第13話 僕のなしたもの

 二十二歳のさえない夏は、だらだらと、巨大草食恐竜のように続いた。長大すぎて終わりが見えない気すらした。それは自覚の問題なのだが…。

 ケチの付き始めは就職先の内定式だった。僕はその内定式をすっぽかしてしまったのだ。前日に飲みすぎたのが原因だった。

 焼尻島から帰って数日後、眠りから覚めるというよりは、気絶から回復するといったように視覚が戻ってきた。間違いなく僕のアパートの天井だった。胃が重く垂れこめ、頭が鈍痛に締め付けられる。首を傾げると、友人が二人でテレビゲームをしていた。何度となく繰り返された光景だった。

「…頭痛え。」と僕、

「飲みすぎだな、あんだけ飲めばな。」とA、

「何時だ?」と僕、

「二時。」とB、

「お前、今日内定式だって言ってたぞ。」とA。

 そうなのだ。今日が内定式だということは、昨日飲み始めた時点では分かっていた。もちろん出席するつもりでいた。しかし、このザマだ。内定式は九時集合、昼食後解散の予定だったはずだ。

「…もう、終わってる。」

 僕は、誰に回答するわけでもなくつぶやいた。押さえつけられるような頭痛に打ちひしがれながら、さて、と思った。あまりの二日酔いに、慌てることすらできなかった。

「本命なんだろ?」とA。

「そこしか内定もらってないからね。」と僕。

 六畳一間の古い木造アパートに、不規則なゲーム音が時を刻む。ピ、ピコ、ピッ、ピッ、ピコ、ピピ。僕の思考が呼応する、さて、さて、さて、さて…。松尾芭蕉は蛙の跳び込む音に無音を表現した。無機質なゲーム音と、思考上の「さて」、芭蕉ならどんな俳句を作るだろう。そんな取りとめのない倦怠が、二日酔い三人を含む六畳のアパートに蔓延していた。なにより僕の意識が思考を拒否していることが、最大の問題だった。

「シャワー浴びてくるわ。」と僕。

「あぁ」「うん」とA、B。

 僕らは日が翳るまでテレビゲームをし続けた。開け放った窓から入り込む光と熱気は、時間の経過とともに薄らいでいく。にもかかわらず、空気の淀む小さなアパートは、青年男子特有に蒸れわたり、それに二日酔いの酒気が入り混じっているため、えも言われぬ停滞感に支配されていた。僕らは、貪ることが最大の目的であるかのように、時間を浪費した。そして、夜が昼に勝る時間帯が、ようやく訪れる。時刻は七時である。

「どうする?」とB。

「飲めるか?」とA。

「腹は減ったな。」僕は二人に比べると若干腰が引けていた。

 A、Bが僕のアパートでシャワーを浴びる。昨夜のことはすべて流し落とす。準備は整った。そのまま僕らは夜の街へと出撃した。僕らにとって傷の深さは問題ではなかった。戦場では、何杯のビールジョッキを撃ち落とせるかだけが、エースパイロットとしての誇りなのだ。千切れそうな肝臓を必死に抱きかかえながら、僕ら三人はビールを胃袋へ流しこんだ。遠巻きに眺めたら、小枝の隅で肩を寄せ合い冬ごもりをする、三羽の幼鳥にも見えたかもしれない。友人Aは、卒業とともに離れ離れになる彼女との間に、とらえどころのない違和を見出していたし、友人Bは、大学生活の最期の夏に花を添えるべく、がつがつとした女性活動に勤しんでいた。そして僕は、今日、内定式をすっぽかしてしまった。僕らには確たるものは何もなかった。あるのは、遠い将来にあるだろう、明るいはずの未来だった。僕らは明るいはずの未来を信じ込み、日々、強がりを心棒に生きていた。

「お前な、あれだ、実家に帰っていて、札幌にいなかったことにすれば良いんだ。」

「そうだ、向こうだって案内状出しっぱなしなんだろ。出欠取ってないんだから、他に行かなかったヤツもいるって。」

「でもさ、いけないなら事前の連絡をすることになってたんだよ。」

「だ、か、ら、実家に帰っていて、ずっといなかったことにするんだってば。内定式の通知が来たときには、もう札幌にはいなかったってことにすんの。」

「まあ確かに、それだったらわかりっこないよな…。」

「向うだって人が欲しいから採用やってんだ。強気にいけばいいんだよ。」

「…でも、若干、気が引けるよなあ。」

「だったら丁重に謝っとけ。下手下手にさ。向こうだって何も言えねえぞ。」

「そうだな、そんな気がしてきた。」

「大丈夫だ。」

「そうだ、常識で考えろ。大丈夫に決まってるさ。すいませーん、ビール三杯。」

 友人たちは僕の職場復帰を祝って、今日何度目かの乾杯をしてくれた。僕らは乾杯のたびにビールを飲み干し、次の三杯を注文した。そうやっていつも、同じような翌日をむかえるのだ。

 そして翌日。僕は内定先に電話した。ずっと実家に帰省していて、案内状を今見た、連絡を入れずに申し訳ないと伝えた。相手はどんな用で帰省していたのか、帰省して何をしていたのかを聞きたがったので、本当にただ単なる帰省なのだと伝えた。あまりに問いただされるので、実は札幌にいたことを知っていて、僕を試しているのではないかと不安になったほどだ。しかし相手にしてみれば、帰省中に僕が新たな就職活動をしていることを懸念しての応対であったようだ。

 僕はそこに光明を見るような気がした。僕らはイーブンなのだ。道はまだ閉ざされていなかった。

「いや、いや、とんでもない。内定をいただいたものですから、安心したのか、実家にちょっと長居してしまいました。ご迷惑をおかけしまして、大変申し訳ございませんでした。」

「こちらこそ、ご丁寧にご連絡いただきまして、ありがとうございました。三月になりましたら、入社に向けたご案内をお送りいたしますので、その際には、何卒よろしくお願いいたします。」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」

「このたびは、わざわざご連絡いただきまして、誠にありがとうございました。それでは、失礼いたします。」

「失礼いたします。」

 やればできるものだ。そうやって僕は、無職の危機を乗り越えたのだった。

 無職の危機の後に待っていたのは、卒業の危機だった。僕は講師の忠告に反して、あるいは自分の欲求に忠実に、まるで復習をしなかったので、前期の試験は四苦八苦のうえに七転八倒だった。睡眠不足とコンビニ弁当のオンパレードで、吹き出物は出るし便秘になるし、成人病の危険因子は最高潮だったに違いない。それでも、栄養ドリンクに手を出さなかっただけましな方なのかもしれない。栄養ドリンクに手を出した人間は悲惨だった。切羽詰って飯を食う時間さえ惜しいと、栄養ドリンクを買いこみ部屋に籠るそうだ。不眠不休を栄養ドリンクでしのぎ、やつれたうえに目にくまを作って試験会場に現れた。しかし僕は彼らを肯定しない。ちょっとコンビニに買い出しに行って弁当を食う時間を惜しんだところで、試験の結果に劇的な変化など現れないと思うからだ。彼らは自分が寸暇を惜しんで努力したことを言い訳にしたいだけなのだ。そういった人間に限って単位を落とし、酒を飲みながら愚痴を垂れ流したかと思えば、講師に単位の取得を懇願するのだ。そうではない者もいるだろう、僕の偏見もあるのだろう。でも、とにかく、飯を食う時間を惜しんでする勉強に、僕はどうしても価値を見出すことができなかった。大仰かもしれないが、それは生に対する冒涜にさえ思えた。

 そんな大言壮語を吐く僕はといえば、後期の講義に卒業の希望をつなげるだけの単位は取得できた。「可」と「不可」ばかりだったが、自分の学力を慮れば、こんなものだろうと納得した。就職の内定した今となって重要なのは、卒業するために必要な単位を取得することなのだ。成績は二の次なのだ。そう自分に言い訳した。僕の良心は、半分くらいは許してくれたが、それだけではないのだろうと、最後にちくりと言い放った。

 前期の試験が終わると、一群の赤とんぼが、高く抜けた札幌の空を席巻した。僕は二十三才になっていた。二十三才の秋も、引き続きさえなかった。日差しが薄くなり、ちらちらと、光子が大気に浮かぶような季節に、僕は空き巣にあった。

 盗られたのは電話機だった。僕は全財産(といっても…)を財布に入れて持ち歩いていたので、電話機ぐらいしか盗る物がなかったのだろう。一応交番に連絡すると、現場検証をすると言って警官が僕の家に訪れた。柔道かラグビーをやっていたであろう体躯の持ち主だった。警官は玄関あたりの指紋を取り、僕の話をまとめながら調書を取った。その間に、二度、大きなおならをした。けたたましい爆発音を立てて、おならが暴発していた。警官は無愛想に「失礼」と言った。体躯に見合った豪快なおならだと感心しつつも、僕は気がめいってきて、早く帰ってくれることを切に願った。警官は、部屋に残されているであろう空き巣の指紋採取と調書で二時間居座った。最後に僕の指紋を取り、被害総額を証明する紙を僕にくれた。被害総額欄には「二千円」と書かれていた。

 僕は二千円の文字を眺めながら自分の行いを省みた。それは考えれば考えるほど、仕方のないことのように思えた。そもそも僕が鍵を掛け忘れたことに発端があるのだ。もちろん空き巣を肯定するものではない。悪事は悪事だ。でもこの事件について考察するに、僕が鍵を掛けていさえすれば出会うはずのない巡り合わせのように思えたのだ。おそらく、こんな古いアパートの鍵をこじ開けてまで、空き巣に入る人間はいないだろう。たまたま手をかけたドアノブが、いとも簡単にくるくると回りだし、空き巣の空き巣たるよこしまをくすぐったのだろう。「据え膳食わぬは」よろしく、開け放たれたドアに吸い寄せられる空き巣。それこそ空き巣冥利に尽きたのだろう。これで盗みに入らない空き巣は空き巣ではない。クライマーは壁面の頂きを目指し、ダイバーは海溝の果てを目指す。しかし空き巣が難関に挑むことはない。空き巣は、より安楽を志向し、開け放たれた宝箱を目指すのだ。その宝がいったい幾許であるかは問題ではないのだ。だからどう考えても、この結果は僕個人の人災にしか思えなかった。結論、「僕には、盗られた電話機を後悔する権利すらない。」そこまで考えると、僕は妙に納得した気分になった。最後に、空き巣を反面教師として自分が悪事を働かないよう戒め、二千円と書かれた証明書を粉々に破り、ゴミ箱に捨てた。

 そんな風にして僕は、新品の電話機を購入した。もちろん、それは二千円であるはずもなく、僕の部屋で最も高価な新参者になった。


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