35.朝倉さんとぐちゃぐちゃの気持ち

「にいさーん、お夜食なにがいい?」

「チョコ」

「わかった。買ってくるね」

「夜遅いからやめて。心配だし」

「兄さんのためにできることがなくなっちゃう……」

「じゃあ、おにぎり」

「わかった」


 二十時。エアコンをガンガンにかけてようやく涼しい部屋で、俺は朝倉からもらったノートを開いていた。かれこれ二時間ほどここで勉強をしているので、そろそろ休憩を挟もうかとも思っていた。

 普段は自室で勉強をするのだが、夏場の暑い時期はなるべく美希と同じ空間にいるようにしている。俺も美希も暑いのが苦手なのでエアコンが必須なのだ。

 美希がおにぎりを握り始めたので、俺はイヤホンをつける。


「……ん? 兄さん、音楽聴いてるの?」

「いや?」

「あ、じゃあわたしがうるさいか。ごめんごめん」

「違う違う。まあ、ちょっとな」


 スマホを操作して、朝倉とのLINKの画面を開く。『あ』と適当に文字を打つと、すぐに既読がついた。


『喧嘩売ってる?』

『今大丈夫か確認しただけだ』

『大丈夫じゃなくても無理やりしてたでしょ』

『まあな』


 前の試験のときのように無理をされても困る。だから、仮に既読がつかなくても三十分くらい経ったら通話を無理やりにでも始めるつもりではあった。

 中間テストのときにした約束。朝倉が無理をしないように通話をしようというものだ。そのために俺はイヤホンをつけている。

 俺のメッセージを最後にしばらくメッセージが途絶え、代わりに着信が鳴った。


「もし」

「近くに美希いるけど、イヤホンつけてるから大丈夫だ。こっちの声は入るかも」

「おっけ。じゃあ、始めますか」

「俺としてはもう寝てほしいところではあるけど」

「それは無理」


 紙に何かを書く音が聞こえてくる。当然といえば当然だが、朝倉は朝倉で勉強をしているらしい。

 大した会話は生まれない。時折朝倉のあくびの声が聞こえてきたが、その度に朝倉が恥ずかしそうにしながら「ごめん」と言ってくるくらいだった。


「兄さん兄さん、おにぎり置いとくね」

「ああ、サンキュ」

「あと……その、通話中はお風呂に入らないように言っといてね」

「……あっははっ! わかった、言っとくよ」


 確かに、美希からすればそれも大事なことかもしれない。そういえば、まだ俺と朝倉の関係についての誤解は解けていない。


「妹さん、なんて?」

「通話中に風呂入るなってさ」

「おっと残念、もう入っちゃった」

「それは残念だな」


 冗談めかしてそう返す。また朝倉は黙って、イヤホンからは紙に何かを書く音だけが聞こえてくる。


「……残念なんだ」

「冗談だぞ」

「…………死ね!」

「はぁ!?」


 理不尽にそんなことを言う朝倉に咄嗟にそう叫んでしまう。逆に朝倉はそんな不埒な気持ちを抱いたまま俺が通話していると思っていたのなら、一体俺のことをどう思っていたのかが気になる。


「兄さん、わたし寝るね。楽しそうだし」

「ああ、うん。おやすみ」


 美希は小さく欠伸をして自室へと戻っていった。

 美希が握ってくれたおにぎりの横には『梅』『こんぶ』『高菜』と書かれたメモが置いてある。ちょうど小腹が空いているので、昆布のおにぎりを手に取る。


「あーあ。なんか疲れたから休憩しよ」

「奇遇。俺も今休憩しようと思って」

「なんか食べてるでしょ。ずるー」

「あ、悪い。聞こえてたか」

「あー、いや。気にしないで」


 他人の咀嚼する音なんてそういう趣味でもない限りは気分がいいものでもないだろうから、イヤホンを外して代わりに通話設定をスピーカーに設定する。

 スピーカーにすると、スマホから朝倉がなにかを開封する音が聞こえてきた。その直後に、ポリポリと何かを食べる音が聞こえてきた。


「お前も食ってんじゃん」

「あ、聞こえてた。ごめん」

「わざとだろお前のは」

「君もわたしのことわかってきたみたいだね」


 スナック菓子らしきものを頬張りながら、朝倉は楽しそうに笑う。どうやらさっき不機嫌になったことは忘れてくれるらしい。


「君はあとどんくらいするつもりなの? わたしもそれに合わせて寝よっかな」

「あーいや、今日はちょっと遅めまでやろうと思ってる」

「はぁ? なんそれ、わたしにはすぐ休めーって言うくせに」

「いや、違うって」


 朝倉のことは心配だから言っている。だけど、朝倉に無理をするなと言う以上は自分も無理をするわけにはいかない。それはもちろんわかっている。

 けれど、朝倉が俺のためにしてくれたことに中途半端な結果を返したくはない。


「朝倉にちょっとでも追いつかないとさ、さすがに恥ずかしいだろ」

「……なんそれ。わたしはそんなこと思わないよ。君が努力してるのは知ってる。前回だって、数学だけじゃなくて全部それなりに良い成績なのは知ってるよ。君が頑張ってるの、見てたもん」

「わかってる。朝倉が俺の事を恥ずかしい奴だって思ったりしないことはわかってるよ」

「その台詞は恥ずかしいと思うよ」

「うるさいな」


 自分でもそんなことはわかっている。それでも、少しでもかっこつけておかないと、朝倉に知っておいてもらわないと、俺まで朝倉は他とは違うんだと思ってしまいそうだから。せめて俺だけでも、朝倉の努力を知っておきたいから。


「朝倉が頑張ってるのに俺は駄目だったら、やっぱり恥ずかしい」

「……そっか。まあ、頑張ってね。無理はしないで」

「わかってる」


 通話越しにポリポリとスナック菓子を食べる音が聞こえてきた。どうやら、真面目な話の間は食べるのをやめておいてくれたらしい。気恥ずかしくてとてもペンを持つ気分にはなれないので、俺ももう一つおにぎりを食べることにした。梅のおにぎりをひと口齧る。


「じゃあまっ、わたしは君が怒るまでやれることやっとこっかな」

「怒りはしないけど」

「わたしが寝ろって言っても嫌だって聞かなかったら?」

「キレる」

「でしょ」


 さすがに本当に怒るかどうかはわからないし、もしちゃんとした理由があってもう少しだけ起きておきたいというならそれは止めはしない。あと少しでこの問題が解ける、なんてときに寝ろと言われても聞き入れられるはずもない。

 あっという間におにぎりを食べ終わってしまった俺は、最後のひとつには手を付けずにペンを握る。

 俺と朝倉は大して話もせず黙々と勉強をし続けた。朝倉のノートは相変わらず見やすくて、イラスト付きでわかりやすい。普段からかってくるのに、こういうところは真面目にやってくれるところが好きだ。


「はぁ……」

「んー? どしたの……って、日変わってるじゃん。わかったって、寝るから」

「あ、ほんとだ」

「それでなんか言ったわけじゃないんだ」


 朝倉に言われて時計を見ると、既に長針は真下を指していた。二十四時半、もういつもなら寝ている時間だ。

 最近は考えなくてもいい事まで考えてしまう。今のも、それが口から漏れてしまっただけだ。


「歯、磨いてくる。お菓子食べちゃったし。話してて」


 そう言って朝倉はビデオ通話に切り替えた。急に画面に朝倉の部屋が映る。


「ふんふーん、ふーん」

「……どうした、こいつ」


 急に鼻歌を歌い始めた。理解が追いつかない。しばらくすると朝倉はスマホを台の上において、歯ブラシを取り出した。どうやら洗面所についたらしい。


「悠斗、全然喋んないなぁ……声聞きたいのに」

「えっ、あ、悪い。そういえば朝倉のノート、やっぱり助かるよ」

「んふふふふふふ…………助かるって。助かるだって」

「怖いぞ」

「えっ」


 朝倉がこちらを見た。正確には、スマホの画面を見た。


「ふざけんなあああああ!?」


 その言葉を最後に通話が切れた。一体なんだったのだろうか。

 それに、あの若干不気味な笑み。別に不快ではないが、あんな笑顔は俺も見た事がなかった。少しだけ気になってしまう。


「まあ、朝倉はもう寝るか」


 向こうでなにか事故があったようだが、切ったのならそのまま歯を磨いて寝るのだろう。俺は大まかに決めた今日の目標のページに付箋を貼る。

 ページをめくろうとしたところで、また着信。朝倉だった。


「……もしもし」

「大丈夫か?」

「殺してください」

「嫌です」

「お願いですからさっきのは忘れてください。ミュートと間違えたんです」

「わ、わかったから。なんかよくわからんけど」

「……今回ばかりは君の鈍感さに救われた」

「喧嘩売ってる?」


 確かに鋭い方ではないが、鈍感というわけでもないとは自分でも思っている。結花が日向のことが好きだったということも実は言われる前から気づいていたし、それほど鈍感ではないはずだ。


「そういえば、部屋着も似合ってるな」

「ばかばかばかあほあほあほ……」

「ほんとに大丈夫か? 早く寝た方がいいぞ」

「……寝落ちするまで喋らせて」

「好きにしたらいいけど」

「聞き流してていいからね」


 やや不機嫌そうにしながらではあるが、朝倉は話を始めた。


「わたしね、試験めちゃくちゃ弱いんだよね」

「知ってる」

「でしょうね。でさ、入試のときももう頭ぐっちゃぐちゃで。ていうか普通に体調悪かったし忘れ物はめちゃくちゃ多いしで、もうほんとめちゃくちゃだった」

「そっか」


 当然知っている。体調が悪かったこと、時計を忘れていたこと、その時計を未だに持っていること。俺はそれを全部知っている。


「でもね、助けてくれた人がいたんだ」

「へぇ」


 自分のことかな、と。少しだけに期待をしてしまった。たとえ覚えていたとしても、朝倉が今更そんなことを蒸し返してくるわけがないとわかっているのに。


「それがわたしの好きな人」

「……ああ」


 胸が痛くなった。気持ちが悪い。そんな話はやめてほしい。ただひたすらに気分が悪かった。朝倉の容姿だ、あのとき俺が声をかけなくても誰かが助けてくれていたのはわかっている。それでも、聞きたくなかった。


「わたしが頑張るのはね、みんなから良く見られたいっていうだけじゃないの。その人に少しでもいいから恩返ししたいんだ」

「……そっか。幸せ者だな、そいつ」


 素の性格にはやや問題がないわけではないが、それを差し引いても魅力的な女の子だ。そんな朝倉にここまで想われている相手はどれだけ幸せ者だろう。


「……ばーか」

「なんだよ急に」

「ここ数日間の行動を省みてくださーい」


 ここ数日間の行動。朝倉に振り回されてクラスメイトに誤解されたり、美希の誤解が解けるどころか悪化したり。どちらかと言うと俺の方が被害を受けている気がする。


「だいたい、なんでこれでも気づかんのかなぁ……」

「どうした」

「わたしはこんなにもちゃんと好きだって言ってるはずなんだけどなぁ……」

「……その人の話、そろそろやめないか?」

「えっ?」

「あんまり、気分は良くない」


 わかっていた。それでも言わなかったのは、朝倉に迷惑をかけることになるから。

 それでもこんなことを言ってしまったのは、その男へのただの嫉妬だ。結局俺は朝倉のことを嫌いになれたことなんてなかった。そんなことはずっとわかっていて。

 なんだかんだで、俺は朝倉玲奈のことがまだまだ好きなことくらい、本当は知っているのだ。


「……ふーん」

「なんだよ」

「いや別に。ちょっとだけ光が見えたなって」

「なんだそれ」

「今日はいい夢見れそうだから、もう寝る」

「よくわからないけど、おやすみ」

「おやすみ」


 この想いを朝倉に伝えるのは、きっと朝倉にとって迷惑なことだ。だから、伝えるつもりはない。

 だからせめて、その朝倉の好きな人が朝倉を幸せにしてくれるのだったら。俺は少しだけでもいいから朝倉の拠り所になることができたらいいなと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る