも邪魔はさせない。
結局、食材を見てから決めることにしたオボロは、辿り着いたスーパーで惣菜コーナーへ歩を進めた。
透明なパックに入った酢豚、野菜炒め、和風に味付けされたビーフン……。どれもおいしそうだが、何か違う、とオボロは首を傾げた。違和感の正体には、ニンジンとジャガイモの煮物を見て気付いた。
そうだ。家に、昨日アジトであぐりから渡された「余ったから持ってけ」カレーがある。
あちゃー忘れてた、と照れたように一人で笑い、残り少なくなった牛乳と、何となく目についた食材を適当にカゴに放り込んで、きちんとエコバッグに詰めてスーパーを出た。お会計もちゃんとした。
先程より盛大に唸り始めたお腹に、もうすぐですから、と声をかけ、急いで帰路に着く。家の冷蔵庫を開けると、案の定そこには半透明のタッパーに入れられた美味しそうな茶色いそれが存在した。気付いて良かった、とほっとするオボロ。タッパーを取り出して中身を鍋に移し替え、火にかける。余って冷凍しておいたご飯も冷凍庫から取り出し、レンジで温めた。
ほかほかになるのを待っている間に、オボロは常にストックしている抹茶味のチョコレートを一つつまんだ。甘いチョコレートと、それにいじらしく包まれた抹茶のほどよい苦味が口の中で溶け合う。幸せだ。上がった口角もそのままに、オボロはニュース番組で情報収集を行うのも欠かさない。いつどんな依頼が舞い込んで来るか分からないから、知れるだけ知っておこう、というのが、オボロのスタンスだった。
「あ」
テレビをつけると、お昼のニュースは偶然にもレモネード・ジャンキーの名前を取り上げていた。ソファに座ったまま、少し身を乗り出すオボロ。向こうでチン、という音が聞こえた気がするが、生憎いまのオボロには聞こえていない。
この映像はきっと、この間あぐりと潜入した、ダイヤの犯行予告についてのニュースだ。壊された監視カメラ、記憶を失った警備員三名、そして警察に届けられたダイヤ。すべてオボロとあぐりの犯行、いや善行に違いないが、アナウンサーはその事実を知らない。知らないまま、今回もレモネード・ジャンキーの仕業でしょうか、などと呟いているのだ。悪者みたいに言わないで欲しい、と思いつつ、オボロは秘密裏に悪事を暴く、この組織の活動スタイルが好きだった。
生まれてすぐ病気が見つかり、患部だった右目を取り除いたオボロは、幼い頃から内向的な性格のまま育った。大学生協で勧められたこの引越しのバイトに巡り会えたことは自分でも幸運だと思っている。
そして、そのバイトの最中に、ミゲルを見つけた。
オボロは、ミゲルとの出会いは最早運命だと感じているが、ミゲルに言うと気色悪がられるので、心の中にしまっている。
今まで疎外されて育ってきて、他人から必要とされることはほとんどなかった。ましてや、社会の役に立てることなど。
そんなオボロの気持ちを、レモネード・ジャンキーは百八十度転換させた。
レモネード・ジャンキーの団員は、仲がいいのはもちろんだが、全員が「何か」を喪失している。その共通点は、仲間意識を強固なものにする役割をも果たしていた。
ここにいれば、片目しかない自分にも出来ることはあるのだと、いつか胸を張って言える気がするのだ。
最新のニュースは今日も目まぐるしく舞い込み、画面は荒れ狂う天気予報に移り変わる。どうやら明日は雨の予報。今日のうちに洗濯しておいたほうが良さそうだ。
忘れかけていたレンジの中のご飯はすっかり冷めていた。鍋のカレーはぎりぎり焦げ付かない程度に温め、いや焼かれており、カレーが温かければご飯は冷めていても良いのでは、と思ったオボロは、それらを皿に盛り合わせて熱いうちに食べた。あぐりによって丁度いい量に分けられた焼きカレーは、一人暮らしの男の体の中で、確かなぬくもりとなった。
愛情たっぷり(と信じている)の昼食を綺麗に平らげると、オボロはあぐりに一言、ご馳走様でした、とメールを入れてから洗濯機を回した。ふと窓から見えた夕陽が綺麗だったので、少し散歩をすることにした。こう見えてオボロはアウトドア派である。
きちんと鍵をかけたことを確認して、オボロは夕陽に向かって歩き出した。オレンジ色に揺らめく太陽は、どこかサ〇エさん症候群と似ているところがある、と思う。心を蝕む寂寥感を振り払うように、オボロは歩を早めた。
夕景が鮮やかな日の散歩コースは、だいたい決まっている。あぐりの家とオボロの家、アジトが作る三角形の丁度真ん中にある公園。そこにあるゾウの形をした滑り台の上は、とても見晴らしが良いのだ。遊んでいる子供達に怪訝な目で見つめられ、少し恥ずかしい気持ちになったりもする。オボロにとっては、それもまた一興だ。
幸いその日は子供達はおらず、一人で滑り台を独占できた。るんるんで色とりどりの階段を登ると、何やら見慣れた人影が横たわっていた。鉄製の柵の間から、地面に向かって垂れ下がっている白くて長いこれは、髪の毛だろうか。
「……エラ?」
近づいて、正面から顔を覗き込むと、予想通り、エラが滑り台の上で横になって寝ていた。
何故、とオボロは首を傾げたが、そういえば公園の入口に綺麗な白い子猫がいた。多分その子がいたからだろう、と合点する。
起こしてしまわないように、そっと隣に体育座りをする。ふと顔を上げると、山の端に隠れつつある太陽が一望できた。ゆっくりと、でも確かに沈みつつある夕陽。周りに浮かぶ雲たちは、空の覇者に巻き込まれないように、必死で逆らっているようにすら見える。都内ではなかなか感じることが出来ない雄大さに、思わず呼吸を忘れた。景色に飲み込まれたオボロを置いて、時間はどこまでも流れ続ける。
「……ん、オボロ?」
はっ、として声の主を振り返る。目をごしごしとこするエラは、ちょうど今起きたようだ。大きく伸びをする姿は、あの白い子猫を彷彿とさせた。いつの間に時間が経ったのだろうか、辺りはすっかり暗くなっていた。頼りなく光る街灯が、より一層夜闇の濃さを引き出している。
すぐに寄り道をするエラとはぐれないように、他愛のない会話を交わしながら、オボロはアジトまで彼女を送っていった。どうやらエラは携帯も持たずに出ていったようで、玄関先でオボロがエラを差し出すと、ドアを開けたキラはほっと胸を撫で下ろしていた。オボロはその様子を、目を細めて見つめる。まだ感傷に浸っているのだろうか、心配してくれる家族がいて羨ましい、などと思ってしまった。
帰ろうとすると、キラに止められた。中であぐりがご飯を作っているらしい。さっき遅めのお昼をとったせいで、正直まだお腹は空いていないのだが、せっかくなのでお邪魔することにした。
乱雑に脱ぎ捨てられた靴たちを並べなおし、リビングに向かうと、まるで来るのが当たり前であったかのように一同に雑に挨拶をされた。それはそれで有難いな、とオボロは苦笑する。
レモネード・ジャンキーと出会うまで、ミゲルを見つけ出すまでは考えられなかったこの生活。オボロを仲間外れにする人など、この中には誰もいない。そうオボロが自信をもって言えるほど、オボロにとっても組織は欠かせない彼の一部になっていた。
やっぱり、こうでなくちゃ。
家族同然の仲間を見つめて、一人心の中で呟いた。
しわくちゃの洗濯物は次の日、部屋干しにした。
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