第23話

 匂い起こせよ梅の花主無しとて春な忘れそ。さて、この歌の冒頭は何だっけ。


 私は朝からそれが引っかかって気になったまま、仕事にうつつを抜かしていた。年度末が近付き、何となく気ぜわしい。だからこそ、平常心で、心半分ここに在らずの状態を保たねばなるまい。サラリーマンたるもの、業務量だけに振り回されて我を忘れるようではまだまだ半人前である。


 正午の鐘が鳴り、私は即座に弁当を持って立ち上がった。我が家の身の丈四尺のネコ、メニョが作ってくれた愛猫弁当だ。今日はお天気が良いから、メニョのように日向ぼっこをしながらメニョ弁を食べることにしよう。


 私は会社の隣にある公園に出向いた。梅の花がちらほら咲いている。いいかほり。


 さて、今日の弁当は何かな。ぱかっと開けると、まず目に飛び込むのは、おかかごはん。それから、おかかごはん。…何たることだ。いちめんのおかかごはん、いちめんのおかかごはんではないか。日の丸弁当も顔負けだぜ。


 しょうがない。こんな時は、おかずは目から楽しもう。なに、私は桜の花びら一枚あれば花見酒ができる玄人だ。これだけ外界に彩があれば、弁当が単色でも問題ない。


「あれ、沢田さんじゃないですか。今日は外ですか。」


 ネコまんまを口に放り込んだところで、隣の同僚の声が聞こえた。折角の楽しい独りランチなのに、何故お前がここに。まあ、そこのコンビニで昼食を仕入れたところだろうが。昼休みくらい、放っておいてくれないものか。


「今日のお弁当は…。えーと、これ上げますから、給料日までファイトですよ。」


そう言って、同僚はブルガリアヨーグルト梅味を私に押し付けて去っていった。どういう意味だ。これでは梅×梅ではないか。沢田改め、梅田になるか。画数が増えるから却下だ。


 まあ、何でもいいや。私は再びネコまんま弁当に取り組んだ。うん、おいちい。


 と、私の足をぬるぬると撫でる気配がある。メニョに似ているけど、頼りない。私は足元に目を向けた。灰色のネコと目が合った。


 メニョと比べると、随分小さいネコだ。仔猫か。しかし、腹が膨らんでいるから、妊婦ではないのか。仔猫から仔猫が生まれてしまうと、マトリョーシカみたいにどんどん縮んでいくのではないか。こいつはそうやって縮んだ結果なのか。


「ひはあ」


私の思考を遮るように、ハスキーボイスで鳴く。生憎と、私はネコ語を解さないので、何を言っているかは分からない。が、何となく、ネコまんまが欲しいのではないかと予想される。だって、ネコだもの。


 野生生物に餌を与えてはいけない。そんなことは常識である。が、胎内に生命を宿した母ネコに見つめられたら、私も生命の神秘の一端を担いたくなるというものではないか。哺乳類の一員たるもの、逃れようのない衝動だ。


 私は思い悩み、呻吟し、梅を見るのも忘れてネコまんまをむさぼり続けた。その間もずっと澄んだ瞳が私を見つめる。


 とうとう、私は敗北した。最後の一口に至るまで一度も目を逸らさなかったその努力に報いねばならない。私は残った一口を弁当の蓋に載せて、差し出した。醤油が掛かっていないゾーンだ。ネコでも安心。


 灰色ネコはくんくんと匂いを嗅ぐと、ぱくっとネコまんまを口に入れた。にゃむにゃむ数回だけ噛んで、ごくり。再度弁当の蓋を嗅いで、物がないことを確かめると、スーッと茂みの奥へ消えていった。


 メニョだったらナデナデさせてくれるのにな。ちぇっ、愛想が無い。


 私は会社に戻り、弁当箱を洗い、午後も心半分で仕事に臨んだ。終業の鐘が鳴り、私はいつものように定時で立ち上がった。そこでふと、忙しそうにバタバタしている同僚が目に入る。


「帰っちゃうんですね、沢田さん。寂しいから、もうちょっと相手してくださいよ。」

「…それだ、それ。」


 私は同僚の顔を見て、急に閃いた。そうだ。おおこうち、こうち、こち。こちふかば。東風吹かばにほひをこせよ梅の花。


「何ですか、急に。」

「大河内さんのおかげでスッキリしました。では、お先に失礼します。」


 不思議そうな顔をしている同僚を置いて、私は社を出た。たまには同僚が私事で役に立つこともある。


 そう言えば、凡河内躬恒、なんて奴もいたな。どんな歌だったかな。ああ、白菊のあれか。花折るなよな。


 私はとりとめもないことを考えながら、家に帰った。


「ただいまー。」

「にゃー」


がらりと引き戸を開けると、玄関でメニョのお出迎え。うむ、実に可愛い。


 メニョはすーっと私の足元にやってきた。ぬるり、と脛に身体を擦り付けようとして、ふと立ち止まる。くんくん、と何か嗅いでいる。


「えー、そんなに足臭いかな。冬はマシだと思うけど。」

「んー」


 私は家に上がって、靴下を脱いだ。いつもは冬は風呂の時まで履きっぱなしなのだが、帰宅して早々臭いと言われちゃ、いい大人としては何とかせねばなるまい。ついでに、着替える前に足だけ洗ってしまう。


「これで良かろう。」

「んー」


 メニョはまだフンフン嗅いでいる。何だろう。まだ臭いかな。私は硬い身体にムチ打って足を嗅いでみたが、ヒトの嗅覚では石鹸の香りがするだけだ。


 そこで漸く、私は昼間の灰色ネコを思い出した。あの時に塗りこめられた匂いがズボンに残っているのかもしれない。


「何だ。メニョ、嫉妬か。私が他のネコにぬりぬりされたから。」

「にゃ?」

「もう、可愛い奴め。心配しなくても、メニョが一番に決まっているじゃないか。」


私はメニョを両腕で抱きかかえてもふもふした。メニョは暫くゴロゴロ言っていたが、すぐにまたふんふん鼻をうごめかせる。


 メニョはぐいっと私を押しやった。何だ何だ。冷たい奴め。


 と思っていたら、メニョは私のズボンのポケットに右前足を突っ込んだ。くすぐったい。ごにょごにょしていたかと思うと、メニョは何かを引きずり出した。半分干からびたおかかごはんの塊である。灰色ネコに気を取られて食べているうちに、ぽろりとやらかしたらしい。


「すまんすまん、こぼしちゃってたか。…あ、食べるなよ、そんなのー。」

「にゃむ」


舌なめずり。


 まあ、おなかが空く時間だもんな。しょうがない。さっさと着替えて、ご飯にしよう。今日のメニョごはんは何かな。あ、そうだ。お酒は梅酒にしよっと。

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