第1章 晴海遊善

第1話 晴海遊善1

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「何でみんなケータイ持ってるのに、俺には買ってくれねーの?」


 晴海遊善はるみゆうぜんは実の母親へ向かい、不満げにそう吐き出した。夏休みが始まって間もない七月下旬、二人きりの食卓が一気に冷えた。夜が更けてきたからではないだろう。

 母親の巴瑛ともえは正面の息子を一瞥し、箸を止めずに淡々と答える。


「そんなお金ないから」


 六畳間のアパート。部屋は二つしかなく、母親は居間を寝室代わりにしている。ちゃぶ台を退かさなければ布団は敷けず、布団を片付けなければ食卓の準備すらできない。

 全て父親のせいだ。父親は知人の連帯保証人となり、多額の借金を背負った挙句に突如失踪した。はじめは振り込まれていた養育費も既に途絶え、巴瑛はスーパーのパートをしながら女手一つで遊善を育て上げた。両親は巴瑛の兄公良きみよしが介護しており、身内に金銭面で頼ることはできないという実情が彼女の台詞に説得力をもたせている。


「そりゃそーだけど。でも、みんな持ってるし」


 それを知りながらも、しかし遊善は納得できず食い下がる。クラスメイトがSNSやメールといったコミュニケーションツールでやり取りしている中、話題についてゆけないことを歯痒はがゆく感じていたからだ。中学二年生ともなると、誰もがスマートフォンや少なくとも連絡用のガラケーを所持している。その中で遊善は自身が浮いているように感じられ、羞恥心を抱くようになっていた。


「ケータイなんて何に使うの? 部活だってやってないんだから、小銭持ってれば公衆電話使えるでしょ」


 遊善は箸を止め、拳を握り締める。本当は部活だってやりたかった。だが、金銭面で厳しいと考え断念したのだ。母親は遊善の本心を知らない。言ったところで渋い顔をされるとわかっていたからだ。遊善は母親の渋い顔を見るのが苦手だった。駄々をこねたり、必要なものを要求する度に心底困った表情を浮かべるものだから、いつしか遊善は母親の負担になりそうなことを避けるようになっていた。

 今日、こうして携帯電話を要求したのも本気ではない。淡い期待を抱きながらも半分冗談のつもりで口にしたのだ。


「はぁ、あんたはワガママばっかり言って」


 しかし、母親のその台詞が遊善の感情に火を点けた。遊善は母親へ向かい箸を投げつけ、声を荒らげる。


「ふざけるなよッ! 俺がいつワガママ言ったよッ! 部活だってガマンしたのにッ!」


 巴瑛は目を剥き、やがて辟易へきえきとした様子を見せた。


「はぁ、反抗期か」


 反抗期。思春期特有のそれはホルモンバランスの変化が一因であると考えられているが、自分の感情をその一言で片付けられることに遊善は我慢ならない。ちゃぶ台に両手をつき、前のめりになる。


「ふざけんなよッ! 俺だっていろいろ考えてるし、いろいろガマンしてんだよッ! 『反抗期』なんて一言で済まして聞く耳持たねェとか、頭おかしいだろッ!」

「親に向かってその口は何だ」


 巴瑛の顔色が変わった。眉間にしわを寄せ、肩で息をする我が子を睨みつける。しかし、遊善は怯む素振りも見せず思いの丈を吐き出し続ける。


「何が親だよッ! 子供相手だからって自分の想像内の子供に当てはめて、『反抗期の子供はこういうものだ』って押し付けて、まるで『私はわかってますよ』みてェな言い方しやがってッ! 全然わかってねェじゃんッ! 三十年以上生きてきて、何も学んでねェじゃんッ! マジで何の意味もねェ人生じゃねェかよッ!」


 次の瞬間、遊善の額にお椀がぶつかった。目の前には血走った目で我が子を睨む巴瑛の姿がある。


「出てけ」


 顔面にかかった味噌汁を腕で拭うと、遊善はサンダルをつっかけてアパートを飛び出した。

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