第2話 父と母、母の父

  長田正江が中学一年生の夏に、母親が他界した。

 胃癌だった。発見から死に至るまで半年とかからなかった。

 手術を試みたものの手の施しようがなく、開腹し、医師が落胆し、そのまま縫合された。

 結果的に、闘病の日々は短かった。母親に投与されるモルヒネの量は増加の一途をたどり、彼女の意識は悲壮なまでに混沌した。彼女は衰弱し、家族の呼びかけにも反応できない…。そして蝉の鳴きしきるある夏の日に、圧倒的な陽光に比しエアコンの効きすぎた病室で、彼女は絶命した。

 後に取り残されたのは、正江を筆頭に、十歳の次女、六歳の三女、秋には三歳になる末娘の四人の女の子と、彼女たちの父親、正二だった。

 次女以下の三人は、汗蒸す夏の日がな一日、悲しみの表層を彷徨した。冷めやらぬ母情を何かがそっと触れ過ぎるたびに、盛夏の夜の蛙のような号泣が連鎖した。幼く瑞々しい薄皮のすぐ下の、過敏な感受性の疼きだ。思考を介さない、ただ感情の反射だ。自我無き無個性の拡散だ。

 それらは正二を律し、持たざる者と持つ者の相容れない責め苦となった。

 正二は涙を流さなかった。戦争経験者である正二にとって、その手で、その目で、その肌で感じとってきた死が、踏み出せない感情のイカリとなっていたからだ。自負と負い目のまじりあった、重い重いイカリに。時と場所と理由は様々に、若かりし正二にとっての世界は、約束された死で充満していたのだ。正二は「妻だからといって、ひとつの死はひとつの死だし、命に比重はない」と自分に言い聞かせ、そのうえで「たくさん死んだじゃないか」とひとりごち、それは誰にも聞こえぬ口癖となった。しかし正二の周囲には常に、「理屈はどうあれ死んだのは私の妻だ、彼女らの母親であるがしかし私の妻なのだ。」という言葉にすれば当たり前のことが言葉にならない渦となり、娘に向けて、自分に向けて、濁流のように起伏していた。それにあらがうように正二は、自分に「命の比重」を言い聞かせ、そのうえで「たくさん死んだじゃないか」とひとりごちた。それでようやく四人の娘に対し気丈にふるまえた。

 二つの相反する文脈が正二に纏わったとして、それが正二に混迷を与えることはない。正二はそのどちらをも飲み込むことができた。不条理は解するから不条理であり、思いは常に流転と振り子を繰り返すのだから。

 正江はひとり、ただ泣いた。無自我と自我の狭間で、それは深々とした涙だった。泣きたくはなかった。泣くべきではないとも感じていた。でも涙は止められなかった。正二ほどの大人ではなく、号泣できる年代はとうに過ぎてしまっていたからかもしれない。十三歳だからそう思うのか、長女だからそう思うのか、そんな分析は、正江には不可能だったけれども(あるいは無意味と言ってもいいのかもしれない)、ただ悲しいと思うだけでは、自分はいけないような気はしていた。だから深々と泣いた。泣くという行為は何かの手段になりえる。それは正江の理解の範疇を超えて確からしさをもっていた。しかし正江の感情には確たる根拠もあてもないから、その代替たる涙は流れ出る以外に行き場はなかった。それは夏の夜に深々と流れたのだ。

 そんな風に悲しみが、ある家族を包み込む。それでも葬儀は、否応なく取進められた。

 しかし難しいことは何もなかった。

 近隣住民が年中行事のごとく押し寄せ、気が付けばすべての手配が整っていた。正二は言われるがままに整列し、移動し、字句を述べ立て、深々と礼を伝えた。坊さんがインドかぶれの呪文を唱えると、どこからともなく厳かな薄暗がりが下りてきて、これが葬儀であることを正二に教えてくれた。

 納棺、出棺、火葬。

 斎場でも係員が正二を導いた。炉に火が入る。焼き終わるまでには一時間以上の時間を要する、係員が正二にそう伝えた。そして、娘さん方と故人の御両親、御兄弟を親族用の控室へ案内した、ご主人も案内したいと続けた。しかし正二は愛想笑いを作って首を振った。「娘たちは四人で仲良くしているだろうか?末の娘をきちんと面倒みているだろうか?」そんな思いが空虚に意識をよぎったが、正二は、少し歩きたいと係員に告げ、その場を後にした。

 妻の消滅する時間は一時間と少し…。

 正二が外へと続く斎場の自動ドアをゆっくりと通り過ぎる。外気の湿気を帯びた熱風と、館内のエアコンに冷やされた乾いた空気が、正二の周囲で渦を巻いた。

 正二は、談笑したくない時間を、真夏の太陽のもとで過ごした。たばこを吸い、真夏の暑熱を浴びながら過ごした。喪服の黒は効率よく熱を吸収する。にじむ汗をハンカチでぬぐった。正江がアイロンをかけたハンカチだ。妻がアイロンをかけたハンカチと同じ匂いがした。同じ洗剤で洗って、同じアイロンで皴を伸ばしているのだから当たり前なのだろうと思った。それにしても暑い。

 満州の夏も暑かった。正二はアスファルトに力強く張り付いた自分の影を見つめた。「あいつも熱いのかな?死んでも熱くちゃ割に合わないよな。」正二は妻を思った。たばこの煙をゆっくりと吐き出す。あまりに強い陽光によって、たばこの煙はすぐに大気に同化した。妻の肉体も煙になっているはずだった。正二は、煙草の煙を見上げた視線を足元に下げ、「どこに行くんだ?」と自分の影に問いかけた。「まだ早いだろう?」影はじっとしている。正二も動けないでいる。太陽は正二を焼く。汗がにじみ、玉になり、顎から落ちる。アスファルトに小さな黒いしみを作るが、みるみる消滅した。白血球が異物を貪食するように。太陽はアスファルトも焼き付けている。「俺はあいつらのところに戻る…。」影に回答はないが、行動の示唆はあったように思う。正二は斎場の館内に戻っていった。


 葬儀の夜は、いかんともしがたい疲労感が家族に染み込むものだ。御斎を終えたちゃぶ台に肘をつき、正二は扇風機にあたっていた。喪服の上着を脱ぎ、ネクタイを外し、ワイシャツの胸を開けて風を送り込んでいた。ちゃぶ台にはコップに注がれた日本酒と、御斎の残り物がこじんまりと肩を寄せていた。正江が、正二の分だけを残してかたずけた後だった。下の三人はとうに寝静まっていた。いびきもなければ寝言もない、蛙の大合唱のごとき昼間の腫脹(しゅちょう)はどこへ行ってしまったのだろう。妻の煙は大気に紛れていった。彼女たちの涙も思考も、盛り上がりすぎたあぶくが、ひとつまたひとつはじけて収束するように、疲労と眠りの中で紛れて、しみいってしまえば良いと思う。明るいはずの明日のその明日には、彼女たちの未来が悲しくなければ良いと思う。正二は、襖の向こうの暗闇の、薄い布団の上に横たわる三体の女児が、安らかであることを願った。

 静けさは扇風機のモーターの唸りとともにあった。正江は正二の傍らで香典のあて名を整理していた。

「お疲れだったな…。」

 正二は正江に声をかけた。酔っている感覚ではなかった。頭の内側に、様々な塵芥をからめとりながら、古く固くなった綿を、詰めこまれているような圧迫感があった。それは極緩慢な疼きとなり、感じられた。疲れているのだろうと思う、だから正江に対しても慰労のための声をかけた。実際、正江はよく働いたのだ。本来いるべき正二の妻という立場を(妻がいなくなったので葬儀を行ったと思うと、奇妙な矛盾を感じたが)、今日一日見事に埋めて見せたのだ。まだ、中学一年生だというのに。

「別に今日やらなくてもいいんだぞ。」

「うん。」

「母ちゃんが入院してからこっち、気が休まらなかったろう。家のことも、あいつら(妹たち)のことも。」

「うん。」

 正江は手を休めなかった。手を休めたくなかったのだ。やるべきことをやらない自分に対して、言い知れぬ不安感を予期していたから。「立ち止まってはだめだ。いろいろなことが思い出になっちゃうまで、とにかく進むんだ。」それが今できる正江の処世術だった。正二はそんな娘を慮って、ちびちびと日本酒を啜りながら、また、気持ちの隙間に入り込もうとする妻の幻影をのらりくらりとすりぬけさせながら、時間を過ごしていた。夜が静まっても気温は下がらない。蛙の鳴き声が大きくなり、また沈む。その隙間に羽虫がさまよう。

 夜だけがその実態を深く深くしていく。

「父ちゃん。」正江の声、夜の分だけ響きの明瞭な声。

「うん?」しかし、正二の意識は拡散しきっていて、その不意な呼びかけは、鼓膜をすり抜けてしまっていた。

「私は、いつかそのうち、父ちゃんが再婚するの、いいと思うんだ。」

「うん。」

「男の子、ほしかったんでしょう?」

「…。」

「私たちは…、たぶん私は、それがいいんだと思うんだ。」正江は香典袋を大きな封筒にしまいながら続けた。

「私はもう寝るよ。父ちゃんも早く寝ないと。明日も誰か来るかもしれないよ。」

「そうだな。」

 何に対して同意したのか、そもそも同意の意なのかも分からないような曖昧さで、正二は答えた。そして正江は寝室へと消えていった。妹たちの待っている寝室だった。


 田中寿秋は北関東の農村の、農家の三男としてこの世に生を受けた。長兄とは十四歳離れており、次兄とも十二歳離れていた。

 両親は彼を「できちゃった三男」と評し、不意に(?)生れいずることになった最後の命を放任という名のもとに溺愛した。

 二人の兄は、兄弟として接するには年端のいかない彼に、適度で過ごしやすい距離をとるに終始した。例えば長兄は、農業高校を卒業すると同時に実家の農業を継いでいたので、寿秋のもっとも古い記憶ではもはや、父親とともに田畑で労働するいっぱしの男だったし、思い出せる最古の次男の姿をたどると、それは詰襟の制服で、おそらく高校生だったのだろう、いずれにしても寿秋が物心つくころには、二人とも遠い大人の存在であった。

 だから寿秋は、そういった大人たちに囲まれ、典型的な末っ子というよりはどちらかというと、とある事情をはらんだ一人っ子のように、それでも何に気兼ねすることなく自由に成長した。

 父親も母親も、寿秋に何を強いることもなかった。現実的にまるで野放しということはなかったろう。しかし極めて、寿秋には感じえないような距離をもって、網が張られていたのかもしれない、寿秋は自由の意味すら考えたことがないほどに、不自由を感じなかった。子の躾という意味において母親は少なからず小言をいったが、いつも最後は、長兄と次男に「あんたたちもしっかり面倒見なさい。」と言ったもので、寿秋としては、母を見て、兄を見て、母を見て…、そんな漠然とした緩やかさと希薄さを見上げながら成長していった。暖かな淡水の底で、見上げた水面を透過した淡い陽光が、静心無く降りしきるように。

 しかし実に母親の思惑通りに、寿秋は長兄の金魚の糞に化していった。寿秋は細かな作業が好きで、特に農業機械に興味を示した。農閑期に、父や長兄が農業機械を整備している傍らで、その作業をじっと見つめ、自分にも整備をやらせてほしいとせがんだ。父は危ないと言って触らせてくれなかったが、長兄はちょっとした分解や組み立てならと、寿秋にもその作業を分担させてくれた。農業機械は、トラクターやコンバインなどの超重量級のコワモテから手押し式の耕運機やテーラーや草刈り機などの足軽部隊まで居並び、その姿を眺めるだけでも、寿秋のまなこは虜となった。歴戦の戦士が次の出陣を待ちつつ、余念のない手入れを行う様を見るようであった。その中でも寿秋のお気に入りは、トラクターだった。ボンネットを開けるとそこにあるのは鉄の密集であり―エンジンが横たわり、ファンはいつもの高速を忘れたようにひそやかで―それはオーバーホールにふさわしい完遂感と、自重の重厚さとで、眠れる勇者を思わせた。そのトラクターのわきに張り付き、長兄はいとも簡単に部品を外し、次々とメンテナンスを行っていく。メンテナンスが終わった部品は逆の手順で元に戻され、また次の区画のメンテナンスが始まる。長兄の両手が鮮やかに部品を扱うさまが、寿秋の心には憧れだった。動悸し、欲した。そんな末の弟に、長兄は雑布と、比較的磨きやすい部品を与えた。寿秋の手に金属は冷たく重い。埃の吸着した油は、大人のにおいを発し、寿秋は埃にまみれた油をぬぐいながら、輝きを取り戻す金属の質感に言い知れぬ高揚を覚えた。

 長兄は喜ぶ末っ子の顔を見ながら、機械の細部、深部に至るまで、子細な説明を付け加えつつメンテナンスを手伝わせた。ひとつは自分の作業を軽減させたいという俗な欲求から、ひとつは寿秋の表情に少年らしい瑞々しさを感じたからだった。そして寿秋は、飽くことなく黙々と作業をこなした。その作業は真摯であり、注意深く丁寧で、機械の真意を汲み取っているようにも見えた。長兄にしてみれば、たかが機械にこだわりすぎだし、そのせいで思ったより時間が長引くこともあり、作業の軽減にはなったが、夜分まで幼い弟の面倒を見る羽目になるのでは、損得勘定が負に傾くようにも思えた。しかしその熱中ぶりは、そういった遅延や実質の労働増加を差し引いても、気持ちの良い印象を周囲に与えた。だから長兄は、幼い弟に文句を言うこともなかったし、どんなに低レベルな質問に対しても懇切丁寧に回答したし、夜が遅くなり弟が母親に叱責されるようなことがあると、百パーセント擁護した。そのようにして機械いじりの好きな少年「田中寿秋」は形成されていった。

 そんなある日、夜の納屋の裸電球の下で寿秋は、共に作業している長兄から結婚の話を聞いた。「トシも知っているだろう、もう何回かうちにご飯食べに来てるあの娘、あの娘と結婚するんだ。」「…」仲良くできるか?」「…」「まあ、仲良くしてくれよ、これから一緒に住むんだからさ。」「…」寿秋は作業の手を休めなかった。事態は何となく想像がついていた。想像した結果、自分にはあまり関係の無いことのように思えた。でもなんとなくちょっと心がさわがしく感じられた。無視しているのではない、わかりきったことだ、そう思い、長兄に対峙した。「それでな、ひとつだけ気をつけてほしいんだけど…、風呂だけはな、間違えないでほしいんだ。」寿秋は作業の手を止めた。「いくら義理の姉と言っても他人だし、まあ、年頃の女の子だし。それにお前もこれからいっぱしの男になっていくしな。」「気を付けるよ。」寿秋の頬はひきつり、長兄の目は柔和になった。見たことの無い顔だった。「まあ、あいつもうちの事情を分かって嫁に来るんだから自分でも気を付けるとは思うんだけど、でもな、よろしく頼むわ。」裸電球の周りでは、何匹かの蚊が微かな羽音をたてながら人肌を狙っていた。家の周囲の稲は青々と茂っている。蛙の大合唱の合間に訪れた夏夜の静けさだった。蛙は蚊を捕食するという。人の血が蚊にすわれ、蚊は蛙に食べられる。あんなに小さな蛙が寄り集まると、その声は夏夜の音として耳に染み付く。それは闇の鳴き声だ、カエルの鳴き声の裏ではいったい何が起こるのだろう、蛙は益虫だというが…。そよと動く大気が水分を感じさせるほどたっぷりと湿気に満ちた真夏の夜、寿秋は夜の間に稲がみるみる成長し、まるで自分が蛙ほどの存在になってしまうような想像に取りつかれた。寿秋十歳のことだった。

 長兄が結婚する少し前に次男が家を出た。自分の慣れ親しんだ家族が一人いなくなり、その代り、知らないお姉さんが「家族」となる。寿秋はそう考えて、そこで考えるのをやめた。「自分の現実を見わたして何かが変わったろうか。いや、特筆すべき変化は何もない」、寿秋はそう感じていたし、そう感じるのは自分であるという自覚もあった、実生活という点においては。

 寿秋は今迄通りに朝ご飯を食べ、小学校に登校した。朝ご飯のメニューが幾分洋風になり、「行ってらっしゃい」の声音がだいぶ若返った。風呂は気を遣った。寿秋は、入浴者の名札を脱衣所のドアにぶら下げることを提案し、その名札を作成した。きっちりとした明朝体を彫刻刀で掘り、紙やすりで滑らかに加工したのちに、つや消しの黒インクを流した。そして最後にまた紙やすりで仕上げた。まるで将棋の駒のような、しかしやはり小学生の作り物だとわかるようなその名札を、義姉は喜んだ。寿秋の知るどんな女性の笑顔とも違っていた。寿秋もうれしかった。

 その二年後には長兄に息子が生まれ、寿秋にしてみれば小学生にして叔父となったのだが、十二歳離れた甥に対して、寿秋は取るべき立場を見つけられなかった。叔父として接するには寿秋は子供すぎたし、弟のように接するには年が離れすぎていた。寿秋は結局、二人の兄が自分に接したように、年端のいかない甥に対して、適度で過ごしやすい距離をとるに終始した。経験上、それが最もしっくりいったのだ。

 両親は、長兄が結婚したころから気持ちが穏やかになり、実質の隠居をきめこんでいた。土間と、土間に据え付けられていた竈と炊事場を、キッチンと両親の部屋に改修した。かつて蚕を飼育していて、今は作業場として使用している納屋の二階を、寿秋の部屋に改修した。

 次第に寿明は、食事と風呂とトイレ以外を自室で過ごすようになり、田中家の一員としては比較的帰属の薄い存在となっていった。

 寿秋にしてみれば、両親は自分を手放しており、血縁上の兄は、対等な兄弟というよりは保護者的な立ち位置を貫いており、弟分的な甥ははるか下界の存在に思えた。

 そのような家庭環境の中で寿秋は、学校に友達はいるものの何かしらそりが合わず(一人っ子でない割には兄達との共有時間が極端に少なく、末っ子の割には幼い甥っ子の面倒を見ていたためか)、鉄屑やはんだごてに対しての方がより愛着を感じていた。少年期や青年期に特有の語るべき諸問題があったとしても、それを語るべき相手は友人ではなかった。寿秋はトラクターやコンバインに内在されていた魅惑を、組み合わされることのなかった歯車などに、次々と注入していった。竹とんぼに輪ゴムを連結させ、ヘリコプターを作った。自動車の模型にモーターを乗せ、ギアを組み込んだ。家族にガラクタと揶揄されたそれらの銘品が、語られるべき寿秋の諸問題を語っていたのだろう。

 そんなふうにして寿秋が中学三年生になったある日、晩酌をしながら巨人戦のナイターを見ていた父親が口を開いた。

「大学に行ってもいいんだぞ。」

「うん?」寿秋は、その唐突すぎる会話に不意をつかれ、思考が途切れた。

「うちにも、お前を大学に行かせるくらいの余裕があるってことだ。どうだ?来年は高校受験だろう?もし大学行くようなら普通科の高校に行ったほうが良い、まあ考えてみろ。」

「うん。」途切れた思考は回答を導き出せなかった。寿秋はあいまいに返事をして、ナイター中継のテレビ画面から視線を外さず、じっとしていた。父親は晩酌を終えると、「おやすみ」とだけ言って寝室へと去っていった。

 しかし寿秋には、大学へ進学してまで勉強をする気持ちはなかった。寿秋は工業高校に進学した。寿秋の内奥には「おれが好きなのは、この手が触れることのできる鉄の密集なんどろう」という自問が浮沈していた。彼が必要としていたのは、机上の理論ではなく、実に、自らが神の手となった、工程の凝縮した分身だったのだ。

 それに対して父親が言った「お前の人生だ、しっかり頑張れ。」と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る