SIGN32 これが人間の「感情」だ!

「……すまんなぁ、蒼仁あおと


 達月たつきが心底すまなそうに入れる謝罪の言葉は、とうぜん何のなぐさめにもならなかった。


「達月さん。俺、まだ、言ってることがわかんないんだけど……」


「今ハムが言うたとおりや。ほかのみんなの事情は知らんけどな。ワイが、なんで今まで普通の人間みたいに動けとったのかはわからんけど――」


 ここで、達月は一呼吸置いた。次の言葉を口に出すのに、それだけの覚悟が必要だったようだ。


「――ワイは、もう死んだ人間なんや」


「なんで! なんで今になってそんなこと言うんだよ!」


煌界ここへ向かう階段を、少しずつ昇るうちにな。記憶の方も、少しずつはっきりしてきたんやわ。ワイ、まだ全部は思い出しとらん言うたやろ。なんでワイの家族の、ワイに関わる記憶を消してきたんか、やっと思い出したんや……」


 蒼仁には、何もかもが信じられなかった。達月の言葉も、内容に反してまるで平然としているように見える達月の表情も。対照的に、「達月くぅぅん……」と、涙と鼻水を垂れ流しまくっているハムの姿も。


 次に続く言葉も、深刻な内容に関わらず、表情や口調はあくまで淡々としていた。


「ばあちゃんが、車で孫をはねた。

 ――まあ、つまりワイや。そんな記憶、持ってても家族の誰も救われんやろ? いっそワイのことなんかまるっと忘れた方がずっとマシやろ? せやから、ワイは死ぬ直前に、家族全員からワイの記憶を消したんや。

 それが、なんで生きてあのアパートに暮らしとったんかわからんけど――ここに来るまでの時間を少しばかり、大精霊とやらにプレゼントされたんや思うたら、なんか納得できるんやわ。まあ、それなりに楽しかったし、な」


 達月の手が、涙と鼻水でべちょべちょになったハムを拾い上げ、てのひらでそっと包んだ。

 達月とハムとの付き合いは、蒼仁たちよりも長い。二人でたくさんの料理を作って食べて、変な料理教室までやらかした。数々の思い出があふれ出てくるようだ。


「せやから蒼仁、ハム。一緒に行けるのはここまでや。ワイは動物霊らしく、ここで役目をまっとうするために来たんや」


「……じゃあ、もう、一緒に帰ることはできないってこと……?」


 当の達月が落ち着いているのに。ハムほど無様ぶざまな姿をさらしたくないのに。

 意志に反して、蒼仁は今にも崩れ落ちそうな自分の体を支えるのに精いっぱいだった。


「なんでだよ……! 一緒に日本へ帰るんじゃなかったのかよ! シェディスも!」


 蒼仁の両手がシェディスの細腕をつかんだ。

 こんな乱暴なこと、今までしたこともないのに。それに気づく余裕すらない。


「まさか、シェディスも死んでるなんて言わないよな!? シェディス、一緒にカナダで遊びたいって言ったじゃん! あの言葉、どうなるんだよ!」


「うん……。ごめんね、アオト」


 シェディスもだ。なんでこんなに落ち着いてるんだ。

 蒼仁とハムだけが、事態についていけずに動揺している。


「私は、何度も死ぬような経験したから……。どこかで、ほんとに死んじゃったのかも。

『死ぬ』って、もうアオトとは遊べないってことだよね。それは悲しいよ。でも、一緒にカナダへ来れたし、一緒にそりに乗ったり、キャンプしたり……楽しいこと、たくさんできた。だから、それは嬉しいんだ」


 ウィンズレイも、ゲイルとブレイズも、シェディスと同じような境遇だった。

 突然太陽を失った、カナダの厳しい冬が彼らの命を奪っていたとしても、あり得ない話ではない。


 でも、なぜ、霊狼ヴァルズたちはこんなにも静かに運命を受け入れようとしているのか。

 蒼仁とハムは、なぜ、こんなにも納得できないのか。なぜ、こんなにも胸が張り裂けそうなほどに苦しいのか――。


 蒼仁は自問した。


 そうだ。これが、動物にはなくて、人間にはあるもの。


「感情」だ。



  ◇ ◇ ◇



 嫉妬しっと侮蔑ぶべつ怨恨えんこん憎悪ぞうお傲慢ごうまん強欲ごうよく


 悪い感情ならいくらでも思いつく。どれも、動物にはない感情だ。


 では、良い方の感情は?

 愛情。友情。慈愛。思いやり。

 周囲を元気にしてくれるような明朗快活さ。

 仲間や弱者に見せる、優しさ。


 どれも、人間だけが持つ感情、だろうか?


 人間の感情を、そのまま動物にあてはめるのは間違ってるだろうけど。

 良い方の感情は、シェディスたちを見ていると、動物たちももともと持っているような気がしてならない。


 人間だけが持つ感情なんて、どれもろくでもないものばかりだ。

 こんな風に、思考を沈ませて、体調を阻害し、動きを止めてしまう。


(とても受け入れられない! 理不尽だ! 納得できない!

 こんなの嫌だ!!)


 霊狼ヴァルズたちが前に進もうとしているのに、自分だけが何の役にも立たない感情に支配されている。


 そうだ、何の役にも立たない。生きるのに必要ないものなんだ。だから動物たちは持たないんじゃないか?


 でも、これが人間、これが自分。

 負の感情から逃れることができない。

 じゃあ、どうすればいい?


 ――感情を原動力として、行動に変える。問題解決のために動く。それしかない。

 何もせずにグジグジ考えてるのが一番ダメだ!



  ◇ ◇ ◇



 ――という思考をまたたく間に展開した蒼仁は、数秒後に早速動き出した。


「大精霊ー! 聞いてるんだろ!」


 みんなが仰天ぎょうてんして見つめる中、かまわず蒼仁は声を張り上げる。


「みんなだけ先に行かせて俺は帰るなんて、納得できない! 俺はチームリーダーだ! みんなと一緒に最後まで戦う!」


「あ、蒼仁。何言うて……」


「みんなを変化させたり、死んでるのに実体を与えたりできるんなら、その逆もできるんだろ! この先は霊狼ヴァルズしか行けないってんなら、俺も霊体にしろ! 俺は今まで何度も霊狼ヴァルズたちの記憶を取り込んだ! だから、俺にも資格があるはずだ! 俺も、霊狼ヴァルズになる!!」


 達月は開いた口がふさがらなくなり、ハムは鼻水が五メートルほど吹っ飛び、ウィンズレイは尾をピンと立て、ゲイルとブレイズは「ワフッ」と声を漏らした。


 父は、『ダメだ、蒼仁』とさとすように息子の前に立った。


『自分から死にに行くようなものだぞ。お前だけでも帰らないと、母さんが悲しむ』


「だったら最初っから実体化なんかするなよッ! みんなにまだ生きてると錯覚させて、思い出もめいっぱい作らせて、みんなで一緒に帰ろうって誓い合わせたりするなーッ! もう、みんなも同じなんだよ! 帰りを待ってる人たちがいる! パーシャも、折賀おりがさんに甲斐かいさんも、理事長にキンバリーさんにシルミクさんだって! 無事に帰らなきゃいけないのは俺だけじゃないんだ! みんなだって……みんなだって、本当は、帰りたい、はずなんだ……!」


 終わりの方は、自分でもうまく声が出せなくなっていた。


 感情的になってはいけないと、母に何度か言われたことがある。

 今の自分は情けないほど感情的だ。

 でも、これが人間、これが自分なんだから仕方がない。


 シェディスは、静かに手を伸ばし、これ以上ないほど優しく、蒼仁を包み込んだ。


「アオト、優しいね。アオトはいい子だね」


「……シェディス……」


「アオトと会えなくなるの、寂しいよ。でも、アオトが帰れなくなるのは、もっと……」


 その時。

 けものの三頭――ゲイルとブレイズ、ウィンズレイに電撃のような緊張が走った。四肢ししに力を込め身を低く構えながら、天空をにらんでうなり始める。

 正確には、「煌界リュースから見えた、青空のようだった空間」を。


 空間が再び、黒く覆われていく。まるで生きているかのような動きで、視界いっぱいを侵食していく。

 全員がすでに何度も見てきた光景、だが――


『「天空」がいやし、「光架こうか』が記憶を戻し、「双焔そうえん」が浄化した動物霊たちと、「刃風はかぜ」が払った王の記憶。双方が再び動き出した。それも、かつてないほどの規模で……何があった……?」


 蒼仁の父が、低い声で告げる。

 蒼仁もたまらずに再度声を上げた。


「大精霊! 俺も行く! みんなと一緒に、本物の空を取り戻す! 俺はそのためにここまで来た! 俺は召喚士、そして霊狼ヴァルズの一員! 森見蒼仁だァーッ!!」


 渦が動きを変えた。蒼仁を中心に、蒼仁に襲いかかるように空間が猛々たけだけしく咆哮ほうこうを上げる。


 その中心に向かい、もう何度目になるかわからない召喚を唱えた。


「『天空』! 『光架』! 『双焔』! 『刃風』!

 森見蒼仁が願う!

 みんなの力で、天空に真のひかりび覚ませ!!」

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