4-9 花の香りを消すには、一杯の珈琲が丁度いい

 五日ぶりのシャワーで汚れを落とせば、いくらか気分も落ち着いた。むしろ、色々と落としすぎたような気もしながら、げんなりとしたモーリスはベッドで項垂れていた。

 頃合いを見計らったように、インターフォンが鳴った。ドアを開けると、サリーが紙袋をずいっと差し出した。


「何?」

「アイス。あんた、赤の森から戻った日は、まともに食べないでしょ。糖分ぐらいは取りなさいよ」

「よく知ってるな」

「何年、幼馴染みしてると思ってるのよ」

「もうすぐ二十八年だな」

「ねぇ、それより、少しは落ち着いたの?」

「──何が?」


 首にタオルをかけたままのモーリスを見やり、サリーは彼の青灰色せいかいしょくの瞳を覗き込む。

 つい今しがたの手淫を脳裏によぎらせたモーリスは後ろめたさを感じ、ちらりと視線を逸らせた。


「うん、大丈夫そうね」

「だから、何がだよ」

「何がって言わせたいの?」


 呆れた顔をして、サリーはすんっと鼻を鳴らしたかと思えば、ずかずかと部屋に入った。

 全部お見通しかよと聞くことも出来ず、モーリスは前髪をかき乱しながら彼の後を追うように部屋に戻った。


「汗臭いのも硝煙しょうえんの匂いも慣れてはいるけど、やっぱり石鹸の香りの方が良いわね」

「まぁ、そうだな」

「ね、コーヒー淹れて」


 勝手知ったるミニキッチンからスプーンを取り出したサリーは、袋の中からカップを一つ取り出し、残りを小さな冷凍庫に放り込んだ。

 横で水を入れたケトルを火にかけたモーリスは、安物のインスタント珈琲の瓶に手を伸ばすかと思いきや、ドリップ珈琲の用意を始めた。それを見て、サリーが目をしばたたかせる。


「珍しいじゃない」

「たまにはな」


 使い慣れたドリッパーを取り出し、カップを用意する様子を見ながら、サリーはアイスの蓋を開ける。


「時間かかるでしょ?」

「それでも、遠征の後の一杯は美味い珈琲が飲みたくなるんだよ」

「そういうもん?」

するには、丁度いいしな」

「あー、まぁ、それは分かるかも……あんた、本当にあの花の匂いが嫌いよね」

「好きなヤツはいないだろう?」

「そうかもね」


 しばらく無言でいると、小さなケトルが湯気を上げた。

 フィルターがセットされたドリッパーに湯を落として温める。そのひと手間すら惜しまないモーリスの姿を横からちらりと盗み見たサリーは、冷たいアイスをゆっくりと口の中で溶かしていた。

 缶の蓋が開けられ、ふわりと豆の香りが立ち上る。

 ドリッパーに、一杯、二杯とコーヒーの粉が入れられた。それを見ながら、沈黙を破ったのはサリーだった。


「二匹の犬は、シーバート出身の退役軍人よ」

「退役?」

「確認が取れたから間違いないわ」


 アイスのカップをシンクに置き、自身の通信端末を開いたサリーは、ほらと言ってその画面をモーリスに向けた。

 そこに写し出されたのは、三十代だろう男二人。先日、ティールームで染野慎士と会っていた女のかたわらにいた男達だと言われれば、そう見えなくもなかった。


「ヘイゼルに、しばらくミナバ商会の周辺を探ってもらったの」

「あの女とミナバに出入りしてるのをとらえたのか」

「えぇ、隠す気はないみたい」


 お湯が注がれ、蒸らされる珈琲豆からさらに濃い香りが広がった。

 サリーに視線を向けることなく、モーリスはゆっくりとお湯を注ぎながら報告に耳を傾けた。


「女はミナバ商会次期会長秘書の一人、レネ・リヴァース。だいぶお気に入りらしいわよ」

「おいおい、染野慎士はどうした。結局、あれは商談だったてのか?」

「あんたがいない五日の間にも二人は会ってるし、商談の側面も否めないわね」

「あの絡み具合でか?」


 ケトルを降ろしたモーリスは、不愉快だと言わんばかりに顔をしかめた。

 脳裏をよぎったのは、ティールームで隠し撮りをした映像だ。花園を眺める風情の欠片も感じない、今すぐにでも男女の仲になりそうな絡み具合だった。

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