第145話:エンチェンツォの将来

 ザガルドアは、静かに目を閉じたまま微動だにしない。姿勢正しく、二本の脚に均等に体重をかけている。


 ここは王宮内だ。これまでなら、傲岸ごうがんな態度を崩すことなく、悠然ゆうぜんと玉座に腰を下ろしていた。それが十二将や文官たちに事実を告げて以来、一度も座っていないのだ。


 少し離れた位置で、エンチェンツォがその様子を見つめている。幾つかの書類を手にし、彼の言葉を待っているのだ。


 ザガルドアは記憶が戻って以来、物事の判断に時間をかけるようになっていた。その代わり、決断後の対応はさらに迅速になっている。


 元来、即断即決が彼の持ち味でもあった。善悪ではなく、彼の中にある明確な基準によって物事が処理されてきたのだ。


 その基準とは、言うまでもなく幼少期のひずんだ性格に由来している。記憶の復活とともに、それが一切介在しなくなった。正しく矯正きょうせいされたのだろう。何にも増して、慎重さが加わっている。


「エンチェンツォ、お前はこの先のゼンディニア王国がどうるべきだと考える。お前自身、今なお軍事戦略家を目指しているのか」


 唐突な問いかけだった。ザガルドアの口調には、親身になって心配するような思いが感じられる。エンチェンツォは驚きとともに、わずかに言葉を詰まらせた。


 迷っている自分がいる。ザガルドアが記憶を取り戻す前、武こそが正義の体制下なればこそ、軍事戦略家を目指そうと考えてきたからだ。それこそがエンチェンツォの最大目標であり、確固たる信念だった。今やそれが根底から覆ってしまっている。


 既に、ザガルドアは退位を申し出ている。戦時下での王国法に基づき却下されているものの、彼の決意は固い。


 戦後処理を終えた段階で、王位は正当後継者たるイプセミッシュに禅譲ぜんじょうされる。新体制下がどうなるかは分からない。


 これだけは断言できる。本来のイプセミッシュなら、武を最優先させるような国家体制を敷くわけもない。


「陛下、正直に申し上げます。悩んでいます。私が目指すべき道はそこなのだろうかと」


 依然として目を閉じたままのザガルドアは一度だけうなずき、先を促す。


「また、この先のゼンディニア王国に関しましては、此度こたびの戦乱を経て、事後処理を終えた時に初めて真価が問われることになるかと存じます。処理に幾年費やすかは分かりません」


 先の戦乱では、およそ七年を費やしている。ザガルドアの意思が変わらず、退位したならば、イプセミッシュが新たな国王として即位する。


「その後の王国は、イプセミッシュ様のお考え次第ではないでしょうか」


 ザガルドアが面白そうにエンチェンツォを見下みおろした。見下みくだしているわけではない。身長差から来るごく自然な行為としてだ。


「俺の意思に変わりはない。言ったとおりだ。正当継承者のイプセミッシュこそが王国を導いていくべきだからな。俺としては、今すぐにでもあいつに禅譲したいところだが」


 お前たちが許さないだろう。目で告げてくる。


「それにあいつのことだ。最後まで抵抗するのは目に見えている」


 みを見せるザガルドアに、エンチェンツォはつくづく思うのだ。冷酷無比な鉄仮面と言われたかつての姿はどこにもない。


 感情を取り戻したことで、ザガルドアは喜怒哀楽をはっきりと示し、様々な表情を見せる。エンチェンツォだけでなく多くの文官たちも、率先して彼のために働くようになっている。


「いくらこばまれようとも、イプセミッシュ様には次期国王として即位いただかなければなりません。ゼンディニア王国を統治できる御方は、イプセミッシュ様をおいて他にはおられません」


 エンチェンツォは一呼吸置くと、さらに言葉を続ける。


「そうなれば、恐らくは私の目標も変えざるを得なくなるでしょう。争いなどない平和な世界こそが最も重要ですから」


 ザガルドアは大きなため息をついていた。勘違いもはなはだしい。


「エンチェンツォ、決断するのはお前自身だ。イプセミッシュの即位後、お前がここに残るかどうかも含めてな。そのうえで、俺から言えるのは一つだけだ」


 ザガルドアがエンチェンツォに向かってゆっくりと近づいていく。


「お前のここに聞くぞ」


 ザガルドアの右手人差し指が、エンチェンツォのちょうど心臓部分に突きつけられる。


「お前の目指す軍事戦略家とは、戦いのためだけにあるものなのか。平和のためのそれがあっては駄目なのか。名称などこの際どうでもよい。お前も目の当たりにしてきて知っているだろうよ」


 一度ひとたび戦乱が起これば、最も苦しむのは最下層、特に貧困街で今日一日の食うものにもきゅうしている者たちだ。まさにザガルドアの幼少期がそうだったように。


「弱者こそ、救わねばならん。責任ある立場の者がな。エンチェンツォ、俺はお前の頭脳を高く評価している。その賢い頭脳とここでよくよく考えてみろ」


 二度、三度と心臓を突かれるたびに、エンチェンツォは己のり固まった思考が砕かれていくのを実感していた。同時に己の浅慮せんりょを痛感するのだ。


「陛下、ご助言をたまわり誠に有り難うございます。己が思い描く世界の狭量きょうりょうさに恥じ入るばかりです。今一度、大局を見つめ、私自身何ができるか考え直す所存です」


 ザガルドアに対し深々と頭を下げる。エンチェンツォは心からの謝意を示した。


「頭を上げろ、エンチェンツォ」


 ザガルドアの言葉から数ハフブル、おもむろに頭を上げたエンチェンツォの表情にはよい意味でいさぎよさが見て取れる。


「お前は頭脳明晰のあまり、それに頼りすぎだ」


 被さるようにして別の声が、まるでザガルドアが語っているかのごとく響いてくる。


「世の中はな、頭で考えて分かるようなことなど、ごくごくわずかしかないんだ。もっと広い視野を持つため積極的に外に出ていけ。そして、そこに暮らす者たちが何を考え、何を望むのか、心して話を聞け」


 ザガルドアは振り向かない。声の主が誰かは分かっているからだ。引き取るようにして、今度はザガルドア自身が言葉を発する。


「そこからしか学べないことが山ほどあるんだ。そこはな、宝の宝庫なんだぞ。そして、何よりも重要なことだ。その視線を上に置くな。限りなく下に置け。そうすれば見えないものもおのずと見えてくる」


 対照的にエンチェンツォは無意識のうちにひざまずこうとして、ひざを折り曲げかけている。


めろ、エンチェンツォ。陛下に対して立ったままのお前が、どうして私に跪こうとするのだ」


 イプセミッシュがエンチェンツォの行為をとがめる。まさに本末転倒、当然の叱責しっせきでもあった。慌てて双方に非礼をびる。


「気配を消して近寄るんじゃねえよ。で、お前、いつから聞いていたんだ」


 言葉遣いにザガルドアの地がでている。それだけ親密な関係ということだ。


「お前が、エンチェンツォの胸を突くところぐらいからだな」


 苦笑いするしかないザガルドアと、してやったりのまるで悪戯いたずらっ子のような笑みを浮かべるイプセミッシュ、二人の相好そうこうがあまりに好対照だ。これにはエンチェンツォも笑いを隠せない。


「何が可笑おかしい」


 二人同時の突っ込みに、たじろぐしかないエンチェンツォが何とも気の毒に思える。


「まあ、冗談だ。気にするな」


 気にするなと言われたものの、はい、そうですか、とはいかない。エンチェンツォは謝罪の意を込めて再度頭を下げた。


「陛下とイプセミッシュ様、本当に仲がよろしいのですね。私には何でも相談できる親友と呼べる者が一人もおりません。うらやましいばかりでございます」


 ザガルドアとイプセミッシュが顔を見合わせた。どちらが声をかけるべきか、目で相談している。ザガルドアが頷く。


「確かに、ザガルドアと私は幼き頃からのえにしがあり、こうして今も対等につき合えている。私にとっては幸運すぎるぐらいの出来事であり、ザガルドアのような男にはこの先、二度と出会えないであろう」


 イプセミッシュにとって、ザガルドアはそれぐらい大きな存在なのだ。ザガルドアにしても、それは同じだろう。そして、こればかりは見つけようと思って見つけられるものでもない。天に願いつつ、運に任せるしかないのだ。


「期待に沿えるような言葉をお前に与えられなくて済まないが、お前に生涯の友が見つかることを、私もザガルドアも心から願っている」


 イプセミッシュの言葉に目頭が熱くなる。エンチェンツォは必死で涙をこらえていた。


「ところで、エンチェンツォ、フィリエルスはどうなのだ」


 不意打ちとも言うべきザガルドアの言葉に、エンチェンツォはむせた。それこそ盛大にだ。

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