第312話:サリエシェルナの魂

 エレニディールの魂は幽星界ゆうせいかい最下層まで辿たどり着いていた。


 眼前には異様な魂のかたまりが幾つも浮遊している。ここまでの道程どうていで見たこともない、醜悪しゅうあくとも形容できるいびつさだ。


 負の感情が禁忌きんきとされる幽星界において、あからさまにそれを無造作に垂れ流している。


 ここは危険な特殊界層、その中でも最下層に位置づけられた浸潤限界界層バグノディズと呼ばれる場所だ。


 垂れ流された負の感情は一定領域内で押しとどめらている。エレニディールが推測するに、何らかの結界によってき止められているようだった。


≪その方、これがえておるのか≫


 魂は視えずとも、感情の波が伝わってくる。とりわけ警戒心が強く感じられる。


浸潤限界界層バグノディズでは、界層主であろうと魂の具現化は危険と隣り合わせだ。今、その方の魂はき出しだ。とらわれる前に隠すがよい≫


 負の感情は、他の魂を容易たやすつかまえる。正と負はもともと引かれ合うものだ。一方の感情が強まれば強まるほど、もう一方も影響を受けやすい。


≪なぜ、それらの魂は結界で遮断しゃだんされているのでしょうか≫


 界層主かいそうしゅ悲哀ひあいに満ちた感情がただよってくる。


≪魂の姿がその方にも視えているであろう。醜悪なまでの歪な理由が分かるか≫


 エレニディールに分かるはずもない。ただ想像であればできる。


浸潤限界界層バグノディズとは、すなわち魂の墓場、あれらの魂は崩壊の一途いっと辿ただっているのだ≫


 想像は正しかった。崩壊し続けている魂は、最大限の負の感情をさらけ出しているのだ。幽星界維持のためにも、それらを結界外へ出すわけにはいかない。


≪崩壊の果て、魂は無にす。そして、この地で永遠とわの眠りにつくのだ≫


 時間の感覚はない。残された猶予ゆうよわずかばかりだろう。エレニディールにはそれが感じ取れる。


 ここに至るまで、いくら探そうともサリエシェルナの魂は見つけられなかった。もはや、可能性があるとすれば浸潤限界界層バグノディズしかない。


≪私の探し求めている魂も、ここにあるというのですね≫


 自身の考えに間違いはないだろう。同時に愕然がくぜんとしてしまう。ジリニエイユに囚われて以来、いったいどれほどの時が経つのか。


 しかも、もっと上界層ではなく、何故なにゆえ浸潤限界界層バグノディズに止め置かれているのか。


 エレニディールの思考をさえぎるように、界層主の感情が流れ込んでくる。


≪とりわけ歪で、既に崩壊が始まっている魂が一つだけある。その方の探し求めているものであろう≫


 界層主の感情が波となって、覚悟を決めろと告げてきている。覚悟なら最初から決まっている。そのためにここまで来ているのだ。恐怖心がないわけではない。


≪結界内に入ります≫


 エレニディールの魂の鮮烈せんれつさに界層主はしばらくぶりの爽快感そうかいかんを味わっている。


≪全ての魂が、その方のごときものであればな。よかろう。そなたの魂の大きさだけ結界を解除する≫


 界層主がえざる魂で結界に触れる。エレニディールには火花が散ったように感じられた。魂一つ分だけの隙間すきまが静かに開かれる。


≪己を強くたもて。決してまれるでないぞ。心して進むがよい≫


 礼を述べたエレニディールの魂が隙間をすり抜けていく。


 エレニディールの魂が完全に結界内へと入ったと同時、隙間は再び閉じられ、あふれ出さんと突進してきていた魂たちは一様に弾き返されていた。


 憤怒ふんぬに満ちた叫びが、エレニディールの魂を激しく揺さぶってくる。


(すさまじいばかりですね。呑まれたら一瞬にして終わりです)


 結界内に入ったことを幾ばくか後悔するエレニディールだった。


 圧倒的な負の感情で支配されている。


 崩壊していく魂の数々が怨嗟えんさの感情をき出しにして、直接他の魂にぶつけている。こうでもしないとえられないのだろう。


 浸潤限界界層バグノディズまで落ちてきた要因は様々だ。


 肉体のごうを背負わされたもの、魂そのものが負の感情で支配されているものなど、多岐たきにわたる。


 そして、最大の禁忌きんきとも言われるのが魔術による肉体と魂の強制分離によるものだ。まさしく、サリエシェルナがこれに該当する。


(急がねばなりません。しかし、この中からいったいどうやって見つけ出せば)


≪若き清らかな魂よ、強き願いこそが力となる≫


 負の感情で満ちあふれた場で、正の感情を明確に保つのは難しい。ややもすれば呑まれそうになる。その方が楽だからだ。エレニディールも楽になる方向に流されつつあった。それをとどめてくれたのは、最初に触れ合った魂からの助言だ。


≪そうでした。ここで流されるわけにはいかないのです≫


 まだぬサリエシェルナの魂に呼びかける。切なる願いをめて。


≪サリエシェルナ、貴女を迎えに来ました。私の声に反応してください≫


 エレニディールの正の感情が強烈な輝きとなって浸潤限界界層バグノディズを染め上げていく。


 怨嗟えんさ憤怒ふんぬを吐き出している無数の魂は、対極たる正の感情をまともに浴び、次々と消失していく。


 完全に消滅したわけではない。負の感情が抑制よくせいされ、一時的に崩壊が止まったに過ぎない。やがて時が過ぎれば崩壊が再開するだろう。


≪一時しのぎにしかすぎません。わずかばかりでも苦痛をやわらげてください≫


 エレニディールの心からの想いが柔らかな光となって浸潤限界界層バグノディズを包んでいく。喧騒けんそうのごとく吐き出されていた怨嗟と憤怒の感情は、なぎのごとくしずまっていった。


≪若き清らかな魂よ、感謝する。もはやこの地に残る魂はただ一つだ≫


 伝わってくるのは歓喜の感情だ。


 幽星界における魂は、あるがままの姿で存在しうる。殊更ことさらに魂を清めたり、鎮めたりするような意図的な行為は断じて認められていない。それが第二のことわりだからだ。


 厳密に言うなら、エレニディールの行動は第二の理を破るものだ。ナダラレアムは界主としてエレニディールを罰せねばならない。


(その必要はなかろう。我が、そして友が認めた魂なればこそ)


 エレニディールの魂のもとにようやく反応が返ってくる。


≪貴男は誰ですか。サリエシェルナ、それが私の名なのですか≫


 弱々しい感情だ。おぼろげに流れてくる。


 魂が肉体と強制分離された時点で、それまでの記憶は洗われてしまっている。自分の名を忘れていたとしても何ら不思議ではない。


≪私はエレニディール、貴女とは血縁けつえん関係にあるようです。そして、貴女の名はサリエシェルナ、古代エルフ王国王族の血を受けぐ存在でもあります≫


 サリエシェルナの魂は、もはや思考自体を放棄しているようにもえる。分離直前に精神干渉魔術でも行使されたのか、反応が極めてうすい。まるで無関心の感情しか伝わってこない。


 エレニディールの魂がサリエシェルナの魂に近づいていく。


≪こちらに来てはいけません。すぐに立ち去ってください≫


 明らかに拒絶きょぜつの感情が載せられている。


≪貴男が私の血縁に当たるというのでしたら、今の私の状態が視えるはずです≫


 エレニディールは感情の目をらし、サリエシェルナの魂をつぶさに観察する。


≪まさか、これは≫


 サリエシェルナの魂を鎖状さじょうのものがからめ取っている。強固なまでに縛りつけているそれは魔術による創造生物、魂喰縛鎖リジェレメだった。


 魂の表面を覆い尽くし、時間をかけて食らう魔術創造生物は、一度りついたら魂を食い尽くすまで決して引きがすことができない。


 無理矢理引き剥がそうとすれば、憑りついた魂を完全に破壊し尽くし、そして自壊じかいする厄介な生物なのだ。


≪ジリニエイユ、ここまでするのですか。許しがた所業しょぎょうです≫


 怒りで魂そのものがえ立つ。エレニディールは即座に魂喰縛鎖リジェレメを破壊すべく、魔術行使に及ぼうとした。魔術創造生物を滅するには、こちらも魔術を用いるしかない。


 そこではたと気づく。魂だけの状態で魔術行使などできるはずもない。しかも、ここは幽星界だ。肉体を有する主物質界とは訳が違う。


(どうすればよいのです。サリエシェルナの魂を眼前にしながら、今の私は何もできません。あまりに無力です)


≪ここまで来てくれただけでも嬉しかったですよ。私はここで終わります。既に感情も薄れてきています。まもなく消えて、なくなってしまうのでしょうね≫


 どうしてそのようなことを平然とした感情で言えるのだ。エレニディールは心の底からわめき立てたかった。たとえ、それが何の意味を持たないとしてもだ。


≪サリエシェルナ、私は貴女を救い出すと決めたのです。今の私は無力かもしれません。ですが、私には心から信頼を寄せる友がいます。その友にもちかったのです。あきめるわけにはいかないのです≫


 エレニディールの魂がふるえている。周囲にきらめきを散らしながら、震えは次第に強くなっていく。


 震えが頂点に達したその時、エレニディールの魂は再び八色の光、すなわち根元色パラセヌエに包まれていた。

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