第117話:里内の異変と許嫁

 フィヌソワロの里が見える。


 ここはフルレーザ大陸を東西に横断する大森林地帯ナズアディオーニだ。今、二人が立っているナズアディオーニの東端、グローヴェ峠の頂上からは、眼下に広がるフィヌソワロの里が一望できた。


 ちょうど昼時だ。里内のあちらこちらから炊事の白煙が上がっている。緩やかな風に流され、静かにたなびいていた。


 ここから見渡す限り、何とも長閑のどかで平穏そのものだ。次期長老の座を巡って、みにくい争いが起こっているとはとても想像がつかない。


 ヴェレージャとディリニッツは、エレニディールの到着を待っていた。当の本人は、まさにグローヴェ峠に上ってくるところだ。


 西側から頂上に向かう道は二つ用意されている。傾斜のきつい北側登攀とうはん道、その逆で傾斜の緩い南側登攀道だ。


 エレニディールは、さぞかし急いだのだろう、北側の道を選択していた。息を切らすこともなく、溌剌はつらつとしている。


 その姿を目敏めざとく見つけたのは、ヴェレージャだった。驚きをもって、同郷の者にして師でもあるエレニディールを迎える。


「ここまで歩いてきたのですか。どうして魔術転移門を使わなかったのです」

「ヴェレージャ、拙速せっそくですよ。フィヌソワロの里に近いこのようなところに魔術転移門を開けば、どうなりますか」


 言われてから、気づくようでは遅い。ヴェレージャは顔をしかめつつ、自省の念を込めて口を開く。


「申し訳ございません、エレニディール。確かに、貴男の言うとおりです。こんな近くで魔術を発動すれば、確実に里の者に気づかれてしまいますね」


 横から口をはさんだのはディリニッツだ。


「おいおい、十二将のヴェレージャと同一人物なのか。何だか、いつもの残念なヴェレージャが懐かしいぞ」

「クヌエリューゾの前に、ディリニッツ、貴男を殺すわよ」


 言葉とともに、殺意のこもった視線をディリニッツに投げつける。


「そんな鬼のような顔でにらむな。美しい顔が台無しだぞ」


 効果てき面だった。ディリニッツは、ヴェレージャのあしらい方を十二分に心得ている。


「ま、また、貴男は、そういうことを、美しい顔だなんて」


 ヴェレージャの日常は、やはり今日も変わらないのだった。


「さて、痴話喧嘩ちわげんかは、それぐらいにして」

「誰が痴話喧嘩ですか」


 二人、同時に声を荒げるものの、エレニディールは聞かなかったことにして話を先に進める。


「気負いはないようですね。貴方たちのことです。実力においては、何ら心配していませんが、くれぐれも足元をすくわれないように」


 既に香術師こうじゅつしに関する知識は、キィリイェーロから聞き及んでいる。そのうえで、エレニディールは一つだけ助言を与えた。と言っても、ビュルクヴィストの受け売りにすぎない。


るべきは、大気ではなく、大地です。気をつけなさい、とのことです」


 二人の目の色が瞬時に変わる。


「大気、すなわち風ではなく、大地、すなわち土か。ならば、俺の出番だな」


 ディリニッツに続いて、ヴェレージャが応じる。


「ビュルクヴィスト様からの助言、心に刻んで戦いにのぞみます。クヌエリューゾは、私とディリニッツで必ず倒します。貴男には、取り巻きの四人、それ以外にも、邪魔立てする者がいたらお願いしたいのです」


 ヴェレージャだけでなく、ディリニッツまでもがそろって頭を下げてくる。二人の真剣な思いが、しっかりと伝わってくる。


「もちろんですよ。ディリニッツ殿、ここから先は姿を見せない方がよいでしょう。里の者に、操影術そうえいじゅつを知られたくはありません」

「承知しました。では、俺はここで」


 ディリニッツを中心に放射状の漆黒円が広がる。直系一メルクに達したところで、漆黒円の中に足元から沈み込んでいく。


「いつ見てもすごいわね。影にもぐるって、どういう感覚なのかしら」

「ヴェレージャは操影術に興味があるのですか」


 エレニディールに負けず劣らず、ヴェレージャも知識に対して貪欲だ。それを知っているからこその、何気ない質問だった。


「あるといえばありますが、使ってみたいとは思わないですね。そこはディリニッツがいますし」


 横に立つディリニッツに視線を移し、さらにつけ加える。


「私が知っている魔術などごく僅かですよ。もっと知りたい。学んで、自分のものにしたい。知識に果てはありません。私がこのような考えを持つようになったのは、師でもある貴男のせいですよ」


 屈託のない笑みを見せるヴェレージャが眩しく見える。


 二人は故郷たるフィヌソワロの里を感慨深く眺めながら、クヌエリューゾの野望に終止符を打つべく、足早に里に向かってグローヴェ峠を下るのだった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 暮れなずむ夕陽を背に、エレニディールとヴェレージャはようやくフィヌソワロの里の入口に到着した。


 二人はこの里の出身だ。魔術転移門を開けば労せず戻って来られるものの、有事の今、魔術を行使すればすぐに気づかれてしまう。


 しかも、二人揃ってとなると過去に例がないこともあり、里内に疑心暗鬼が広がるというものだ。


 とりわけ、エレニディールを目のかたきにしているクヌエリューゾにしてみれば、何としてでも口実を作り出し、排除に動くのは火を見るよりも明らかだった。


 だからこそ、二人は極端なまでに魔力を制御し、里内の誰にも悟られることなく、ここまで接近したのだ。


 いや、一人だけ知る者がいる。ヴェレージャの許嫁いいなずけロズフィリエンだ。ヴェレージャの合図を待って、里内に入る唯一の門を内側から開門する。それが彼の役目だった。


 ヴェレージャがエレニディールに向かってうなづく。


「気をつけなさい。前方およそ二キルク先、大きな魔力の波動を感じます。すさまじくよどんだ、禍々まがまがしい魔力です。クヌエリューゾではありませんね」


 エレニディールはまさかと思ったものの口にしなかった。


 ヴェレージャは両手を丸めて、くちびるに添える。指と吐息でかなでる鳥笛だ。


 フィヌソワロの里に棲息せいそくする固有鳥ジェンテンレの、やや甲高い、もの悲しげな鳴き声が風に乗って空をけていく。


 里を囲む数々の樹木を通り抜け、次々と哀愁あいしゅうを帯びた木霊こだまを返していく。


 しばらく待つ。やがて、両開きの門の片側だけが、音もなく静かに開いた。人が横になって通過できるほどの、わずかの隙間すきまだ。


 中から一人の男が顔を見せる。ロズフィリエンだ。


「ヴェレージャ、待っていたよ。早く中に」


 懐かしい顔だった。何年ぶりになるだろうか。ヴェレージャは、身体をすべらせるようにして門をくぐり抜ける。


 ロズフィリエンが、すかさずヴェレージャの手を取って抱き締める。ヴェレージャが狼狽ろうばいしている間に、エレニディールも問題なく通過していた。


「ちょ、ちょっと、離してよ。今はこんなことをしている場合ではないでしょう」


 突き放すように告げる。久しぶりに会えた嬉しさ、興奮からか、ヴェレージャを離さないロズフィリエンをもどかしく感じたのだ。


 これまでの感情とはいささか違う。里から出て、外の世界で長く過ごすうちに、ヴェレージャは閉塞世界で緩慢な時を過ごすエルフ属の生き方に疑問を持つようになっている。


「す、済まない。君に会えた嬉しさの余りつい。確かに、君の言うとおりだ。一刻も早くクヌエリューゾを止めなければ」


 打って変わって、緊張の面持ちで答える。焦燥感が多分に含まれている。


「何があったのです」


 突然の声、しかも男の発する言葉に、ロズフィリエンは驚きの眼差しを向ける。見知った顔だと分かった途端、安堵のため息を吐いていた。


「エ、エレニディールではありませんか。いつから、ここに。そんなことよりも、貴男が来てくれたことは何よりの僥倖ぎょうこうです。ぜひ、力を貸してください」

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