第15話 あの曲を聴きながら

 その日、詩織は健人のLINEを開いていた。


 健人のLINEのアイコンは、アカデミー作品賞映画が漫画風に描かれたポスターの画像であり、

LINEのBGMは、あの哀しげな英系ロックであった。


 それは、今も昔のままであり、昔と異なるのはトーク欄が空白であることであった。


 詩織は、急に健人のBGMであるあの英系ロックが聴きたくなった。


 健人は詩織と付き合っている時もこの曲ばかり聞いていた。


 一度、詩織は健人に「何でその曲が好きなの?」と聞いたことがあった。


 健人は歌詞が好きだと言っていた。

 

 健人曰く、この曲の歌詞は、非常に深みがあり、かつ、非常に難解な歌詞であると。


 この曲の歌詞は、1967年発表以来、50年以上経った今でも、その解釈については、世界中で物議を醸していると。


 丁度、その時代はベトナム戦争が激化していた頃であり、世界の若者は反戦的な流れに向かおうとしていたことから、当初は反戦曲とイメージされていたが、


 次第にアメリカでは、この歌詞について、


「他人の子を妊娠した女を愛する話」とか、

「ドラッグまみれで、死んでいく男女の話」だとか、

「単に、女が男を振って、去って行く話」だとか、

「カンタベリー物語の『粉屋の物語』をモチーフにした、ゴシップ話を意味している」とか・・・いろいろな解釈が飛び交ったいわくつきの曲であった。

 

 今の詩織はこの曲を聴きながら、自分の事を健人に言われているような気がした。


 「お前はドラックに溺れて、俺の元から去っていた。」と


 詩織は健人のLINEの真っ白なトーク欄に書き込んだ。


 「お元気ですか。本当の事を伝えたくて…、

また、連絡します。」と


 詩織はここまでが精一杯であった。


 詩織は書き込みが終わると、「既読」の文字が浮かぶのが怖く、直ぐにLINEを閉じた。


 そして詩織は、目に涙を浮かべながら、こう呟いた。


 「私は青い影なんかじゃない。幽霊なんかじゃない。私はここにいます。健ちゃん、私はここにいます。」と



 詩織は次の日、目覚めるとトイレに行き、LINEを開いたが、健人に送信したトーク欄には、やはり「既読」が付いてなかった。


 詩織はがっかりした。


 そして、トイレの便座から立ち上がろうとした時だった。


 詩織は背中に鈍痛を感じ、かがみ込んでしまった。


 それからは、その背中の鈍痛は段々と強くなっていった。


 詩織は、薬物やヘ○イン摂取のため肝臓が悪くなったのではないかと思った。


 以前、ヘ○イン、MDMA等の薬物摂取を調べた時、肝臓癌を患うことがあると書かれたwebを読んだことが思い出された。


 また、詩織は英一に内緒で緊急避妊のアフターピルをネットで購入し、服用していたのだ。


 英一の子供が欲しいと思った時期もあったが、「悪魔の絶頂」の先に健人の面影を見出した時から子供を欲しなくなっていたのだ。


 しかし、どれも副作用の強い薬であり、肝臓の負担はかなりのものであると思ってはいたのだ。

 

  ヘ○インを摂取している以上、一般の病院に行くことはできない。

 来月には衆議院議員選挙の告知日が迫っていた。

 それは、英一の足を引っ張るといったことからではなく、自分のこの口から健人に消えた理由を述べるためにも、マスコミの餌にされたくなかったのだ。


 詩織は高校時代の同級生が熊本市内で循環器系の病院で女医をしていたことを思い出し、その友達に内々に肝臓の検査をしてくれるようお願いした。


 その同級生の医者も城下英一と何故、詩織は結婚したのか、一度会って、詩織に聞いてみたかったことからその依頼を承諾した。


 詩織は、1週間後に検査予約をした。


 英一は、子供を作るために、毎晩のようにヘ○インセックスを求めて来たが、詩織は妊娠前後は胎児に悪影響が出る可能性が高いと嘘をつき、英一とのノーマルセックスに、わざと喘ぎ、悶えるといった芝居を行った。


 詩織の気持ちは、死ねまでにもう一度だけ、健人に愛して欲しかったのだ。


 この時、詩織は既に本能的に自身の余命が短いことを何となく感じていた。

 いや、詩織は早く死にたかった、悪魔の子を身籠るくらいなら、早く死にたいと思い出していた。

 その死を代償として、もう一度だけ、健人に抱いて欲しかったのだ。


 詩織は肝臓検査の当日、いつものように、英一を見送り、病院に向かった。


 その病院に予約時間丁度に着き、受付を済ませると、直ぐに名前が呼ばれた。


 病室に入ると懐かしい顔が見えた。


 同級生の医者は、詩織にこう言った。


 「城下君に変なもの飲まされたんじゃないの?」と


 詩織はいきなりの的中に思わず、沈黙してしまったが、同級生が直ぐに、


 「冗談よ~、いや、でも、どうして詩織、城下君と結婚したの?」と話を変えた。


 詩織は同級生の医者に覚悟を決めてこう言った。


 「医者に守秘義務あるよね!」と


 同級生の医師は、やはり何かあったと思い、


 「あるよ!たとえ配偶者でも患者の同意がない以上、絶対に教えないわ」と


 詩織は一つ溜息をつき、下を向いて、それから意を決したように顔上げ、同級生を見つめてこう言った。


 「貴女の言ったとおりよ!」と


 同級生は、やっぱりというような苦い顔をして、詩織に言った。


 「絶対、守秘義務は守るから私に言ってごらん。」と


 詩織は同級生に説明した。


 「英一に拉致され、ヘ○インを打たれ、MDMAで監禁調教され、セックス依存症になり、英一の子供を作らないため、強いピルも服用している」と

 

 同級生は詩織に言った。


 「どうして、早く警察に言わなかったのよ!」と


 詩織は下を向いて答えた。


 「ヘ○インセックス中の変質的な映像を英一に撮られた。

 その時、福岡にとても愛していた男性が居て、彼にそれを知られるのが、どうしても嫌だったから」と


 同級生は頷き、もうこれ以上は聞かないというように、まず、血液検査を始めた。

 8本採取をし、検査を他の医者に任せると、詩織をMRI検査室に連れて行った。


 MRI検査の前、詩織にこう聞いた。


 「背中はいつ頃から痛みが生じ出したの?」と


 詩織は1か月前ぐらいと答えた。


 同級生は少し曇った表情を浮かべた。


 そして、詩織をうつ伏せて、仰向け、側面2箇所、計4枚の映像を撮った。


 そして、検査結果は午後3時には分かると言い、詩織に来れるか確認した。


 詩織は早く結果を知りたかったので、大丈夫と答え、病院を後にした。丁度、昼時であった。


 詩織はそれまで時間を潰すため、ランチを食べたあと、スタバーに言った。


 そして、スマホの健人のページを開き、コメント欄を見ると「既読」の文字が付いていた。


 健人からのコメントはなかった。


 詩織は、この先、どうコメントして良いか分からなく開いたまま、悩んでいると、いきなり、健人からコメントが届いた。こう書かれていた。


 「連絡してくれてありがとう。何かあるとは思っていました。

 恐らく、LINEなどで話せることではないと思います。

 もし、可能であれば、会って話しませんか?

 貴女の都合の良い時、良い場所で構いませんから。」と


 詩織は思わず涙が流れた。そして、こう書いた。


 「ありがとうございます。是非、会って説明したいです。

 貴方の迷惑の掛からない所で会いましょう。」と


 すると、健人からこう返事が来た。


 「私は未だに独り者の無職みたいなものです。貴方の方が制約があるかと思います。

 熊本で会うのは避けた方が良いと思います。福岡も知り合いが多いので避けるべきかと思います。

 どうですか、小倉駅は?」と


 詩織は、この健人の優しさに涙が溢れるのも拭こうせず、こう返事をした。


 「行きます、小倉に行きます。」と


 最後に健人から、こう返事が来た。


 「日時は追って調整しましょう。貴女が大丈夫な時に、都合の良い日時をLINEしてください。場所は取り敢えず、小倉駅の改札で待ってます。」と


 詩織はこれでLINEが終わるのが寂しかったが、まだ、電話を掛けて話す勇気がなかったので、「ありがとうございます。よろしくお願いします。」と書いて返信した。


 それからは、健人から送信はなかった。


 詩織はスマホの時刻を見ると、既に2時半を過ぎていたので、急いで病院に向かった。


 病院は午後2時から午後4時まで休診時間帯であったが、同級生の指示どおり、詩織は裏から病院に入り、同級生の診断部屋をノックした。


 中から「どうぞ」という、同級生の声がしたので、詩織は診察室に入っていった。


 同級生は、診察椅子にかけるよう詩織を促し、単刀直入にこう言った。


 「詩織、覚悟できる。私が今から言うこと。」と


 詩織はしっかりと頷いた。


 同級生は医者の口調に変わりシビアにこう言った。


 「肝臓癌です。それも末期です。肝臓の殆どが癌細胞に覆われています。手術は不可能です。延命措置の抗がん剤治療をするなら余命3年、それをしないなら余命1年です。」と


 詩織は驚きもせず、即答した。


 「抗がん剤治療はしません。」と


 同級生は言った。


 「分かりました。恐らく、3ヶ月もすれば、黄疸症状が出てくると思います。

 その時は、また、私に相談してくださいね。

 今日は鎮痛薬を処方しておきます。」と


 詩織は礼を言い、最後にこう聞いた。


 「何か制約することはありますか」と


 同級生は詩織にオデコが付くほど顔を近づけ、こう言った。


 「詩織、何もないよ。動けなくなるまで、やるべき事しておいで。」と


 詩織は泣くこともせず、嬉しそうに「うん!」と笑顔で答えた。


 詩織は病院を出て、何となく足取りが軽くなったように感じた。


 詩織は、また、普通の少女に戻っていたのだ。


 いつ健人と逢うか、そればかり、ウキウキした気持ちで考えていた。


 この1人の若い女性も、何も悪いことはしていない。

 好んで健人の元を去ったんではない。

 好きでセックス依存症になったんではない。

 好きでヘ○イン摂取の常習者になったんではない。

 好きで英一と結婚したんではない。


 そんな不運に遭遇しながらも、最後の責任、健人の愛に対する責任をしっかり果たそうとしている。

 残された短い時間の中で、英一の支配下の中で、空白の10年を埋めるために


 詩織は思った。


 「この苦しみも、残り1年なら頑張れます。神様、ありがとうございます」と


 生きるべき者が死に急ぎ、死ぬべき者が生永ら得る。


 ここに人生の矛盾がないと、誰が言えようか!


 そして、それを知りたくもない男が知り得たことにより、この矛盾を打ち壊すのであった。


 死ぬべき者は死ぬように!


 

 

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