第4話 結婚

 田中寿秋と長田正江は、北関東のとある自動車整備工場で出会った。

 時あたかも戦後高度経済成長期、北関東のさらに片田舎においても、そこかしこに高度成長の片りんが可視化され、小さな町の、板金屋に毛の生えたような自動車整備工場ですら、親方をはじめ工場全体が根拠のない高揚感に覆われていた、そんな時代だった。例えば大手自動車メーカーは、拡大路線の触手を地中浅く日本全国津々浦々に蠢めかせ、その芽は用意周到に息吹かんとしており、事実、寿秋の勤めている板金屋も自動車の整備工場を兼ねた販売店として大手自動車メーカーの傘下に加わるという話がまとまりつつあった。「これからは車も売らなきゃならねえからよ、娘っ子一人増やすべ。」浮かれ気分の親方は気分上々にそう言い放った。工場の一角を小奇麗な受付兼商談スペースとして改装し、そこで若い女性を働かせる、それが親方の未来予想図だった。つるりとした受付には近未来的な風体が漂い、スタイリッシュな商談スペースでは、クールでスマートな親方がビズィネスの会話をする。親方にとっての想像上の自分は、紛うことなきバラ色の日々を生きていた。親方は工場長と名を変え、ネクタイを締めるようになり、その時増員になった事務員が正江であった。

 それは寿秋が就職してから八年後の出来事であった。工業高校を卒業した寿秋は、まずまず立派な社会人として脂ののりかかった青年となり、若手ではあるが中心的な工員として業務に従事していた。寿秋の仕事ぶりは丁寧で、それは長兄と一緒にトラクターの部品磨きをしていたころから変わらぬ姿だった。寿秋は、社会で働くことを苦に思うことはなかった。むしろある程度の一貫性や向かうべき方向性があることを快く思った。工場には青臭い夢や希望を語る人間などいなかった。皆に家族があり、それなりの給料でも、愚痴を言い合いながらでも、自分の仕事を全うすることは怠っていなかった。寿秋が好んだのは、漠とした未来ではなく、現実的に想像できる将来であり、今ここで接することのできる部品たちや工員たちであった。それを自覚してかしないでか、寿秋は自分でも驚くほどにその工場となじんでいけた。いつの間にか他人の懐に入ってしまうような人となりは、周囲から好評を得ていたし、三人いる年上の工員に対して密約のごとく自尊心をおもねり、それぞれから重要な技術をご教授賜りつつも、誰の目にも慇懃に映ることはなかった。典型的ではなかったが末っ子気質の発露か、自己に対する生真面目さか、両者の入り混じった人間の不確実性もあるのだろう、寿秋は少しばかりの頼りなさすら味方につけていたようだった。加えて、折からの事業拡大が寿秋をより飛躍した人間として思わせたのかもしれない、これからこの整備工場を担う工員であることは、誰が言うともなしに工場の共通認識となっていた。そして寿秋もそういった状況をあながち嘘とはとらえておらず、機械いじりが好きだっただけの少年個体から、他人への影響力を秘めた青年になっているという思いと、自分も他人からずいぶん影響を受けいているものだという再認識とで、心の持ちようと精神的な居所のバランスをどうにか探り当てようとする日々であった。つまり、女にもてたいという欲求と、彼女の一人ぐらい作れる度量はあるという思いと、根源的な性欲とで、悶々としていたのである。だからこそ、正江の登場は何かしら運命めいて、田舎のあんちゃんにやっと巡ってきた幸運のようでもあり、運命めきすぎた破滅の罠のようでもあり、機械ではない肉の柔軟性と脆弱性に対し、寿秋は平常を装うことを最上の細心としていた。

 家父長制度の延長線とも言えそうなその工場では、多くの零細企業がそうであるように、工場長の奥さんと、年配の、大御局の事務員一人とで事務を切り盛りしていた。「これからは車も売らなきゃならねえからよ、娘っ子一人増やすべ。」その大号令のもと採用された高卒の正江は、突出して若かった。しかし若いながらも正江は、しっかりと仕事をこなした。見たことも聞いたこともないような工場備品の受払を任されたが、男性工員の話をきちんとメモにとり、あっという間に知識を習得していった。近未来的とまでは行かなくとも改装され清潔感の増した受付には、結局のところ、いなかの親父が錆びの浮いた軽トラを修理に持ってくるのが関の山だったけれども、正江の若々しい受け答えとちょっと控えめな笑顔とで、時折、バッテリーやエンジンオイルなどの消耗品が追加注文されることもあった。だから工場長にも工員にもうけがよく、瞬く間に工場の妹的存在として、自分の位置を確立していった。一方で、それがもうひとりのベテラン事務員のねたみをかうこともなかった。正江は必ずベテランさんより早く出勤してお茶入れを率先したし、ゴミ当番や掃除など、雑務を出来うる限り引き受けた。高卒の女の子にしては、しっかりしすぎているように思えるほどだった。しかし正江が意識的に、もしくは打算的にそう振る舞っていたわけではない。正江がこの工場に就職したのは、商業高校の知識を生かせる事務であることと、実家から通えることが決め手だったのだが、正江の下には、まだこれからお金のかかる妹が三人控えているのだ、小遣稼ぎやお嫁に行くまでの腰掛といった就労などは一笑だった。正江の思いは、職場にとって自分が役に立たねばならない、その一念だった。誰かの役に立てばこそその一員たり得るといった、金銭欲とは異なる、誰かの役に立つことに対して労を惜しまない姿勢は、もはや正江の体質になっていたのかもしれない。

 いっぽう寿秋にとっては、正江が唯一の身近な若い女性だった。同年代というにはいささか年が離れていたが、限定的な村社会の枠の中では、そのめぐりあわせは必然的に色めくものだった。年齢的な要素だけでなく、次代のエースと、うら若き有能な事務員という組み合わせは誰もが納得できたし、そういった雰囲気が巡り巡って寿秋と正江を絡めていったのかもしれない。二人はお定まりの軌道を辿り、恋に落ちた。

 結婚を前提としたお付き合いが十分に幅を利かせていた時代だった。正江はひとつ条件を出した。婿養子になってほしいということだった。特別な理由などなかった。4人姉妹の長女で、家の跡を取るのは自分であると当然のこととして染みついていたからである。正江にとって恋と結婚とは、結びつく方が良いが、直結するものではなかった。いっぽう寿秋は良くも悪くも末っ子で、虎の威を借りたり、人の褌で相撲とることに、まるで頓着がなかった。「男たるもの」とか「一家の主」とかにも興味がなかった。名字が変わることで自分が変わるわけでもないし、結婚して家がもらえるならそれにこしたことはない、とすら思っていた。年も年だし、ここらで身を固めるのが最後のチャンスだとも思っていた。


 ある日正江は夢を語った。ごくありふれた夢だった。

「男の子がほしい。」

 それは三月の、季節すらまだうら若さを漂わせ、見上げた空の白と青の判別もつかぬほど淡い日曜日だった。


 その日、寿秋と正江は川べりの土手に並んで、お弁当を食べていた。他愛のないお弁当だ。卵焼きと沢庵とおにぎり。

 川のたわんだカーブの内側にぽつねんと桜の木がある。桜は満開に達しようとしており、二人は花見がてら、レジャーシートに並んで座り、お弁当を広げて、その桜の木の根元に寄り添っていた。

 その桜は、見る角度、もしくは見る人間の空間を平面化する切り取り方によっては、片田舎の物産館の隅に置いてあるような、時に見放された絵葉書程度に明媚だった(実際に絵葉書になっていた)。春の空は白のかすれが柔らかく、陽光の粒子はそこかしこに分散して留まり、優しげなソメイヨシノの薄さには小さな光の粒との親密がうかがえた。力強い桜の幹に、若鳥の産毛のような小さな花弁がまつわり、既成概念による儚さが一変するほどの厚みと奥行きと命のみずみずしさを見せる。なぜかそこに独立して生き続けてきた(数奇と形容してよいと思う)桜の孤独さの、重層的な年輪が、知らず知らず見るものにそう感じさせるのかもしれない、-コントラストのないシームレスな色調は、良くも悪くも最大公約数的な一般なサクラを感じさせるが、ただひとつ孤独なソメイヨシノが成立させている構図なのだ。それでも地元の人間がそこで桜をめでることは皆無だった。絵葉書になっていることすら知られていない。正江にしてもその絵葉書を見なかったらそこに桜の木があることすら気が付かなかったかもしれない。しかし桜の木は誰に見放されようが、もしくは見放される以前に、誰一人に気付かれまいがそこに根をおろし、あくことなく春を待ち続けてきたのだ。その単調な一年一年のうち、誰の目にも写らなかったり、写ったとしても留まらなかったり、通り過ぎる者を桜の木はなに憂うことなく通過させてきた。正江の前にその幹に触れた者はいつのことだったか、それは桜にも正江にもわからないし、誰が望む情報でもない。正江は桜と出会い、寿秋と出会い、三様の邂逅が成立する。

 寿秋は春の陽光を感じ、おにぎりをほおばりながら頭上の桜を見上げた。

 うまいおにぎりだった。なぜだろう、海苔をまいた塩味のおにぎり、ただそれだけのおにぎりをおいしく感じる。塩、NaCl…、なぜだろう、正江が握ったからか、恋か…、何を。春だからかもしれない。

 淡い春、目に沁みない程度の日の光、そして風のない日に見上げる桜。

 うまいおにぎりをほおばりながら、その桜に悲しみを思う。

 はかないものが春の季節風(花嵐)に佇み、勇壮に散り行くさまは潔く、空中を埋め尽くして舞う薄い桃色は重層さすらうかがえる。あるいは、濡れそぼつ雨に耐える桃色のひと塊が、岩のように感じられることもある。

 しかし、はかないものが満を持してスポットライトに照らされるのは、自己矛盾の果てに陥った悲しみを感じさせるのだ。

「男の子がほしいの。元気な男の子。」正江は、寿明がほおばったおにぎりをうれしく思いながら、そう言った。

「男の子が欲しい…」。寿秋は口の中だけで無意識に繰り返していた…、「元気な男の子。」

「そう、父ちゃんに自慢できるくらい元気な男の子。」正江は気恥ずかしさも見せず、続ける。

 未来が絡まりつつある、しかしそれは、寿秋にはあまりにも具体性を欠いていた。

「男の子、欲しい?」

 正江の問いに、寿秋はようやく意識を戻した。その夢が夢であるならば、結婚を意識した女の子が当然に思い描くであろう範疇のことと思えた。

「男の子、そうだね、男の子は元気でなくちゃね。」寿秋は同意の返事をした。

「わたし、頑張るね。」正江の若くふくよかな顔が、真面目に寿秋を捉えた。

 桜の花びらは、そよがぬ風にも、少しずつ地表へ舞っていた。静心のように、舞っていた。

「今日はいいね、風がないのが何よりいい。ここいらじゃ春何番かわからないけど、春になったらいつも土埃が舞い上がっているからな…。春に風がないのは、何よりだ。」寿明が言う。そして「赤ちゃん…」、と思いを巡らし、もう一度桜を見上げた。淡い春の日曜日、風も仕事もなく、隣には柔らかそうな女がいる。それが捉えられる現実だと、寿秋は思う。

「来年もまた来よう。」

 寿秋がそういうと、正江も桜を見上げた。

 空色と薄桃色が、靄のように発光した粒子を漂わせているようだった。

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