第60話 罰を受ける 2

翌朝、マルは重い体を起こした。緊張の余り、一晩中寝付くことが出来なかった。シンの声が聞こえない中、手早く身支度をした。そして教室に向かった。

 生徒達がみな揃ってもシンの席が空いているのに気付いたアジェンナ人のクラスメイトがそっと尋ねた。

「タオ・シンはどうした? 腹でも壊したか? あいつ、体だけは丈夫そうに見えたけどな」

「いや、ちょっと……」

 マルが言いかけた時、教室の扉が開き教官が入って来た。始業の鐘が鳴る前で、しかもこれから始まる数学の先生ではなく、生徒指導で歴史担当のゴウ先生だったため、生徒達は驚いて口をつぐんだ。教室全体に緊張が走った。

(来たな!)

 教官は、大きな体を揺らしつつ教壇に上がり、生徒を睥睨した。天井の方の空気がグーッと下に落ちて行くかのようだった。生徒達の頭も自然に下がって行く。ゴウ先生は教室全体を見渡し、そして最後にマルの顔に視線を向けた。マル相手の顔を見返した。膝の上で組んだ手が激しく踊っていた。

「ハン・マレン! 前に出なさい!」

「はい」

 マルは立ち上がり、前に進み出た。

「お前は、神聖なカサン帝国に忠誠を誓った生徒が決して所持してはいけない物を持っていた。分かるな」

「はい」

 マルは、クラスの皆が驚き、目を見張り、自分の方を見るのが分かった。

(おらはシンとは違い、従順でもめ事を起こさない生徒だと思われている。でも、本当は違うんだ)

「誰に渡された。言ってみなさい」

(ゴウ先生はきっとおとなしいおらが誰かに本を押し付けられたと思ってる)

マルの視線の隅に、モク・イアンの姿がチラリと映った。マルを見ながら笑っているようにも見えた。

(君は怖くないの? おら、今、ここで教官に君の名を言うかもしれないのに)

 マルは一度キュッと唇を引き結び、そして言った。

「誰に渡されたのでもありません。街に出た時、自分で買いました」

教室中が、声にならないどよめきで揺れるのが分かった。

「ピッポニアの本を読む事がどういう事か分かってるのか!」

「はい、でもどうしても読んでみたいという思いにかられました」

「お前は読んだのか」

「はい」

 いきなりげんこつが飛んで来て、マルの体は激しく床に倒れた。こんな風に殴られるのは教練の時間に続いて二度目だった。それ以外は殴られたことがない。教官に決して逆らう事のない控えめで従順な生徒のように振る舞ってきたから。しかしこの瞬間、マルの内側で何かがプツンと切れる音がした。

(そうだ、おらは決して良い子なんかじゃない。こんな事許せない、絶対許さない。ヒサリ先生ならこんな事しない……!)

「このねずみ顔のチビめ! いくら成績が良くてもお前の体には腐ったピッポニアの血が流れている!」

 床に転がったまま脇腹に蹴りを入れられ、マルは思わずうめき声を上げた。

「先生、止めてください。先生の今言っている事も行いもカサン帝国の精神からかけ離れています」

(ああ、あれはタク・チセンの声だ……)

 マルはぼんやりと思った。あの、どんな時でも憎らしい程落ち付き払った同級生の声。

「カサン帝国人とは誰を指すのか。それは血ではありません。カサン帝国とは、カサン帝国精神を共有する人と地域の集合体です。その点で、ハン・マレンはカサン帝国精神をよく勉強している、立派なカサン帝国人と言えるのではないでしょうか」

(タク・チセン、どうして君はそんな事を……本当はそんな事思っちゃいないくせに……)

 マルは朦朧とする意識の中で思った。

「それに、彼がピッポニア人の本に興味を持ち、本を買い求めた事は全く正しいと思います。思想家のヘン・インは『闘争論』の中で述べているではありませんか。『敵の攻略のために最も必要な事は敵を知る事である』と。ですからハン・マレンがピッポニアの本を読んだという事は、敵の考え方を知るという意味で正しい事だと思われます」

「生意気な! 口答えする気か!」

 ゴウ先生はドシドシと詰め寄り、タク・チセンを平手打ちしたが、彼の頑丈な体はビクともしなかった。タク・チセンの岩のような体から冷静な言葉が滲み出る。

「もし私の言う事が間違っていたらどこがどうおかしいのか説明を求めます」

「お前らはガキだ! ヘン・インだの闘争論だのを持ち出して屁理屈を並べるのはまだ早い!」

「それなら我々がいくつになったら認められるのですか? 大人になれば許されるのですか? 今、街に出てピッポニアの本を探し出すのは容易ではありません。カサン帝国政府がピッポニアの本を読む事を禁じているからです。しかし、敵を知らずして敵と戦う事が出来るでしょうか」

「その言葉は聞き捨てならん! カサン帝国政府に逆らうつもりか! それは革命思想に当たるぞ! 退学処分ものだ!」

 マルはどうにか床から上半身を起こした。

(どうかやめて! もうそれ以上、先生に盾突くのはやめて! おらはそんな事望んでない……)

マルの目には、タク・チセンが嵐のように興奮している教官を前にびくともしない山のように見えた。。

「国家が間違った方向に進んでいたらこれを正す、それが将来国家を支える我々の使命ではないのですか」

「ええい! 二人共今すぐ教室を出ろ!」

 タク・チセンはなぜだ、というように一度首をひねり、背中を揺らしながらゆっくり戸口へ向かった。

「チビ! お前もだ! お前らはすぐに教務課へ行け! お前ら、ただじゃすまんぞ!」

 マルは立ち上がり、タク・チセンの背中を追って教室の外に出た。マルは必死に足を動かしてタク・チセンに追いつき、声をかけた。

「ごめん! おらのせいで君までこんなとばっちり受けて!」

「別に俺は君のために何かをしたつもりなどない」

 タク・チセンは相変わらず表情を変えずに言った。しかしマルははっきりと感じた。彼は冷たい感情の無い人間ではない。彼の信念も魂もとてつもなく熱いのだと。

「退学になるのかな」

「それは分からん。上が決める事だ」、

「おらは本当はこんな所に来るべきじゃなかったと思ってる。だから退学処分になってもしょうがない。でも、君がそんな事になったら……」 

「それはそうだ。俺の父は下級役人で、我が家は決して裕福ではない。家族は俺の出世だけをあてにしている」

 マルはそれを聞くとただただ申し訳なく、それ以上一言も口をきく事が出来ないままタク・チセンの広い背中について歩いた。。

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