第28話 引き金を引く

 今彼は、自己の意識すら俯瞰している。

 湿った冷たい雪が吹きすさぶ中、彼の脳裏に訪れたのは大陸の奥地、満州の暑熱に蒸しあげられた戦地であった。砂漠、草原、荒野、蒸しあげる暑熱、吹きつける土埃、それらが混然一体として存在する地点は、現実の世界にはない。彼は満州の戦地を裏付けるものなど何ひとつ知らなかった。ただ、祖父の紡ぎだす記憶の断片を、その不確かな単語の集合体を、自己の映像として心の中心に据えていたにすぎないのだ。劣悪な環境、耐える人類。耐えることが目的ではないはずだった。耐えた先に生命があるはずだった。

 風雪はより激しさを増した。

 外殻の瓦解。綿密に組み上げられた骨格に重厚に塗り込められた壁、脆さが露見しそうになるたび再構築し壁の厚さを増してきた。耐久性に問題はなかった。しかし、守るべきものをもたない外殻は在るべき理由をもたなかった。羽化できない蛹のような無目的なドロドロが、生命の最期の躍動をその瓦解に使い果たすと、一瞬にしてすべてが渇き、壁は塵に、生命は無機に帰って行った。


 生命と存在を別個に意識する感覚は、潜在的な人間心理なのだろう。死してなお存在することは過去から様々に物語られてきたのだ。例えば、星になった飼い犬、守護霊としての肉親、他人に生まれ変わった恋人。潰えても在るかのような意識、もしくは感覚。かたや、消滅してなお在りたい意志。

 それは、-生命と存在が異なる意義であることは、彼にとっても潜在的には真理であった。明確な理論こそ持たなかったが、彼も、生死と在不在が結びつかないとは直感していたのだ。しかし彼のベクトルはその趣を異にしていた。彼は、不在のまま生きることを羨望したのだ。多くの人間が存在を引き延ばすための想像に憧れていたのに対し、彼は生きながらにして不在であることに取り憑かれていたのだ。ただ、不在の生についての明確な理論をもたなかった彼は、死せる存在と不在の生を分かつ言葉も持たなかった。言葉として認識できない理論はよすがとして機能しない。だから彼は混迷する。それは、死と不在が一致するほどの不幸を、彼が自覚してこなかったからなのかもしれない。しかし仮にそれが、彼の意力による耐久であったならばどうだろう。結果は無残なものだ。


 そう、彼にとって死は容易いことだった。ただ単にこの世界から意思が一つ消滅するだけのことだったのだ。彼は肉体と精神を分断する術を知っていたし、苦しみを苦しみとして受け入れる確たる意力も、十分に訓練されていた。

そして彼は引き金を引いたのだ。

 銜えられた銃口から、安らかな死が放たれ、その安らかさが実に効率的に彼を侵食した。

 彼の内奥の底に潜んでいた乾いた黒粒は、大きく小さく浮動し、音もなく、十全に彼を抱合する。浸透し、細分し、結合し、分裂し、それらはまったき暗黙に通り過ぎ、残されたものは完全なる虚無であった。


 彼の両親は、関東の片田舎から地方の有力な国立大学に進学した自分たちの息子が、なぜ死なねばならぬのか、皆目見当がつかずにいた。

 父親は、息子の消滅による失望に包まれ、寂寞な瞑想に耽り込み、虚ろな瞳孔は外界の移ろいを感度なく通過させていた。息子は死んだ。春の陽は注ぐ。息子は氷漬けになり死んだ。春の陽は誰かれになく降り注ぐ。誰かが自分から息子を奪ったような気がする、なぜだ…、俺が一体何をしたというんだ。彼の眼前を世界はただ通り過ぎて行った。時間はその繰り返しだった。しかし彼は、自分が何もしてこなかったことには思い至らない…。

 母親の意識の中には、丹精込めて作り上げた分身を、圧倒的に暴力的な、得体の知れない外因によって、粉々にたたきつぶされたような喪失が、どっしりと腰を据えていた。そのうえ、周囲からの慰撫に対し自らの疑念による皮肉な憐れみを感じ、言い知れぬ不安と苛立ちによって、自分に同情することしかできないでいた。

 祖父は悄然としながらも、でも、気持ちのどこかに、事実はそうあってもおかしくはないんだという預言めいた感触もあり、だからかもしれない、日々の暮らしをできるだけ正確に送ることに心を傾けた。そして、悲しみよどむ家族をよそに、気温の上がりきらない春の庭、家庭菜園の畝の間で中空を見つめ、ただ純粋に、できるだけ中立的に孫について考えた。しかし、巡る思考と自問自答の果てにたどり着くのは、決まって、孫の死は決定的に間違っている、という落胆だった。だから正二は、安らかであってほしいと、いつくしみを思うのだ。それはことわりではない、心の底からのいつくしみだと、正二には思えた。同時に、生を渇望しつつも死を憧憬した自分の若き日がフラッシュバックし、だからこそ祖父としての責任に胸を痛めた。自分が育てた子が孫を育てたのだと、また、その過程に自分も寄与していたのだと。

 妹だけが現実的に葬儀を取り仕切ろうと孤軍奮闘していた。廊下に座り込み早春の陽だまりに背中を丸めて微動だにしない父の茫漠に悲しみ、突出して不幸感を醸し出している母の本位に失望し、何変わりなく生活を続ける祖父の年功に安心をおぼえた。兄とは仲が良くも悪くもなかったが、それでも悲しいものは悲しいものだと、一種不可思議な感覚だった。だからその悲しみに溺れないよう実務的な行動を次々とこなした。

 彼は春の雪山で発見された。凍死だった。彼は新品の登山グッズで身を固めており、世の中では、迷惑なビギナーのアンラッキーな事故死として受け止められていた。この世界から、肉体が一つ消え、カルシウムとタンパク質の塊が一つ出現したということだ。


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