第9話 誕生
頭を垂れた稲穂が農民たちの心を躍らせるある秋の日、真夏の暑熱と充満した湿気が尻切れた蝉声とともにすうっと影を消したある秋の日、彼はこの地上に生を受けた。世界はクリアで明晰で塵ひとつなく、生まれ落ちた彼は、ある家族を、比すること無きがごとく誇らしげに思わせた。
長男の誕生を最も喜んだのは祖父正二だったかもしれない。正二は娘を四人授かったが、息子はいなかった。妻は四女を生んだ二年後に他界し、後妻はもらわなかった。自営業ではないので、家督を継ぐことを意識する必要はないのだが、自分が農家の出であることも影響してか、家が途絶えることについては非常な喪失感を覚えていた。そんな正二の心とどこまで同調していたのか、長女・正江は婿を迎えた。正江が何かの犠牲になっているのではないかという思いと、正江に対する感謝の気持ちが秋の雲のように渦を巻いていたが、長田姓が保たれることに、とりあえず安堵した。そして長男の誕生、正江は何かをやり遂げたように思い、正二は喜びを隠しきれずに、それでも奥歯でかみしめていた。そして寿秋は、-ただ純粋に人間が生れいずることに対して感涙した。家族といえど人間の集まりなのだから方向性の違いはある。正江は息子の誕生に完遂感を覚えたがしかし、現実の期待は正二のそれより、より増大されて発現されていく。自分が女であったこと、女である故父親に対して応じられない事柄があったこと、それらが正江の心の無意識の底のあたりに沈殿し、気持ちが撹拌されるにつれ、自覚されない意識として正江をつき押し上げる。息子を一人前に育て上げなくてはならない。正二が望むような長田家のありようを自分が実現させなくてはならない。そういった骨子のはずだが、正江はそれを理解しない。押し上げられる興奮は自分への過度の期待となってただ行動に反映される。目的を持たない行動、衝動を動力としてやみくもに前進させただけの行動、正江は自分が疲弊していることすら気づかないのだろう。興奮がアドレナリンを放出し続け、疲弊などという言葉は息子の笑顔でかき消されるのだろう。その笑顔が何に根差しているのかさえわからずに。
「男の子だね。」寿秋が言った。
「そう、男の子よ、私たちの子供、男の子…。」正江が言った。
彼はおくるみにくるまって、ただ眠り続けていた。
正二は病院の廊下でタバコを吸っていた。
時刻は夜の八時になろうとしていた。
「そろそろ帰る、明日は来られないな。」
「いいのよ、仕事がんばって。誰か(妹たちの誰かだ)来てくれると思うから。」
「うん。」
「じゃあ。」
「うん。」
「この子にも。」
「じゃあね、バイバイ。」寿秋は彼に向かって小さな声でそう言った。彼はうんともすんとも言わず、少し首をずらせ、眠り続けていた。小さな命、小さな手。健やかに、慈しむべき、育むべき小さき者。
その夜寿秋は、正二とともに帰宅した。寿秋が運転し、街灯も夜空の光も乏しい夜だった。舗装の行き届かない田舎道を遠目近目のヘッドライトで確認しつつ注意深く運転しているさなか、ぽつぽつとした世間話のふとした瞬間に、寿秋が口にした。
「あの子の名前には「正」の字を入れたいと思っているんです。それで、もしよろしければ、ご意見をお聞きしたいと思っているのですが…。」
正二はその台詞を予期していたのかもしれない、あるいは、いつかそんな会話をしたいと期待していたのかもしれない、内心微笑ましく、しかし自分がでしゃばりすぎてはいけないと自戒もしていた。
「ううん、」正二は少しばかり低く唸ってから続けた「お前と正江の子供だ、俺が決めるものでもないだろう。」正二はそういってから、俺が決めるという表現に自己の過剰ぶりを感じて、ひとつ大きく息をした。しかし寿秋はそんなことを気に掛けるよりもはるかに、寿秋自身の思いを言葉にすることに集中していたようだった。
「私は、長男だから「正一」がいいのかなって思ったり、でもお義父さんが「正二」でその孫が「正一」というのもなんだかおさまりが悪いかなって思ったり。正江と話してみたのですが、正江は「そういうのは父親が決めるものよ。」の一点張りで…。」
「あれも、融通きかんね…、」次ぐ言葉を探す時間の表層的な会話だった「長女だからか、…母親を早くに亡くしたせいか、あれは少しばかり、感覚が固いように思うね。父親の俺に対しても、やれ酒を飲むなだの、醤油をかけすぎるなだの、俺がその通りに言うことを聞いてきたせいもあるのかもしれないけど、やはり少しばかり正しさとかしきたりとか、そういうものに固執している感があるね。」
「そうですね、でも、そういったところが私にしたらいいところに思えますよ。ご存じの通り、私は三男で、自由奔放に大人になってしまいましたからね。きちっとしてくれるというのは、所帯を持つうえではいいことに思えます。」
正二はどうしてか戦争時代を思い出していた。友が死んだ。憎たらしいと思っていたやつも死んだ。見知らぬロシア人を殺した。焼けた死体は人種を超えて転がっていた。
自分は生き残り、嫁を貰い、娘を4人授かった。妻は4人目の娘を産んで2年後に死んだ。また人が、死んだ。それから正江は私の長女でありつつ、妹たちの母であり、冠婚葬祭では私の妻を代替した。そして婿を迎え、長男を生んだ。
確かに男の子がほしかった、しかし。
自分を幸せだと思い返せる、しかし。
しかし、しかし、しかし…。…その幸せの突端は戦争にあるようにも思える。茫漠とした思念の端と端は孫と戦争だった。
子供は何のために生まれてくるのだろう、親や祖父母の愛玩物ではないはずだ。ではなぜ…。
「今お返事を聞きたいというのではありません。何か参考になればと思って…、でも4、5日中には決めたいと思ってるんです。」少しの時間を無言で過ごしていた二人の闇夜を、寿秋はそう言って切り裂いた。「すいません、突然…。」
「いや、すまんね…、ちょっとぼっとしちゃってね。少し、考えさせてくれないか。」
「ええ、もちろん。」
正二が寿秋を呼び止めたのはその二日後だった。正二の案は「秋穂」だった。字画がなかなか良いことと、生まれた季節と、「寿秋」の秋を入れたということだった。「俺の孫だし、正江の子だが、お前が父親だ。俺はそう思っている。」
寿秋は、うれしさと恥ずかしさが年甲斐もなく表情に現れたと自覚し、正二から視線を外した。俺が父親だ、そう反芻した。
結果的に正二が命名したという事実は、たらいまわしのその果てとなった。
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