第249話:イプセミッシュの救出のために

 ルブルコスの手から放たれた氷刃矢フィシュラムがイプセミッシュの心臓めがけて一直線に疾駆しっくする。


「馬鹿な」


 心臓をつらぬかんとする寸前だ。


 氷刃矢フィシュラムの軌道が急激に屈曲くっきょく、イプセミッシュの足元に突き刺さる。ありない事態だった。


 ルブルコスは心臓の機能をそこなわぬよう、極一点きょくいってん射貫いぬくために魔術誘導まで付与しているのだ。何らかの力が意図的に働いた結果だった。


氷刃矢フィシュラムの軌道が強引に変えられた。対抗魔術か、いや違うな」


 ルブルコスが魔眼まがんをもって、氷刃矢フィシュラムを放ってからの軌道を追確認ついかくにんする。


「なるほど、そういうことか。手出しはするな、ということらしい」


 妙に納得しているルブルコスは、その表情だけが何とも苦々にがにがしいものに変わっている。手柄てがらがどうこうの問題ではない。イプセミッシュを助けるという、その一点においては共通している。その手法だけが気に入らない。


「空間に軽々と干渉する能力、やはりあなどれぬな」


≪気に入ってくれたようで何よりだわ。本来ならば、介入すべきではないのだけれども≫


 空間の向こうから直接脳裏に響いてくる声は、抑揚よくようをさほど感じさせないながら、何とも蠱惑的こわくてきでもある。


 その中に幾分か怒気どきが混ざっていることにルブルコスは気づいている。間違いなくルブルコスに向けられたものだ。声の主とは直接の面識はない。無論、責められるいわれもない。解せぬ。そう思いつつ、声に耳をかたむける。


不興ふきょうを買った覚えはないのだが。説明いただこうか、妖精王女殿よ≫


 説明の代わりに反論が来る。


≪私のほどこした記憶の封印を破った貴男なら、分からないはずもないでしょう≫


 イプセミッシュを中心にして、およそ三十メルク上空の空間が割れていく。割れていくというよりは、むしろ塗り替えられていく、といった方が正しいだろう。


 さらに空間の奥、はるか遠くより聞こえてくるのは優しげな鳴き声だ。澄んだ美しい音色が空間を震わせながら徐々に近づいてくる。


≪少しの間、この空間を借りるわよ≫


 有無を言わせぬ口調だ。こうなってしまえばルブルコスにできることはない。空間に干渉され、氷刃矢フィシュラムが屈曲した時点で薄々は感じていたのだ。


 そして、妖精王女の能力がいかほどのものかはルブルコス自身が熟知している。もはや任せるしかない。


 妖精王女はダリニディー森林の最深部から離れることは決してない。主物質界において、その神秘的な姿を顕現けんげんすることもない。だからこそ、彼女の分身たる者をつかわせた。


 空間が完全に塗り替わると同時、半球空間が生成され、球体内部を構成し直していった。


 雪氷嵐せっぴょうらんゆるやかに流れる微風びふうへと姿を変え、足元をおお雪路せつろは緑す土の大地へと生まれ変わる。


 大気温も高度三千メルクではあり得ないほどの温暖なものとなっている。何よりも闇が遠のき、陽光が差している。


 半球空間の頂点、そこに浮かぶのは小鹿にも似た動物だ。妖精王女の怒気がそのまま伝播でんぱしているのか、全身を覆う栗色に近い見事な毛並みが逆立っている。


 頭部から伸びた四本の細い角は天に向かってそびえ立ち、雷光らいこうまとっている。四本の脚のつけ根部分から生えた黄金色こがねいろに輝く羽を小刻みに動かし、ゆっくりと大地に降り立つ。


「これは珍しい。伽鹿琥清羅ベルシュレイグか」


 つぶらな栗色の瞳が粘性液体のむちとらえられたイプセミッシュを悲しげに見つめている。久方ぶりの再会がこのような形になろうとは、どちらにとっても予想外だろう。


 イプセミッシュには、降り立ったその生物が何か分からない。体内に侵入した無数の魔食血蟲マグトゥジェがイプセミッシュの意識を奪いつつ、身体の機能も制御しているからだ。


 ゆっくりと血管内をい上がりながら心臓へと向かい、達したと同時、イプセミッシュは全てを失うことになる。


 そうなれば、高位ルデラリズの操り人形だ。命ぜられるがままに殺戮を繰り返すだけの兵器と化す。その前に何としてでもイプセミッシュを元に戻さなければならない。


 全く容易ではない。高位ルデラリズが断言したとおり、魔食血蟲マグトゥジェの侵入を一度ひとたび許してしまうと、剥離はくりするのはほぼ不可能なのだ。


 侵入時点では極小、血管内に入るや血を飲み干し、そして魔力をも食う。またたく間に肥大化ひだいかし、血管を食い破る。その時点で人としての死を迎える。


 魔食血蟲マグトゥジェは血管の代わりとなるものを有している。すなわち己の分裂行為だ。血管のごとく細く伸ばした無数の分裂体が新たな血管となり、心臓へと向かっていく。


 心臓につながったが最後、魔食血蟲マグトゥジェ本体は心臓を住処すみかとして宿主の身体を作り変えていくのだ。


≪何をしているのよ。こんなところで終わるつもりなの≫


 声には出さない。直接、イプセミッシュの脳裏に言葉を刻み込む。脳の籠絡ろうらくは心臓に辿たどり着いた後でなければ不可能だからだ。


≪何とか言いなさいよ、イプセミッシュ。魔霊鬼ペリノデュエズごときにやぶれるなんて絶対に許さないから≫


 イプセミッシュは嬉しさのあまり、身体が熱くなっている。目は見えずとも、この声、この口調を忘れるものか。変わらない。あの当時のままだ。初めて出会ったのはおよそ十年前、ダリニディー森林の最深部に建つ妖精王女の館だった。


 イプセミッシュの身体は筋肉の一つ一つが魔食血蟲マグトゥジェによって支配されつつある。言葉は頭に浮かぶものの、既に口を開くことはおろか、目も見えず、顔の表情さえ動かせない。


≪脳裏に言葉を浮かべるのよ。それで私には通じるから。さあ、やってみて≫


 辛辣しんらつでありながら、どこか優しさに満ちた口調だ。彼女らしい接し方だった。


≪ようやくの再会というのに、このような無様ぶざまな姿をさらしてしまい申し訳ない≫


 最初に謝罪から入る。頭を下げたくとも、それもかなわない。こういうところが無骨ぶこつなイプセミッシュらしい。


 人の姿だったら、盛大なため息が出ていたに違いない。伽鹿琥清羅ベルシュレイグの彼女は、その代わりに苛立いらだちの鳴き声を空に飛ばした。


≪ねえ、それが最初の言葉なの。もっと他になかったのかしら。ほら、何かあるでしょう≫


 彼女の不機嫌さがはっきりと伝わってくる。イプセミッシュは途方にくれるしかない。


 気にさわるようなことを言っただろうか。いや、そんなはずはない。何よりも彼女に見せたくない姿、不甲斐ない己の失態を真っ先に謝罪したのだ。


≪ヨルネジェア、君は、もしかして、怒っているのか≫


 気が抜けたかのように、雷光をまとう四本の細長い角が垂れ下がる。落胆、失望、様々な感情が入り乱れている。それらをみ込んで、もの悲しげな鳴き声が空を渡っていく。


≪もう、貴男って本当に変わらないわね。気のいた言葉の一つでも期待した私が馬鹿だったわ≫


 伽鹿琥清羅ベルシュレイグの姿を纏ったヨルネジェアと高位ルデラリズからめ取られているイプセミッシュ、二人の間だけ異なる時間が流れているかのようだ。


 見つめ合う二人の間には、言葉以上のものが浮かんでは消え、浮かんでは消え、している。およそ十年分の想いが行きっているのだ。


≪妖精王女殿よ、このまま放っておいてよいのだろうか。いや、よくないであろう。この場の雰囲気に全くそぐわないのだからな≫


 遠慮がちとはいえ、さすがにルブルコスもれてくる。このまま無為むいに時を費やすわけにはいかない。魔食血蟲マグトゥジェの浸食はなおも進み、刻一刻と心臓に到達せんと迫っているのだ。


≪そうね。少し甘い時間を与えすぎたかしらね。見守ってあげたい気持ちもあるけど、まずはイプセミッシュを救うことを優先しましょう≫


 告げるや、妖精王女の行動は素早かった。むしろ準備のための時間をヨルネジェアがかせいでいたとしか思えないほどだ。


 半球空間に柔らかく降り注ぐ陽光がゆっくりと変成していく。斜めに差していた陽光は真上から一直線にけ降り、屈折くっせつしながら七つの色に分かたれていった。


 黄燐ジョフォソル青嵐ヴァスファシェ緑風エテブリゼ紫雹グレプラトゥ赤雷フォルドゥル橙輝オレイラージェ水露ロレゼレトの光が揺らめき、それぞれが折り重なって光幕こうまくを創り上げる。


 本来、八つの色からるはずの光幕は一色だけ欠けている。もちろん意味がある。


≪ヨルネジェア、発動させるわよ。最後の一つは貴女にかかっているわ。しっかりやりなさい≫


 ヨルネジェアの顔に緊張が走る。息をむ音さえ聞こえてきそうだ。


 ダリニディー森林から動けない妖精王女は、己の分身としてヨルネジェアを遣わしている。当然、相応ふさわしい力をさずけている。だからこそ、彼女にはこの半球空間内ですべき重大な役割があるのだ。


 今や半球空間頂点より降り立つ光幕が一つどころに集い、ヨルネジェアの背後で静かにその時が来るのを待ちわびている。


"Or-pnia sedibar eneiyo vellia, akivojenie."


 妖精王女の言霊ことだまが半球空間内に響き渡った。

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