第13話  ジャックとタルト  その3

 1


 時は遡り、ありすが夢に迷い込む二日前。

 

 空が青い。柔らかな風が城壁に掲げられた旗をひらめかせている。


 例え、赤子が老人になるほどの時間が過ぎたとしても、あの空に輝く太陽はほんの一ミリすら動くことはないだろう。そして女王もまた、あの太陽と同じようにいつまでも王として君臨し続けるのだろう。


 ジャックは今日の勤めを終え、帰路についていた。

 帰る前にタルトの許へ行こうと倉庫を訪れたが、結局穴に入る手前で引き返してしまった。


 怖かった。


 彼女に会って、彼女に別れを伝えるのが。彼女が奉納されると聞いてから、一度も彼女の部屋に行ってない。普段は少なくとも二日に一回は足を運んでいるのに。


 タルトは明後日死ぬ。女王に食われて。


 いつかは別れの時が来る。そんなことは最初から判っていた。あの場所の真実を知った時から覚悟してきたことだった。そう、覚悟していた……


 革命家タラントが処刑された広場を横切り、歓楽街へ足を運んだ。広い道は常に人波でごったがえしていて、前に進むのも一苦労だった。

 道の両脇には多くの店が軒を連ねており、血気盛んな商人たちがせっせと客を呼び込んでいる。広場では大道芸師たちが大技を繰り広げ、その広場の入り口付近では魔法薬の実演販売が行われていた。


 この賑わいも女王が生きていてこそのものだ。


 もし女王が死に、太陽と月が交互に顔を出すようになれば、きっとこの活気も今の半分以下になってしまうだろう。人々は毎夜訪れる闇に怯え、暗い夜を過ごさなくてはいけなくなる。



 だから女王は少女を食べるんだ。でも……



 頭では理解していても、感情が追い付かない。


 ――どうしてタルトなのだ。彼女じゃなくてもいいじゃないか。


 心の中で悪魔が囁いた。


 ――他の少女が食われるときは仕方のない犠牲だと割り切っていたではないか。なぜタルトはダメなのだ? 彼女は女王の魂となって、この空を守るのだ。彼女は死ぬのではない。女王の中で生き続けていくのだ。


 天使も反論する。


 ジャックは足を止めて考えた。


 どうすればタルトの命を救える?


 彼女に残された時間はあと二日。この二日で何ができる?


 女王に嘆願しようか。


 エリナ女王に直訴したところでどうにかなるとは思えない。女王にとって何より重要なのは国益だ。

 もしタルトの助命を請うならば、それに見合ったを差し出さなければならないだろう。女王に匹敵するほどの魔力を秘めたタルトと同等の何かなど、自分は持っていない。


 奉納を先送りにすれば、いや――


 仮に何らかの事情を付けてタルトの奉納を先送りにできたとしても、それは根本的な解決にはならない。


「さあ、さあ、世にも珍しい火を吹けるようになる最新の魔法薬だよ。温度は低いからお子さんでも安心だ。赤、青、緑に虹色まで、色の種類も豊富だよ。そこのお兄さん、ちょっと見て行ってよ」


 実演販売の売り子に呼び止められたが、今のジャックには彼女の声など届かなかった。通行人たちはジャックを横目に見ながら、彼を避けて進んでいく。


 残された道は一つしかなかった。それはあまりにも過酷で失敗の許されない茨の道。


 逃げるしかない。


 タルトを連れて逃げるのだ。


 ――どこへ? 女王から逃れられると思っているのか。無理に決まっている。


 天使の嘲笑が聞こえる。


 たしかに馬鹿馬鹿しい考えかもしれない。しかし、タルトが生き残るにはこの方法しかないのだ。彼女のいない世界を考えてみろ。そこにいったいどんな価値がある?


 ――女王を敵に回すのか?


 エリナ女王を敵に回せば、この国で生きていく道はないだろう。そう、この国では……


 タルトと一緒なら、例え夜の世界だって生きていける。彼女と添い遂げられるなら……


 マッド・ハッタ―に志願すれば、彼らの庇護の下で生きていける。元女王軍として有益な情報も提供できるだろう。それを交換条件にタルトと自分の安全を確保するのだ。


 そうだ、そうしよう。


 それはあまりに短絡的で狂気的な考えだった。


 今、このジャックという男は一人の女のために国を裏切る決意を固めたのだ。事実として、タルトが生きながらえる道は亡命しかない。何もせぬまま二日経てば、確実に彼女は死ぬだろう。


 このジャックの決断が吉と出るか凶と出るか、それはまだ判らない。



 2



 ――コンコン。


 ノックが二回響いた。ドアではない。棚の方だ。タルトは読んでいた本に栞を挟み、棚に歩み寄った。


 ジャック?


 彼と最後に会ったのは、かれこれ一週間も前のことだった。


「ジャックなの?」


「ああ、俺だよ」


 彼の声が棚を隔てて聞こえた。


「ちょっと待ってて」


 そう言って、タルトは小走りでドアに向かい、廊下に誰もいないことを確かめた。


 時刻は三時半。

 この時間は自由時間のため、教師たちも皆、休憩室にいるだろう。それでも念のため鍵を掛け、窓のカーテンを閉めてから再び棚に戻った。


「いいよ」


 タルトが言うや否や、棚がゆっくりと横に動き始めた。


 棚が動くにつれて、棚と壁の間に隙間が見えてくる。それはやがて大きな穴となり、ジャックが姿を現した。律儀にブーツを脱いで穴の縁に置き、物音を立てないようゆっくりと這い出してきた。


「久しぶりだね、タルト」


「うん。でも、どうしたの? 一週間も間を空けるなんて。突発の遠征でもあったのかしら」


「いや、そういうわけじゃないんだけど」


 ジャックは斜め下を見つめながら言った。その声はかすかに震えている。


 ジャック?


 今日の彼はいつもとどこか様子が違った。いつものような覇気がなく、何かに怯えているようだった。額にじっとり脂汗を浮かべ、目は落ち着きなく震えている。


「お勤め帰り?」


「ああ、判る?」


「だって、軍服を着てるじゃない。何でも判るわ。ジャックのことはね。今日はミートパイを食べたでしょう。口元にソースがついてるわよ。それとちょっぴり汗臭い。ジャックはそれほど動き回る仕事じゃないから、きっと何か嫌なことがあって、それで緊張して汗をかいたのね」


 ジャックは答えなかった。うつむき、下唇を強く噛んでいる。今にも血が噴き出しそうだ。やはり彼の様子がおかしい。


「何か私に隠しているでしょ」


「いや――」


「嘘。私、嘘は嫌いよ。嘘は人の心を汚すもの。とりあえず座りましょ」


 ジャックを促し、ベッドの縁に二人で並んで座った。彼は両手を膝の上に置き、少し前かがみになっていた。


 がっちりと膝を掴んだその手は、足の震えを止めようとしているふうにも見えた。荒い呼吸を繰り返しながら、ジャックは中空を見つめている。

 外から少女たちの声が聞こえてきた。カーテンの隙間からかすかに漏れた光が伸ばした足の先に触れた。暖かい、慈しみの光だ。


「タルト」


「何?」


「君の奉納が決まった」


 一瞬、時が止まったように感じたのはきっと錯覚ではないだろう。周囲の色彩が限りなく白に近くなり、ジャックの言葉の意味を理解するまでその幻覚は続いた。


「そう、ようやくなのね」


 安堵の息をつくと、ジャックは驚いたような顔を向けた。今日、初めて目が合った。


「怖く、ないのか?」


「どうして? 不思議なことを聞くのね。怖くないわ。だって、見てよ。この光を」タルトは足先で太陽光を示しながら「女王様の魂と一緒になってね、私はこの光を守るのよ。この国のために、それはきっと素晴らしいことなんだわ」


「君は死ぬんだよ?」


「死ぬんじゃないわ。エリナ女王様と同化するのよ。エリナ女王様の中で私は永遠に生き続けるの。それは何よりの幸せなのよ。そして皆それを望んでいるの」


 先週のエリンの顔を思い出す。


 彼女は十歳という若さでその魔力を見込まれ、女王に捧げられた。そして、彼女は今も生きている。

 この陽射しの暖かさに、エリンの命を感じるのだ。いや、エリンだけではない。今まで女王に捧げられた少女たちの魂が、この光には溢れている。


「長かったなぁ。いつもいつも、不思議に思ってたの。皆はだいたい十二歳前後でここを出ていくのに、どうして私の番はいつまで経っても来ないんだろうって。まあでも、その分ジャックと一緒にいて楽しかったけどね。ありがとうジャック。私の友達になってくれて」


「……タルト」


「今までありがとう、ジャック。私のこと忘れないでね」


「タルトっ!」


 絞り出すような彼の叫び声が小さな部屋に響いた。


「聞こえちゃうよ、皆に」


 体を少しだけ倒して、ジャックの肩に寄り掛かった。


 彼の体温が、息遣いが、よりはっきり伝わってくる。自分の鼓動も彼に伝わっているだろうか。タルトは彼の腕に自分の腕を絡ませた。服越しに彼を感じる。


「ジャックさ、ブーツに湿った土が付いてたよ。踵のとこには固まった泥も付いてる。ここ一週間は雨が降ってないのにどうして?」


「厩舎まで行ったからだよ。馬を借りてきたんだ」


「何のために?」


 ここでジャックはタルトの腕を優しく解き、立ち上がった。


「一緒に逃げよう。ここにいたら殺されてしまう」


 彼は振り向かない。


「殺される? 違うわ。女王様と一つになるのよ」


「違う。あれはただの殺人だ。君は血を抜かれ、体をバラバラに解体されるんだ。肉は丸焼きに、内臓は煮込んでスープに、血はワインとソースに混ぜ込まれて……そして女王の御膳に並ぶんだ」


「それは仕方ないじゃない。そうしないと女王様の体に取り込んでいただけないのだから。過程だけに注目して全体を見失うのは感心しない考え方よ」


「あれは単なる殺戮だ」


「どうしてそんなことを言うの? 悲しいわ。そのおかげで、女王様は老い衰えることなく、ご壮健でいられるんじゃない。それに逃げるってどこへ逃げるの?」


「ずっと遠く、女王の手が届かない『夜の世界』まで」


「私は夜を見たことがないわ。とても寒くてとても暗くて、そしてとても寂しい場所だって聞いているけど」


「夜の世界には女王に反対する革命家たちがいるんだ。彼らのところに行けば、きっと安全に暮らしていける」


 タルトはため息をついて、


「話にならないわ、ジャック。あなたは私に暗黒の道を進めと言っているの? エリナ女王様と一体化し、この国を守るチャンスを捨てろと言っているの? 私がどれだけその日を待ち望んだのか、あなただって知ってるはずよ」


 思わず声に感情を乗せてしまった。もし近くに誰かがいて、今の言葉を聞いていたとしたら……


 タルトは息をひそめて耳に神経を集中させた。少女たちのかろやかな笑い声がこの険悪な空気を浄化するように響いている。廊下からは足音一つ聞こえなかった。


「……タルト、君は生きたくないのか?」


「何の希望も保証も無しに、漠然と夜の世界で生きていくくらいだったら、女王様の魂に導かれたいもの。ジャック、あなたはどうなの? 私にばかり喋らせて、あなたの気持ちはどうなの? なぜ私をそこまでして生かしたいのよ」


 気がつくと、タルトの頬には涙の筋が流れていた。こんなに感情的になったのは久しぶりだった。

 ジャックが自分の部屋に迷い込んで十年が経つ。思い出の一つ一つが走馬灯のように駆け巡った。


「答えてよ、ジャック。私を連れて行きたいなら、私に国を捨てろと言うのなら、私の『価値観』を変えるようなことをその口で言いなさいよ。私が心から生きたいって、そう思えるようなことを言いなさいよ……お願い、言って――」










「好きだ」








 ジャックは振り向きざまにそう告げた。


「初めて会った時から、僕は君が好きだった。最初はこの感情に気づかなかったけど、今でははっきりと判る。僕は君が好きだ。だから君と一緒に生きていきたいんだ。例え、女王を敵に回したとしても」


 ジャックはその場に膝をつき、タルトの手を握った。



「私、『君』って名前じゃないわ」



「僕はタルトが好きだ」



「私もジャックが好き。昔から好きだった」



 それからしばらくの間、二人は抱き合ったまま離れなかった。





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