第21話 奈々3

 「私は彼を分かっている」、そう彼女が信じていることが僕に伝わる。もしかしたら彼女の理解している僕は、僕の認識している僕とは異なるかもしれない。もしかしたら彼女は僕の心の安寧を慮って僕にそう思い込ませるよう振舞っているだけなのかもしれない。可能性は疑義を呼び、疑義はもしかしたら猜疑に変貌するかもしれない。しかしそれがなんだって言うのだ。僕が感じ取った彼女が僕を理解しているのは確実なのだ。なぜって、その確実性は僕自身に依拠するのだから。僕は、僕自身を信頼し、僕自身が信頼している彼女も信頼する。連鎖はその始まりが正ならば往々にして正に進み、負の連鎖はそこに負の可能性を見出すことから始まる。そしてそれを見出すのは個人の認識なのだ。だから僕は、彼女に対し、ひとりでに流れ出る涙に似た謝意を断じえず、それが僕たちの親和性なのだと思う。意識的にそう思う。

 彼女が僕に伝えてくれた僕は、僕の心に残像となる。僕はその残像をそのまま現実の僕にしてしまう。何万遍と交わした彼女との会話の切れ端や、日常にちりばめられた彼女の表情に映された僕の破片をかき集め、僕はダムをつくるビーバーのようにせっせと自分形成に勤しむ。僕にとって、彼女が思っているような僕を実践することは、非常に重要だった。そうすることで僕らは分かりあえていると思えた、少なくとも僕は。そうやって僕が成り立ってゆくことなんて実際には造作もないことなのだ。彼女の存在と比して個人の思索的な負担などいたって軽微なのだ。そしてそんなことは改めて認識するほどのことではないし、我々は個別の人間として対等に関連しあえていたはずなのだ。

 でも僕は、心のどこかの違和を、表層と核の間に生ずるねじれを、個人的に抑え込まざるを得なかった。本質を意識したところで、円滑な人間関係を構築できるものではない。最大公約数的な共通認識のうえに、相対的なフィット感を認識し合えるはずの情報収集が成り立ち、刻々と変化を遂げる流動的な感情のありようも、細分化の最先端ではとらえられるひとるのセルとなる。僕はいつも慎重に、そういった考え方を実践しようと試みていた。そしてあるところまでは必ずうまくいった。要領を得、情報も、その見極めの精度も熟していった。ただし、ある一定のところまでだった。


「チューリップって知ってる?」

「ちゅーりっぷ…?花のチューリップ?知ってるよ。どうして、…いきなり。」

「チューリップの花言葉って色によって違うのよ、知ってた?」

「花言葉まで知らないな、どんな花言葉なの?」

「赤いチューリップは真実の愛でね、ピンクは誠実な愛、ほかにもいろいろあるんだけどね、白が失われた愛なんだって。ちょっと前にお客さんから聞いたんだ。色が薄くなると愛が薄くなるって。」

「面白いね。」

「でもどんな色のチューリップも雄蕊と雌蕊がちゃんとあって、どんなに愛が薄らいでも、花が咲けば子孫は残せるんだって。」

「へー。」知らなかったし、面白い話だと思った。確かにスナックの女の子相手にするのにふさわしい話のように感じられた。「でも『花が咲けば子孫は残せる』というところが疑わしいな。実際は、ミツバチさんが受粉してくれなきゃダメなんだと思うよ。でも、そのお客さんとしては、『花が咲く』という事象に、人間の何かの行為を重ね合わせて言ったつもりなんだろうね。」

「んー???」奈々は、それも感じずに話を聞いていたのだと思うと、そのお客さんに同情したい気持ちになった。どんなお客さんだったのだろうと思い、聞いてみた。

「…ねばっこいお客さんだったの?」

「そういうわけじゃないけど、…焼いてるの?」

「俺もチューリップの話知ってるよ。」

「花のことで?珍しいじゃない、どんな?」

「青色のチューリップは存在しないってこと。そして、自然界の青色がとても貴重だってこと。」

「ふ~ん。」

「あまり興味ないね?」

「そんなことないよ、青が貴重なんでしょう、それで」

「ラピスラズリって石があるんだけど、青の顔料になるんだ。自然の物から顔料を作っていた時代は、青の顔料ってラピスラズリから作っていたらしいんだけど、すっごい高価な石だったんだって。エジプトのファラオが身に着けるような石だったんだって。だから、自然界にある青って、とても貴重なんだって。」

「顔料ってなに?」

「う~ん、絵の具みたいなものかな。」

「それで、青の絵の具を作る石が貴重で、自然界にある青は貴重で、チューリップに青色は無いってことが言いたいのね。」

「そういうことだね。」

「なんか話がずれてる気がするのよね」

「青色のチューリップができたら、どんな花言葉がつけられるかな?」

「わざと?」

「ん?」

「でもいいわ、青色のチューリップの花言葉ね。そうね、…そういう寒そうな色のチューリップって見たことがないから想像しづらいわね。アっ君はどう思うの?」

「そういう話は奈々のほうが得意だろう、俺もよくわからないな。」

 月曜日の朝だった。僕らは奈々のベッドでそんな他愛のない会話をしていた。暖かく、柔らかく、質量のある、それでいて理解を超えた触れ合い。

「ところでアっ君、アっ君はどこで青色のチューリップの話を仕入れてきたの?」

「ルパン三世が言ってた。」

「ルパン?漫画の?」

「その通り、ルパン三世特別版「幻の青いチューリップ」。」

「変な人。」

「かいけつゾロリとルパン三世が男のロマンなんだ。」

「変な人。」

 奈々は笑っていた。僕はホッとする。

 なぜ君はホッとする?良心はため息をつくように、独り言ちた。

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