第10話 老人と戦争

 その老人の出現は僕にとってあまりに唐突だった。

 老人は、太く真白な頭髪を短く刈りそろえ、背は小さく体は引き締まり、皮膚は積年の日焼けが染みついたように濃く、脂ぎっていた。白のランニングとステテコを着用し、いかにも人の良さそうな笑みを浮かべていた。その目が何度か食堂を往復し、状況を認識しようとしている。僕の近辺で少しだけ速度がよどみ、目尻の皺が一瞬深くなった、ような気がした。

 僕は宿泊客の存在に驚き、老人の漲る生気に驚いた。

「今日のごちそうは何だい?」

 低くしわがれた声がおばさんに投げかけられる。彼の声は、振動に無数の気泡が充満しているようで、ぷすぷすと、しかし野太く伝播した。小さく引き締まった体と、声の鷹揚さとの間には、極小な違和感があった。

「今日はホッケの開きで、ございます。」

「そうかい。…塩うにも付けてちょうだいよ。」

 それに対するおばさんの回答はなかった。

 老人は迷うことなく歩を進め、僕の斜め向かいに腰を下ろした。持って来た缶ビールをコップに注ぎ、ひと啜りした。

「お兄ちゃん、旅行かい。」

 老人は相好を崩し、目尻と口元に深い皺を造形した。近くで見ると肩や胸に筋肉の盛り上がりが感じ取れた。そして、左の肘下に大きなケロイド状の傷跡があった。

「旅行…、ですね。札幌から来ました。」

 何と回答するのが正解なのかは分からなかった。僕の視線が、野球中継と老人の間を泳ぎ、老人の深い皺と大きな傷跡の間を泳いだ。老人も僕の視線の動きを察知してはいるようだ。老人は続けた。

「札幌からかい。よくこんな島まで来なすったね。観光するところもないだろうにさ。」

「…今日は、羊、綿羊を見学しました。」

「ふーん、綿羊ね。」老人の視線は僕の向こう側に焦点を合わせているよだった。きっと綿羊についての認識を改めて確認しているのだ。そして短い沈黙の後、「学生さんかい?」と続けた。

「はい、H大学です。四年生です。」

「ほう、こりゃまた。立派な学校に通っていらっしゃるねえ。お兄ちゃん、頭良いんだね。」

「そんなことはないです。北海道に憧れて、頑張ってガリベンしました。」

「そうはいっても、なかなか入れるもんでもねえやな。」老人はビールを啜った。

 僕が北海道に上陸して以来、何万遍も繰り返された会話だった。僕はこういった会話になった場合に備え、二種類の回答を用意していた。一つは、老人に言ったように、北海道に憧れて頑張って勉強したという回答、もう一つは、偏差値で輪切りにされた結果、分相応の大学がここだったという回答。北海道への自尊やH大学に対する敬意をもっているであろう北海道民に対して、それらに対する憧れや好意を前面に配した回答と、大学受験の実情を理解している人間を納得させるための回答。どちらも事実ではあるが、真実ではなかった。

 僕の大学進学のそもそもの目的は、家族や教師や、そういった身の回りの社会一般からの離脱だったのだ。離脱の心情は北へ向かい、それを成就させるために津軽海峡を渡った。だから北海道は憧れより強く必然の地であった。しかしそのために勉強をしたことは確かだった。また、より確実な離脱を為すためにロシアの大学へ進学することも考えたが、それには学力が足りなかった。だからといって北海道の他の大学に進学するには理由が成り立たなかった。だから偏差値で輪切りにされたことも虚偽ではなかった。

 そして、そういった事柄を統合し簡潔に回答する言葉をもたなかったため、僕は二種類の回答を絶えず携帯し、使い分けていたのだが、それは、自己の感情を導き、それに対する周囲の反応を丁寧に紡いだ集積物のようなものだったのだろう。僕は、そう回答している自分を自覚するたびに内奥に二種類の人間が同居しているような感覚に陥り、そんな漠然とした存在を、自分に納得させることになるのだ。喉元までせりあがってきた心臓を、生きるために飲み下すように、納得させる。そして、そうせざるを得ないことに対する後ろめたさが拭いきれない。

 「後ろめたさ」が拭いきれないのだ。

 知識人と思しき大人が言っていた、「考え方、認識の仕方ひとつで世界が置換する」と。そうなのかもしれない、例えば僕に認識の視点が二地点あるなら、僕は二倍の人生を与えられているようなものなのかもしれない。

 でも、と思う。ある人生を送る意識の一方で、他の意識が別の人生を認識し、一人の人間が二倍の人生を現実的に生きるとしたら、ある思考はもう一方の思考を受け入れ難いようにも思える。意識と意識が対等で、結果、二倍の人生を生きることは、同時的な存在になりえない気がするのだ。

 だから僕は、扇動する奴らを陳腐に思う。その陳腐な奴らは、置換させた世界と置換させない世界の両方を知覚できているのだろうか。わからない…。

 だから僕は、僕が納得させようとしている自分について考える。僕にできることは、僕の知覚できるはずの自分について考えること…、しかしたどり着けない。「後ろめたさ」を感じさせる何かに、僕はたどり着けないのだ。…たどり着くわけが、ないのだ。

 老人はひとしきりビールを啜ると言葉を継いだ。「くにはどちらだい?」

「群馬です。群馬の、畑ばっかりの、田舎です。」

「そりゃまた遠いところから…。」

「お待ちどうさまでした。」

 不器用に会話に割り込むように、おばさんが料理を運んできた。僕には定食の残りのホッケの開きとご飯と味噌汁、老人には四角い盆に載せた焼き魚定食と、小鉢の塩うにだ。しばしの無言、僕の目はまた老人の傷跡を捉えたが、ありきたりの道徳心から、すぐに野球中継へ移動した。

 「姉さん、ビールもう一本くれや」老人からすれば、おばさんは「姉さん」に値するようだ。おばさんはその呼称をどう受け取っているのか分からないが、はいはいと言って調理場へ下がった。老人は僕に視線を戻す。そして言葉を続けた。「気になるかい?」

「……。」

 小心な道徳がひどく大きく脈を打った。喉から音になって出てきそうだった。僕は老人の目を探った。

「はい、お待ちどうさま。」

 おばさんは老人の前に缶ビールを一本置いて、少しだけ二人に愛想を振りまいて、そそくさと調理場へ消えた。

「兄ちゃんも飲まねえか。塩うにも食えや。」

と、老人は僕のコップにビールを注ごうとした。

「あ、いや、そんな。いただけないです。申し訳ないです。僕のもまだ残ってますから…。」

 断わりの言葉を述べてたてたつもりだったが、老人は当然の顔をして、平然と僕のコップに、開けたてのビールを注いだ。そして、塩うにを小鉢から上手に半分すくい取り、僕の取り皿に載せてくれた。僕の意識が散漫だったのか、老人の手際が良かったのか、あっという間の出来事だった。

「気にするなや。どうせ会社に請求が行くんだ。」

「はあ…。」

 老人が発した言葉の意味はよくわからなかったが、老人の懐は痛まないというニュアンスだけは感じ取れ、申し訳なさは少し緩和した。老人はコップに残っているビールを一息に飲み、新しい缶からなみなみと注いだ。塩うにをひとなめし、ビールを啜ると、また僕に視線を戻した。

「これなあ、戦争の痕なんだよなあ。」

 老人は左肘を僕の前に突き出して、ケロイドの痕を見せてくれた。色こそ肌色(この老人の場合極めて黒に近い肌色であるが)をしているが、そこだけ異様につるんとした印象だった。そして傷痕の周辺部分のところどころに、細かく波を打っている箇所が見受けられた。

「これでもきれいになったほうでな、十年位前に娘たちが金を出し合って、整形手術を受けさせてくれたんだ。その前はな、皮膚の伸びきっているところとひきつっているところがあってな、夏でも長袖を着てたな。人様に見せられる代物じゃねえって、母ちゃんにも娘たちにも言われたもんでな。」

 老人は腕を引っ込めながら、大きい笑みを浮かべ目を細めた。笑顔の大きさに比例して皺が深く刻み込まれる。老人は僕の反応を待つ間にホッケを食べ、コップのビールを飲み干し、また、なみなみと注いだ。僕もつられてビールを飲んだ。

「戦争、…ですか。」

 老人は口元だけで小さく笑った。実に表情の豊かな老人との印象だ。そういったところに生気を感じるのかもしれない。

「おおぅ、戦争よ。たいへいよう戦争。兄ちゃん、学校で習ったろう。」

「はい、第二次世界大戦とか、ポツダム宣言とか、ですね。習った記憶があります。」

「まあ、そういった類のもんだ。俺はそのころ満洲に出兵してたんだがな…」

 

「満州」と「戦争」は僕の記憶の引き出しにも存在した。奥の奥の底の方で、ずしりとした質量を持って存在した。

 僕の祖父も戦争経験者だったからだ。

 僕の祖父は、頑健を地で生きるような人間だった。しかし、僕がまだ小学校に上がる前に、左胸の下あたりを手術した。戦火の中で何かの破片が肋骨に突き刺さり、そのまま、―破片を肋骨に埋めこんだままずっと生活してきたのだが、今後の障害を鑑み、体力のあるうちに(それでも六十才を超えていたと思う)除去手術をしたらしい。肋骨に当たり、そこにうまく埋まっていたからよかったものの、もし肺に破片が到達していたら、血を吐いて死んでいたかもしれない、運が良かったんだ。そんな話を周りの大人たちがしていた記憶がある。

 日頃は無口で、NHKの相撲中継を見ながら晩酌し、家族がそろうと夕食をとり、夕食をとるともう寝てしまう生活を繰り返していた。そして朝は明るくなると同時に起床し、若干大きめな家庭菜園で作物の世話をするのだ。

 でも、少々お酒が過ぎると、盆や正月、冠婚葬祭の場面が多いのだが、そういった時に、僕に戦争の体験を語ってくれた。幼い僕は、酔いと記憶の関連性も分からなかったし、時間と忘却の関連性も分からなかった。しかし、僕にとっての祖父は大人であり、大人の言動は真正面から受け入れるべき正論であり、その恐怖は理解できるのだった。

 「秋穂よぅ、戦争に行くとなぁ、軍曹様ってのがいてな。ドンパチ始まると、その軍曹様が『突撃!』って叫ぶんだよ。そぉすっと、機関銃の弾が飛び交っている中を走ってってな、ソ連の戦車めがけて手榴弾を投げんだよ。

 勝てるわけねえぞぅ。だいたい人が投げたって、戦車まで届かねぇんだから。でも走って行かねえと、軍曹様が怒るんだよ、ちゃんと当てろって、勝つ気がないんだって。俺らは勝っても負けてもどっちでもよいんだけどさ、軍曹様に怒られっからさ、今度はもっと戦車の近くまで行って手榴弾を投げようとするわな。でも、機関銃でバチバチ打ち合ってる最中さ、そこまで走ってたら大概撃ち殺されっちゃうんだよ。」

 祖父は日本酒を好んだ。一口舐めて口を潤すと、小さくしぼみそうな灰色の瞳をどこかへ向けて、話しを継いだ。

「もう最後はさ、しょうがないから手榴弾抱えて戦車に体当たりするしかないんだ。軍曹様が怖いからさ、死ぬしかないんだよ。でもよ、戦車なんかちょっっとへこむだけだ。当たり所が良くてさ、エンジンなんかに引火するとやっつけれられっけどな。まあ、勝てないよ。…勝てない。ソ連は戦車で日本は手榴弾なんだから…。」

 祖父はその時、確かに満州に存在し、戦火をくぐり抜けていたのだ。

『厚い雲に太陽が見えない。それでも内陸の猛暑が体にしみこむ。彼らの一人が天を仰ぎ、大きく息をついた。「歩け、ちんたらするな。」軍曹がリヤカーの上から吠える。彼は生真面目な顔に戻り、従軍を続ける。

 彼らの隊は満州を南へ向けて進軍していた。進軍は昼夜を問わない。ソ連軍、八路軍の動向をうかがいつつ、とにかく南進した。戦火で行き分かれた小隊が、日本軍の駐屯地を目指すための進軍である。歩かなくてはならない、進まなくてはならない。この隊列から落ちこぼれたらそのときは本当に死ぬしかないのだ。軍曹の言う通り、今は歩くしかない。無言の隊列が、荒れ果てた大地を黙々と進んでいく。

 戦地へ赴き天皇のために命を賭す、出兵とはめでたいことであった。程度の差こそあれ、皆、おめでとうと祝福され里を後にした。しかしある隊員の胸に、思いはよぎる。「僕らは一体どこへ向かうのだ。凶暴な砂が、僕らを、家族を、日本を押し流している。鉄のように重い冷ややかな砂だ。戦争は一体どこへ向かうのだ。」ある隊員はそれを口には出さない。他のある隊員も口には出さないのかもしれない。音声とならない言葉は、言葉として成立しない。軍は規律が重んじられる。個人の意思はここでは意味を結実させなかった。出口のない思いが、無言の集団の中で、日々押しつぶされる。「進め、歩け。」軍曹がまた吠える。ある隊員は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。「余計なことは考えるな。考えることになんて体力を使うんじゃない。とにかく歩くんだ。」

 彼らは、毎日歩き続けた。そして隊の人数は少しずつ、着実に減少する。原因は明らかだ。人が死ぬのである。もちろん殺されることはある、戦争なのだから。でも、そうでない場合もある。戦場での死に方は実に様々だ。

 例えば。

 進軍中に卒倒した隊員がいた。歩きながら、暑さと疲労で崩れ落ちた。隊列が止まる。ある隊員が近付き、平手で頬を張る。一回、二回、三回。日焼けと土埃で浅黒かった頬が、どす赤く変化する。しかし目覚めない。瞼をこじ開けたが眼球に反応はなかった。失禁もしているようだ。別の隊員が、リュックサックをあさった。食料以外に使えそうなものはなかった。「悪く思うな、有効に使わせてもらう」、隊の総意であった。かくして彼は食料も持たぬまま取り残された。もう起き上がることはあるまいが、起き上がったとしても彼には食料すら残されていない。隊から落ちこぼれたら、死ぬしかないのだ。

 また別のある日。

 隊列の少し後ろの方で銃声が響いた。そこには、顎から上が異形に粉砕された死体がころがっていた。首から下はきれいなままだ。ライフルの銃口を咥えて、足で引金を引いたのだ。死体を発見した隊員はライフルを拾い上げ、銃口の血糊をきれいに拭う。ひとしきりライフルを眺め「まだ使えるな」とつぶやく。隊員は最後に、少しだけ羨ましそうな視線を死体に投げた。

 どうせ死ぬなら、頭を打ち抜くほうが楽なのかもしれない。その楽な道を自ら選ぶことを誰が否定できるだろう。

 腹に銃剣を刺された隊員は悲惨なものだった。

 生きている人間をおいてはいけないので、リヤカーに乗せ進軍したが、そのむごたらしさは群を抜いた。腹の中がぐちゃぐちゃになり、脂汗がにじみ出て、もがき苦しむ。応急の止血はするものの、素人の隊員が止血したところで死亡を何時間遅らせられるだろう。痛みで眠れず、糞尿を垂れ流し、失血で意識が遠のく。そして翌日には死んでゆく。それでも彼らは、死者に対する敬意を忘れてはいない。白目をむき、泡を吹き、糞尿を垂れ流した死体を荼毘に付した。少量の油を回しかけ火葬する。しかし骨だけになるまで焼くことは出来ない。時間もないし、火力も足りない。人間の体はそう簡単に燃え尽きるものではない。それでも、拾える骨を拾い、当人の飯盒に詰める。リヤカーの隅には骨壷と化した飯盒がいくつか積まれていた。戦火に散った隊員に比べれば、骨壺という名の飯盒に、骨を詰めてもらえた彼らは幸せだったのかもしれない。

 そのような幸せな遺骨が、リヤカーの隅で本土への帰国を待ちわびている。彼らはその後、日本海の底に沈むことになるのだが…。

 さて、果てしのない従軍の末に辿り着いた日本軍の駐屯地は、廃墟であった。爆破された建物、ガラスの割れた窓、コンクリートのよう壁は見るも無残に崩れおちていた。土埃が吹き付ける只中で、しばし彼らは呆然とする。しかし彼らは、あまりにも不幸に慣れ親しんでいたため、駐屯地が蛻の空であったことに対する感慨はなかったようだ。それよりも重大だったのは、目指すべき目標が潰えてしまったことだった。隊が分断された場合にはこの駐屯地に戻る、それが規律だった。しかし駐屯地が崩壊してしまった今となっては、守るべき規律は存在しない。だから目指すべき目標も存在しない。よって彼らは、呆然と、無言のまま立ち尽くしていたのである。強い圧迫によって律せられていた彼らの心にも、土埃が吹き付けられていた。

 ある隊員はその場にへたりこんだ。ある隊員は駐屯地跡に足を踏み入れた。ある隊員は来た道を戻りだした。軍曹は指示を出せずにただ見ているだけだった。

 時間だけは恐ろしいほど正確に過ぎる。日が翳りだした。口腔内に膜のように付着した土埃を、唾と一緒に吐き捨てる。残った土埃をジャリっとかむ。夜営の準備をしなくてはならない。ある隊員が、営倉は半壊しているが、比較的夜をしのぎやすそうだと提案した。反対も賛成もなかった。彼らは隊員に戻り、営倉の中に自らの寝床を確保した。半壊しているとはいえ、営倉には簡易ベットがある。隊員たちは久方ぶりの安眠をむさぼった。道を戻り小隊を去った隊員分だけ、また人が減っていた。』

 それからの彼らを知る者はいない。祖父の記憶の中で様々なものが混濁し、行動が時系列的に定まらないのだ。ただ言えることは、彼らは生き抜いたということである。

 彼らは東の海を目指すことにした。東の海は日本本国に通じるからである。そして、賊と化した。

 中国人の民家を襲い、-どこの家も若い男はいなかったという、日本と同じだな、と思いつつもライフルを突き立てた。女、子供、老人は微動だにできず、食料も水も容易に獲得できた。しかし蓄えの潤沢な家などなく、彼らは当座の食料だけを確保し、疾風のごとく退散した。中国人は、ライフルを取り下げた隊員に対して、感謝の言葉らしき中国語を発した。「間違っている…」ライフルを取り下げた隊員は他の隊員を追って、最後に民家を後にした。

 中国人の民家から食料を調達できた日はひとしきりの安堵があった。襲っても空き家であったり、食糧など蓄えていない民家もあったからだ。腹を減らした彼らは、狸や鼠やもぐらを捕まえて飢えを凌いだ。ボウフラやミジンコの湧いた瓶の水を飲んで渇きを回避した。彼らはあえてボウフラやミジンコの湧いている水を飲んだ。澄んだ水は決して飲まなかった。澄んだ水は往々にして毒が混入されているからだ。ボウフラが生息できる水ならば、腹を下したとしても、命を奪われることはない。ボウフラやミジンコなど歯で濾せばよいのだ。それが彼らの生きる術だった。

 そんな生活が半年続いた。半年、6か月、長い時間なのだろうか、日々は同じように営まれた。少しずつずれていく日々だ。季節は秋を通り過ぎ冬を迎え、自然界的に食料を賄うことのできない季節がやってきたと時を同じくして、彼らは日本行きの船に乗船する機会を得た。生命が途絶える寸前の、春まだ遠き夜明け前であった。彼らは北九州の港に向かう輸送船にいた。

 『疲労と空腹で飽和したような船だった。三日間で北九州に到着する予定だったが、その間にも、体力を使い果たし息絶える者はあった。船上で火葬することはできないので、腐臭のひどくならないうちに、死体は海に放り出された。多分魚のえさになるのだろう。飯盒に入っていたほうが幸せだったろうか。北九州までもう少し、生き抜くまでもう少しだったのに。

 三日目、船は予定通り、北九州の港の影が見えるところまでたどり着いていた。彼らは緊張と疲弊と自己放棄の只中で、ささやかな安堵を共有した。しかし、まだ許されてはいなかった。彼らは、アメリカ空軍の強襲にあった。圧倒的な恐怖をもってたった一機の戦闘機が降下してきた。彼らの船は応戦できる火器を装備していない。ただ本土へ逃げ帰るためだけの船なので、応戦する気もない。みんな我先に小型ボートを奪い合い、船を降りた。そして降りた順番にまた戦闘機に銃撃された。彼らの命はこのように弄ばれている。命が、弄ばれるのだ。ある隊員は浮き輪だけを抱えて甲板から冬の日本海へ飛び込んだ。戦闘機は二度三度と旋回してきたが、船が沈んでゆくのを確認するとどこかへ去ってしまった。小型戦闘機一機での強襲。戦闘目的ではないのだろう。偵察だったのかもしれない。輸送船は、偶然沈められてしまっただけなのかもしれない。去っていく機影を見ながら、浮き輪につかまっている数名の隊員が、まだかろうじて生きていることに胸をなでおろした。一方、遺骨の詰まった飯盒は、撃沈された輸送船共々、深海の彼方へ下降していた。飯盒の中にいれば魚のえさにはなるまい。安らかに眠れると良いのだが…。

 浮き輪組みの隊員たちにとって、生き残ったが故の恐怖が始まった。北九州の地は目視できたが、海を泳ぎきるには体力がなさ過ぎる。潮流はおそらく日本海を北上するだろう、その潮流に逆らって泳ぎ切るには彼らは疲弊しすぎていたのだ。冬の日本海は体温を奪い、疲労と空腹、最後にのどの渇きがやってきて彼らは死ぬ。彼らにできることは限られていた。正確に言うならひとつしかなかった。彼らは救助を待つしかないのだ。北九州の港は、彼らの船が撃沈されたことは認識しているはずだ。諦めてもいないはずだ。救助は必ず来る。そう信じる以外に生きる道はなかった。そして信じた者だけが生き残った。それは未来に対する恐怖に打ち勝つことであり、自分自身を乗り越えることだった。

 北九州の街で二泊した。兵隊さんは軍の指定する家族にお世話になる。それらは幾分裕福そうな家族である。兵隊さんは少しだけ優遇されるのだ。日本を守り、日本を勝利に導くと信じられていたからだ。空腹を紛らす程度の食事が与えられ、寒さを凌げるだけの衣服も与えられる。風呂に入ることもできた。ある家族には子供が三人いた。男の子が三人、まだみんな小さい。兵隊さんはサツマイモとオオムギの粥を食べ、子どもたちは蒸かしたサツマイモを食べていた。九州といえど冬は寒く、子供たちの皮膚はかさかさになり、手先、足先があかぎれていた。それでも兵隊さんの後にふろに浸かり、沁みる指先をそろそろと湯船に沈め、温かさに頬を緩めた。子供達の笑顔は何物にも代えがたい。』

 「秋穂よぉ、戦闘機ってのは恐ろしいぞ。俺は、まあ、今こうやって生きてっから良いけど、とにかく怖かったね。米軍機が帰ってくれたときは、ほんとに、ほっとした。でもさあ、ほっとしたんだけどさ、…でももう、泳げないんだよね。港は見えてんだよ。でもさ、疲れてて泳げねんだよ。泳いでもさ、疲れてっから、波に負けて進まねんだよ。だからさ、諦めたよ。半日ぐらいかな、浮き輪に寝そべって、海に浮かんでたんさ。」祖父は寝そべるまねをして見せた。ぽかんとした顔をすると、本当にそのまま死んでしまうのではないかと思えた。「まあ、寒かったね。冬の海だし風は冷たいし、手足の感覚はなくなるし、頭はボケッとしてくるし、死んじゃうかなって、なあんか、そん時はそれでも良いような気もしてたよね。でもさ、日本の船が来てくれたんだわ。俺らのこと見つけてくれてさ、嬉しかったね。もうよく覚えてないけどさ、必死でロープにしがみついたね。ウインチで引っ張り揚げてくれたんだけど、よく落ちなかったよね。どこにそんな力が残ってたんだろうね。」


 そうやって祖父は生き続けることになった。だから僕もこうして生きている。

 

 老人の名前は岩橋重八(いわはししげはち)と言った。八番目に生まれたから重八だそうだ。僕は末広がりのよい名前ですね、と言った。まあ、安直だけど、分かりやすくていいやな、と岩橋さんも同意した。

 岩橋さんは満州に土木班として従軍したらしい。左腕の傷はその時のもので、当時は膿んで壊死寸前だったそうだ。だからナイフを火で炙り、麻酔もせず自分で皮膚を割き、膿を掻き出したそうだ。気絶するほどの激痛だったが、膿がたまって腕を壊死させるわけにはいかないと、必死に意識を保ったことをよく覚えているとのことだった。戦後は土木班の経験を生かして建築会社に就職し、娘三人を嫁に出したが、奥さんは事故で(事故の内容は話さなかった)亡くしてしまったという。

「一人になってからは、あれだな、できるだけこういう駐在の現場を回してもらってるな。なにしろ飯の心配をしなくていいしさ。家にいなけりゃ部屋も汚れねえしさ。俺にとっちゃいいことずくめさ。」

 焼尻島は二度目だと言った。そしてコップに半分ほど残っていたビールを飲み干した。

「姉さん、ビールもう一本くれや。」

 調理場から返事が聞こえ、おばさんが缶ビールを持ってきた。岩橋さんのコップが空なのに気付くと、お酌をして調理場へ戻っていった。

「兄ちゃんも飲んだらいい、俺はこれで終わりだ。明日も早いからな、これを飲んだらもう寝る。」

 僕もコップに残っていたビールを飲み干した。岩橋さんが僕のコップにビールを注ぐ。

「ありがとうございます。…いただきます。」

 僕はそう言ってコップを持ち上げた。僕らは今日初めての乾杯をし、岩橋さんは一息であおると、立ち上がった。

「僕の祖父も、戦争で、満州に行っていたみたいです。」

 眼尻の皺がのび、瞳が小さくなった。悲しみを表現しているのだと思った。岩橋さんはやはり表現がうまい。

「いい爺さん、…なんだろうな。」

 岩橋さんは、ごっつぉさん、とおばさんに声をかけ二階の部屋へと階段を上がっていった。足音のリズムは心なしか不規則だった。

 岩橋さんの消えた食堂は静けさが増したような気がした。調理場にいるはずのおばさんは、僕の食事が終わるのをじっと待っているのだろう、物音すらしなかった。それに引き替え卓上の六本のビール缶は、僕に対して存在を誇張するように乱立している。そのうちの一本は僕の胃袋に収まるのを待ったまま、僕と岩橋さんの存在した空間との中間に位置していた。僕はそいつを取り上げ、コップに注ぐと、僕の目の前に置いた。そして空になって無造作に放置された五本のビール缶を、そいつの横に並べ始めた。ラベルを揃えて一列に並べながら、ふと、岩橋さんはどれぐらい飲んだのだろうと思った。体は引き締まり、筋肉も盛り上がっている。実年齢はわからなかったが、戦争に行ったのが二十才位なら、六十代後半、もう七十才になっていてもおかしくない。黒光りしている皮膚にも、表情豊かな眼球にも酔いの感じはうかがえた。やはり高齢なのだ、そう思うと喉の奥が熱くなった。並んだビール缶が、敬礼をする兵隊に思えた。

 僕は野球中継を眺めながら、岩橋さんにいただいたビールを最後まで飲み干した。九回表のピンチを斉藤明夫がしのぎ、九回裏にポンセがサヨナラツーランホームランを放った。僕の希望通り、大洋が勝利した。新浦に勝ちはつかなかったものの、勝利の瞬間にダグアウトで仲間と握手をしあう姿が映し出された。解説者は今日の影のヒーローは新浦だと、彼のピッチングを褒め倒していた。僕もそう思う。彼がヒーローだ。黙々と投げ続ける新浦壽夫。ピッチングの良し悪しは僕には分からなかったが、自分のなすべきことを信じ、とにかく投げる。新浦さん、あなたには信じるべきボールがあるんだね、投げ込むべきミットが見えているんだね。僕は心の中でそうテレビに問いかけ、それを潮に席を立った。おばさんにごちそうさまの挨拶をし、岩橋さん同様、二階へ上がっていった。階下に、おばさんが食器の後片付けをする音が響いた。

 歯を磨き布団へ入ると、僕は今日の邂逅を反芻する余裕もなく、眠りに落ちた。それは、「ちょっと」も「まった」もなかった。海の音が少しだけ聞こえたような気がしたが、横たわる重力とともに、意識のしずくすら砂浜深く吸い取られるようだった。


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