第30話 僕だって頑張ったんだ

 君は強さの源泉を自己の整合性に求めたね。それは確かに強いさ。君はその整合性を堅持するために自分の心さえ蔑(ないがし)ろにしてきたんだからね。でもね、自己の整合性の行き着く先は、先細りの袋小路だよ。不可能性を排除しながら進む未来に、可能性は存在しない。可能性を模索することではじめて未来が存在するんだ。君は、可能性の源泉である、柔らかくしなやかな情感の揺らぎを犠牲にしてきたろう。そして強く頑健な、自分らしさの壁を綿密に根気強く構築してきたろう。それはある面では正しい選択だったよ。非情に非常に、正しすぎるくらい正しい選択だったんだよ。君は自己を守り耐える最大のよう壁を手に入れたんだ。しかし結果は見ての通りさ。しなやかであるべき君自身が枯れて瓦解してしまった。みずみずしさが枯渇し干上がった無機に帰してしまった。分かっていたんだろう。それでも見て見ぬ振りをしていたんだろう。君の求めるべき強さは、それではなかったということさ。外界の火の粉に耐えることを、自己の変態を押しとどめる言い訳にしてきたにすぎない。君はもっともっと、流動的であるべきだったんだ。

 だから君は愛し方を知らない。

 愛に定義なんてないんだよ。君が望むものが愛で、君が守るべきものが愛だったんだ。それは定められるものでもないし、定まるべきものでもない。あるとすれば、定めるべくして織りなす君自身の闘争や葛藤が基軸だったのかもしれないね。君は僕と闘争すればかったんだよ。いや、すべきと言ったほうが正確なのかもしれないね。僕はそのためにも存在するんだ。君はずっとそれを避けてきただけなんだ。君はある面では愛情を受入れることすらしなかった。理解の範疇にない事物についてはパラレルを貫いた。そして、相互理解の不能な領域をもっているのが人間なのだと、自らを肯定してきた。ある人間にとってはそれは高い代償のはずなんだ。でも、君にとってはそうではなかったんだろうね。その感受性の正確な由来はわからない。それが分かっていたら君は生き残っていたのかもしれないし、もしくは生き残れたらその由来を解明できる時期が訪れたかもしれないね。そして本物の愛情を受入れ、本物の愛情を与え、お互いの内奥にある知られるべき何物かを理解したのかもしれない。君はそれらを感受できただろうし、共有できただろうし、心から抱きしめあえたんだ。とても温かい、滋養にあふれた何かさ。

 とにかく安らかに眠ることだ。

 僕ももう終わりさ。君も自己が見えるだろう。僕も僕が分かるんだ。こういう形でしか君と接せられないことを残念に思うよ。もう少しだったんだ。ほんのもう少しのことだったんだ。君はとても強い意力を備えていた。君の努力のたまものさ。それは僕が証明する。だからほんのちょっとだけベクトルが変化していればね、残念だけど・・・。僕だって最大限の努力をしてきたつもりだよ。

 ねえ、覚えているだろう、五年前の春、君はひとりを認識したんだよ。大学の入学試験にすべて落ち、廃墟の駐屯地を眼前にした日本兵のようだったあの春の日、まだ冷たい春一番が関東平野を吹き抜け、土埃が君の頬にうちつけられたあの春の日、君はもぬけのようにあらゆる事物をすり抜けさせたろう。そうやって君は、ひとりを認識したんだ。そうやって君は、僕の在りようを明確化させたんだ。

 君の言う通りだよ。本質的な目的のないところに挫折はない、まったくその通りだ。だからこそ君は、一年間の浪人生活を目の前に特段の感情をもたなかったし、通り過ぎゆく現実になんて意味を見いださなかった。君にとってそれは、ただ単に刑期が一年延長され、ただ単に徒労がもうひとまわり繰り返されるだけだった。行うべき行為を行う、ただそれだけのことだった。君の知ってのとおり、そこに本質的な因果関係など存在しない。「Should」を理由とする便宜的な行動様式が構築されただけなんだ。だから君は、残念だけど、挫折をすら感じえなかったんだ。

 でも君が、いちばんよく分かっていたはずだ。それは僕がいるからだっていうことを。君がひとりを、孤立を、君自身を確立するために僕が必要だったっていうことを。水は高いところから低い所へ流れ、永久機関は存在しないんだからね。

 君に分かってもらえるかな、僕だって後悔してるんだよ。君が僕を認識できたことは良いことだったのかなって、もしかしたら認識できない方が幸せだったのかもしれないなって。だって君は丹念に、僕を塗りこめるための壁を構築してきたんだからね。内なる欲求を退け、外圧の何物をも受け止めて…。そして労苦の果てに共倒れさ。ねえ、世界は実に美しい流れだよ。世界の流動の中には君も含まれていたんだ。僕は善であり悪、正義であり不義、道理であり欲望。君が僕をどう呼ぶかなんて問題ではない。僕こそが君の流動なんだ。こちら側とあちら側だけで事物を見たら、何も推し量れない。だから君は後悔すらできない、挫折すら感じない。彼女の映写すら像を結ばない。長富淳子に対して、佐藤奈々に対して誠実であることができない。

 素晴らしい、あわただしい、日常にまみれた世界を、君にも味あわせてあげたかったんだがな。人間はそれほど堅固ではない。でも、転んでも立ち上がれるし、傷も治癒する。定められた未来なんてない代わりに、君の嫌う無限の未来がある。それは実に正しいことだったんだ。

 

 長富淳子は言う、良い未来が待ってると。長富淳子の娘の父親が、漆黒の表情で彼を射抜く。奈々は言う、もうこれ以上私を好きにならないと。Aは言う、本当の愛情を理解できるのは女性だけだと。羊の瞳は羊毛につつまれその内奥に自身はない。祖父の瞳ははるか遠方を見つめ、その両足は今日も歩き続ける。

彼はもはや立ち上がらない。そして後悔を覚えた。

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