第281話:覚醒と感謝と邂逅と

「さあ、目覚めのときですよ」


 収束した純白の光が温かさを増し、ラナージットの中へと吸い込まれていく。光が消え去るとともに、ラナージットの両の瞳がゆっくりと開いた。


 意識は即座に覚醒かくせいを迎える。ラナージットは置かれている状況を察したのだろう。わずかにみを浮かべるものの、いかにもぎこちなく、恥ずかしげだ。


「ラナージット嬢、私が分かりますか」


 問われたラナージットが控えめに言葉を返してくる。


「はい、あの時来てくださった賢者様ですね」


 あえて訂正はしない。


「立てますか」


 小さく首を縦に振る仕草がはかなげで、思わず庇護欲ひごよくき立てられてしまう。パレデュカルもそうだったのだろうか。


 オントワーヌは無意識化でパレデュカルを横目にとらえつつ、咳払せきばらいを一つすると、横抱きにしていたラナージットを足元からゆっくりと大地に下ろした。


 ふらつくラナージットの背に右手を静かに添える。


「あ、有り難うございます」


 声がふるえがちなのは緊張のせいか。ここでラナージットに万が一のことでもあれば、示しがつかない。オントワーヌがラナージットのそばを離れないのは用心のためでもある。


 大地を踏みしめているラナージットは、周囲の様子が全く理解できていない。どこかも分からない。戸惑いを隠せないまま、しきりに視線を動かしている。


 それがある一点で見事に止まった。自然と言葉がこぼれる。


「お母さん、お父さん」


 トゥルデューロとプルシェヴィア同様、ラナージットもまた信じられない想いだった。よもやここで最愛の両親に会えるなど、想像もしていなかった。


「貴女の両親が待っています。行きなさい。ゆっくりとですよ」


 オントワーヌの方に振り返る。


 優しくうなづく。それを見たラナージットは前を向くと、はじかれたかのようにけ出していた。一目散いちもくさんに両親のもとを目指す。


 待ち構えるトゥルデューロとプルシェヴィア、駆けるラナージット、いずれもが永遠に距離が埋まらないのではと思えるほどにときの歩みは遅く、実感となって襲ってくる。


 目の前にいる両親にまだ手が届かない。ラナージットの脳裏を様々な想いが駆け抜けていく。連れ去られてから、いったいどれぐらいの歳月が過ぎ去っただろう。


 パレデュカルに救い出されるまで、何一つとしてよいことなどなかった。そこには絶望しかなかった。光などどこにもない。全てが閉ざされた闇の中だった。


 それがなおも続くのか。どこまで苦しめばよいのか。


 必死に手を伸ばす。まばたきすれば消えてしまいそうなほどの極小の光明こうみょうに向かって。もっと先へ、さらにその先へ、手を、指先を伸ばす。


 何かに触れた。刹那せつな、あれほど分厚ぶあつくのしかかっていた闇が一気にかれ、まばゆいばかりの光が広がった。


「ラナージット、ああ、私たちの可愛い娘」


 いつしかラナージットはプルシェヴィアのもとに辿たどり着いていた。


 二度と離すまい。プルシェヴィアは娘ラナージットを強く抱き締め、母の胸の中に飛び込んだラナージットは力の限りにしがみつく。


「お母さん、お母さん」


 やはり最初は母親だよな。父の胸には飛び込んできてくれないよな、という一抹いちまつさびしさを胸に仕舞しまいつつ、トゥルデューロは両腕を大きく回して二人を包み込んでいった。


 泣きじゃくるラナージットの背を優しくでる。


「ラナージット、お帰り。俺たちの可愛い娘ラナージット、その顔をよく見せておくれ」


 パレデュカルに助けられて以来、両親と再会することだけを夢見て、ひたすら生き抜いてきた。絶え間なく襲い来る絶望と恐怖に何度も死にたくなったことさえある。


 それでも、その都度パレデュカルが優しく見守ってくれた。励ましてくれた。それがなければとうの昔に精神が崩壊していただろう。


 その後もヴェレージャ、ディリニッツ、レスティー、そしてオントワーヌと、何もできない、取るに足らない自分のために多くの人が力を貸し与えてくれた。


 ラナージットはまさに実感している。どれほど多くの人に支えられ、今の自分が存在しているのかということを。だからこそ、この命は決して無駄にできない。命が続く限り、自分のできる精一杯のことをやり遂げる。


 涙にれた顔をゆっくり上げる。トゥルデューロとラナージット、二人の視線がゆるやかにまじわる。


 反応は対照的だ。トゥルデューロは娘の表情が変わっていることにいささかの衝撃を受け、またラナージットは父の目が全く変わっていないことに安堵あんどしている。


(くっ、この長かった歳月をどう取り戻せばいいんだ。あんなにもあどけなかった娘の表情が、少女を通り越して大人に近づいているとは。ああ、娘をでるという俺の青春を今すぐ返せと声を大にして言いたい)


 いったい誰に向けての叫びなのか。そして、そんなトゥルデューロが考えていることなど、プルシェヴィアには全てお見通しだ。すかさず鋭い右肘みぎひじがトゥルデューロの脇腹を直撃する。


 困惑からの苦悶くもんへと、まるで百面相のように変わっていく父の表情を不思議そうに眺めつつも、何となく察したラナージットは見上げまま言葉をつむいだ。


「お父さん、ただいま。私、帰って来たよ」


 トゥルデューロの顔が完璧にけた。射貫いぬかれた。足の先から頭の先まで、それはもう見事なまでに。


 この状況下、全く似つかわしくもない、にやけた表情を浮かべたトゥルデューロをプルシェヴィアがあきまなこで見つめる。彼女の右肘がいっそう食い込み、おまけにじり込まれたのは言うまでもないだろう。


 もだえ苦しむトゥルデューロを放置とばかりに、プルシェヴィアは今一度ラナージットを抱き締め、それからおもむろに離した。母と娘、その視線は優しくまじわり、愛に包まれている。


「お帰りさない、ラナージット」


 最大の笑みをもってラナージットが答える。


「うん、お母さん、ただいま」


 互いに抱き締め合う母娘の前に男の出番はない。その様子をオントワーヌは感慨深げに、もう一人の男、パレデュカルは複雑な想いと表情をかかえながら見つめていた。


(ラナージット、よかったな。ああ、これでよかったんだ。人質にまで取った俺が外道げどうに落ちずに済んだ。だから、オントワーヌ、お前には感謝しかない)


 その想いはオントワーヌにも伝わっている。パレデュカルの心情はあまりに複雑怪奇すぎて、常人では理解し難い。恐らく、今のパレデュカルの状態ならば、間近で過ごしていて分からないだろう。


 そんな中、唯一知り得る部分がある。彼は本来情け深い男なのだ。


 サリエシェルナ、親友トゥルデューロの娘ラナージットを単身救出に向かったことしかり、シュリシェヒリ内での行動然り、キィリイェーロやトゥルデューロたちをあえて戦線から離脱させようとした行動然りだ。


 ラナージットを人質に取ったことも、ひいてはトゥルデューロたちのためでもある。もちろん誤解を多分に招く行動でもあった。


 もう一つある。彼は不器用で、一つの考えに固執こしゅうしてしまう悪いくせがある。


 それらを全てみ込んだ末の消化でないとパレデュカルという男を理解するのは難しい。


 オントワーヌはどこか自分と似通にかよった部分を持つパレデュカルをいささか不憫ふびんに思い、一方で周囲の者たちに恵まれなかった彼の境遇を残念にも思うのだ。


(貴男を取り巻く環境は、最終的に貴男が決断し、選び取ったものです。その判断に今さら異を唱えるなど無意味ですが、それにしても)


 何を思ったか、パレデュカルは戦闘意欲を失ったかのようにキィリイェーロたちに背を向けた。


「パレデュカルさん」


 真っ先に呼び止めたのは他ならない、ラナージットだった。名残惜なごりおしそうに母の胸から離れると、背を向けたまま呼びかけにも振り返らないパレデュカルと相対する。


 視線を交わさずとも、全ててくれている。ここまでの経験でラナージットには分かっていることだ。迷わず深々と頭を下げた。


 歩き出そうとしていたパレデュカルの足が止まる。ラナージットの挙動が分かっている証拠だ。


「絶望のふちにいた私を救い出してくれて有り難うございました。パレデュカルさんのお陰で、私は生きる意味を見出みいだせました。だから、だから、そんな悲しい顔をしないでください」


 ラナージットの身体の中にいるものが視せているのか。何よりもラナージットの言葉だからこそ胸の奥底まで響く。心がぐらつきそうになる。


 パレデュカルは迷いを断ちるためにも大きくかぶりを振ると、別れにも似た言葉をラナージットにだけ向けた。


「ラナージット、俺はお前が思っているような男ではない。買いかぶりすぎだ。それに、俺はお前を巻き込み、挙げ句には」


 言葉をさえぎるように、ラナージットはやや早口で答える。


「はい、知っています。人質に取ろうとしていたのですよね。でも、それは私の両親をまもるため、そうではありませんか」


 驚愕きょうがくの表情を浮かべてパレデュカルが咄嗟とっさに振り返る。その気は全くなかったのに、身体が自然に反応してしまっていた。


「私、パレデュカルさんのことなら、何でも分かるのですよ」


 およそ屈託くったくのない笑みを見せるラナージットは、消え入るような小声でつけ加えた。


「全てではないですが」


 束の間、ラナージットとパレデュカル、二人だけの世界が形成されているようでもある。


(このままでは駄目だ。俺はラナージットのそばにいるべき男ではない。俺はラナージットの中にいる幻影だ。幻影はいつか消え去るのみ。ラナージット、両親のもとで幸せにな)


 先に視線を切ったのはどちらだっただろうか。二人の邂逅かいこうはここで終わりを告げる。


「オントワーヌ、世話になった、と言っておこう」


 軽くうなづくオントワーヌが言葉をかける。


「ここで退きますか」


 彼の表情から一目瞭然いちもくりょうぜんだ。返事は分かりきっている。もはや聞くまでもない。


(私は見逃してもよいのですが。あちらは、そうはさせないのでしょうね)


「待て、パレデュカル。お前をここから行かすわけにはいかぬ。ジリニエイユのもとへなどな」


 トゥルデューロとパレデュカル、それにラナージットの視線が一斉いっせいに声を発したキィリイェーロにそそがれる。その彼は既に魔術行使の準備を整え、き放つ寸前の状態だ。


「長老、お待ちください。既にパレデュカルは」


 有無を言わせぬ圧力がキィリイェーロの言葉を容易たやすく封じていた。


光滅芒消儺祓陣弐之段バラディラパリス


 キィリイェーロの魔術が間髪かんはつをいれずに解き放たれ、正円を描く光芒こうぼうが美しく舞い散った。

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