短編.1
叔父は読書家だった。
私の手には長すぎる箸を持って、ぼろぼろになってしまった骨を一本一本拾った。今も聞こえる啜り泣く声は、向かい側で骨を骨壺に治めている叔母のものだろう。「骨、ずいぶん砕けてしまってるね」と誰かが呟いた。
私の母の弟にあたる叔父は、四十を超えて心臓病を
私は、叔父と仲が良かった。と思う。二人に子供はいない。それゆえによく面倒を見て可愛がってくれた。加えて叔父とはお互いに本好きで馬があった。
叔父は読書家で、といってもどんな種類の本でも読む人だった。
ある日は大衆文学を。ある日はライトノベルを。伝記も、宗教本も、児童書も、参考書や辞典を眺めているときもあった。入院中でも読書好きは変わらずで、家にある本を叔母に持ってこさせてはずっと読みふけっていたそうだ。
そんな叔父は、もういないけど。
こうして彼の骨を
その日私は雑誌に載っている小説を読んでいた。例によって叔父の持ち物だった。
「やっぱり本はいいなあ」
叔父がひとりごちた。確か、その日はファンタジーを読んでいた気がする。息絶えた妖精を拾った主人公の青年が、妖精の亡骸を元の国に返すために奮闘する……というような話だったはずだ。
「それ、面白かった?」
「ああ。妖精が生きてる時の描写がないのが悔やまれるくらいだ」
「妖精って最初から死んじゃってるんだっけ」
「もはや、喋ってるシーンすらないんだよ」
逆に妖精らしくていいのかもしれないけど、と言って笑っていた。分け隔ても偏見もなく本に触れる人だったから、なんでも描かれたままに受け取っているのだと思っていたけど、叔父にも夢やロマンに対する理想像なんてものがあったのかもしれない。
ややあって、表紙を撫でながら叔父が口を開いた。
「おれはさ、今病気じゃないか。だから、いつかは分からないけど、必ず嫁さんや姉さんより早く死ぬだろ?」
「……まぁ、そうかもね」
「となると、葬式が行われて、おれは火葬されるわけだ。火葬されたらおれ、骨だけになるだろう。でも骨なんてほとんど残らないと思うし……、なにも残らないのと同義だと思うんだよ」
なにも残らない、という言葉に引っかかった。骨は、確かにあまり残らなかった。砂のような灰の方が多くて、机の上に広がった叔父の骨は、乾いた油絵具が剥がれたみたいだった。
「なにも残らないといっても、さすがにお墓とか、色々あるでしょ」
正直私はいたたまれなかった。生きている人の、亡くなった後の話なんて快くできるわけがない。しかし叔父はやんわり否定した。
「そういうことじゃなくて。おれもお前も、たくさん本を読むだろ? 本を通して色々覚えたのに、死んだら全部なくなるのが、なんだか勿体なくてなあ」
「あぁ、そういう感じのね……」
考えたことがなかった。私は叔父と違って死後だとか死生観だとか、精神論的な本は好まなかったから。
「でもこれを読んだら、ちょっとまた考えてみようと思えたよ」
例の本を嬉しそうにかざした。
「そんなに面白かったんだ」
「ああ」と、最初に聞いたときと同じ返事をして、叔父は私にその本を差し出した。
「これを貸すから、是非読んでくれよ。きっと驚くぞ」
綺麗に保管されていた、本屋のカバーのかかった文庫本はそうして私の手に渡った。私はそれを読んだけど、返す機会のないまま叔父は他界した。
遺骨をまとめ終わった。陶器の骨壺の蓋が閉じられると、やけにそれは小さく感じた。叔父は私の父よりも背が高かったから、その反動のようなものだろうか。
「部屋はどうするの?」
ぼんやりしていると、集まっていた人々は散り散りになっていて、私の母は叔母にそんなことを聞いていた。叔父の部屋というのは叔母との寝室のことではなく、彼の書斎を差した言葉だ。なんとなく気になって、母の隣に身を寄せた。
「まだ決めてないの……なにせ本ばかりだから。片付けられる物だけ片付けちゃおうとは思うんだけど」
「手伝うわ。明日にでもゆっくり取りかかりましょう。急ぐ必要ないんだから」
「ええ、そうね」
目尻に浮かんでいた涙を拭い、叔母ははにかんだ。「私も行くからね」と言えなかったのは、叔父が貸してくれた本を返す機会が、思わぬ形で恵まれてしまったからだろうか。
書斎は綺麗なものだった。
叔父の亡骸を火葬した翌日、私と母は約束通り遺品整理に来た。父はお墓やらのことで手を貸しているらしい。叔母と母がリビングにいる間、私は先に書斎に上がらせてもらっていた。
掃除が施されている。部屋の壁はほとんど本棚で覆い尽くされていて、時折穴があいたように壁紙が覗いてポスターが貼り付けてあった。その内の一枚は満月の写真だ。ぽっかり浮かんだ月の表面はザラついていて、クレーターの名前なんかが丁寧に記してある。真隣の本棚の隅に図鑑が並んでいた。タイトルはことごとく『月の種類』『空の名前』『宇宙図鑑〜銀河系〜』といったものだ。叔父の視野は、私の知り得ないところでどこまで広がっていたのだろうか。叔父はもしかして、このポスターに書かれた名称一つ一つを覚えていたのだろうか。書いてあるだけでもかなりの数だ。実際はもっともっとたくさんあるはずで、書斎のデスクには比較的号の新しい雑誌や新聞も重ねてあった。もし月や宇宙に関する記事を読んでいたとしたら、叔父の頭にはどれほどのものが詰まっていたのだろうか。
私は思った。読書家だった叔父が死んだことは、この世の大きな損失なんじゃないかと。叔父はもういない。叔父が愛した本も、愛した知識も、愛した物語も、叔父とともに死んでしまった。
書斎が急に埃っぽくなった気がして、
この後、母と叔母がやって来たら掃除が始まる。せめて換気でもしようとデスクの裏手に回り込んだ。
「……あ」
文庫本が並んだ棚が、妙に空いている。その理由をはたと察した。
私は、ついぞ返せなかった本をカバンに入れて来ていた。
日本の地で事切れた妖精は、結局、主人公とその周りの人間たちの協力あって祖国で眠ることができた。しかしそこに至るまで随分と波乱があった。そもそも非科学の存在でありファンタジーの存在である妖精だ。死んでいるのはむしろ
叔父が「驚くぞ」と言っていたのは、この──、
「さぁ、そろそろ始めましょうかね」
母がそんな言葉と共に入ってきた。後ろに続いた叔母の顔は、
部屋に足を踏み入れた母が、月のポスターを見て「あっ」と顔を明るくする。
「あいつ、まだこういうの持ってたんだ。懐かしいー」
「叔父さん、昔から月とか好きだったの?」
どうやら私のおぼろげな想像は当たりだったようで、母は感慨深く頷いた。
「図鑑とか見るようになるのが早くてねー。星座とか太陽系とか、私よりよっぽど早く知ってたのよ」
散々話してくるから、私も逆に色々覚えちゃった。と母は笑う。
「星のこととか調べるようになって、むしろあんな本好きになったのはその後。どんどん興味の幅が広がっていって、おかげで妙に賢くなっちゃって」
「ふふ、そうね。あの人、他の同年代より賢かった」
叔母も懐かしむように目を細めた。まるでポスターの月が眩しいみたいに。
「あの人学生の時、わたしに『月が綺麗ですね』って言って告白したの。わたし何言ってるのか分からなくて、しばらく悩む羽目になったのよね」
「“月が綺麗ですね”?」
「あら、知らないの? “月が綺麗ですね”っていうのは、夏目漱石が“I Love You“を日本語に訳した言い方なのよ」
吐息が聞こえた。
まかれた種がいっせいに芽吹いたような、新しい季節の訪れが肌に触れたような感覚が胸の内からせり上がった。叔父の知識が、純粋な好意が、こうして今二人の知識や思い出になっている。私はそれを突如実感して、あやまって涙をこぼしそうになった。
叔父は言っていた。「死んだら、折角見てきたものも自分ごと消えてしまう」と。
今なら、
叔父は──叔父は死んだけど。その体すら、灰になったけど。叔父の息遣いは今も聞こえてくる。
終/短編1.『灰にならなかったもの』
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